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 瀧澤仁。千春が卒業した中学校で、その名前を知らない生徒は一人もいなかった。

 彼は学校では異人だった。見る者の目を惹く端正な顔立ち。貴族を思わせる上品な振る舞い。それでいて、授業中などに時折見せるあどけない表情。成績は常に学年トップで運動神経は抜群。完璧と形容されても違和感のない少年。瀧澤を知る者の大半が、彼に対して好印象を抱くのは当然なのかもしれない。

 同級生はもちろん、教師からも、後輩からも、幅広い世代から彼は好かれていた。授業中は常に生徒たちの模範として扱われていた上に、全校生徒の前で彼が弁を振るったのは一度や二度の話ではない。

 神様の子供。彼の同級生の中にはそう言って、彼を慕う者もいた。

 実際彼は完璧だった。完璧すぎると云ってもいい。彼の知識は優に中学生の域を越えていた。

 しかし、現実で完璧と呼ばれる人間にも、少なからず歪な面があるように、彼にも歪な面があった。

 


 千春は奈穂の口から瀧澤仁の名前を聞くと、焼いた串で心臓を貫かれたような心持になった。もしやとは思っていたが、未だに瀧澤が奈穂に執着しているとは、千春には信じられなかった。

「私、瀧澤に脅されているんだ」

 奈穂はそう言って口火を切った。彼女の声は千春に心配かけまいとしているのか、妙に穏やかで落ち着きのある声だった。

「脅されてるって……瀧澤たちに?どうして?」

 瀧澤の考えなど奈穂に解る訳がないと理解していながらも、千春は訊かずにはいられなかった。

「理由は多分、高校停学にさせられたらしいから、私にあたっているんだと思う」

 千春が遠慮勝ちに訊ねると、奈穂はつまらなさそうに答えた。振る舞いからして、彼女にとっては瀧澤の奇行などもう慣れてしまっているのかもしれない。しかし、千春には瀧澤の身勝手な行動が、身がのけ反りそうになるくらい衝撃だった。

 瀧澤が停学。そして奈穂への脅迫。

 突然入りこんできた情報の大きさに、千春の頭は混乱しそうになる。

 落ち着け。まずは現状を理解しないと。今度こそ彼女を支えないと……。

 千春は奈穂が置かれている状況を短時間でしっかりと記憶する必要があると思った。その為に、普段はだらしない頭を呼び起こし、彼女の言葉を一言一句忘れないよう気持で強引に体勢を整えた。

 瀧澤の名前が出た以上、悠長なことはしてられなかった。まだ寝ぼけ気味の頭だったが、現状を整理する為に、今の奈穂に訊ねておくべき事象はすぐに閃いた。

「警察には話したの?」

 奈穂の横顔をじっと見つめると、彼女の視線が一瞬揺らいだ。

「うん。話したよ」

「何て言ってた?」

「……ううん。なんだったかな。ごめん、忘れちゃった」

 千春のほうに顔を向けつつ、彼とは目を合わせず、恥ずかしそうに笑う奈穂。千春は彼女の仕種を訝しく思ったが、特に言及はしなかった。

「瀧澤のことだけど、いつから脅されてるの?」

「二週間くらい前からかな。家帰ろうと思ったら、自宅の前に張り込んでたんだよね」

 千春は奈穂の返答を聞き、密かに安堵した。彼女が中学卒業してからも瀧澤たちに付き纏わられていたとしたら、自分が何の為に生きているのか分からなくなるところだった。とはいえ、彼女が抱える問題が全て解決した訳ではない。むしろここから戦いが始まるといっても過言ではないのだ。

 千春は後ろめたそうに『そっか』と云って、これから向かうことになるであろう分厚い壁を想像し、大きな溜め息を吐いた。溜め息を吐くと、脈動する緊張を抑え、呼吸を整えた。整える必要が彼にはあった。

「それで、瀧澤にはなんて脅されているの?」

 答えは聞かなくとも見当がついていた。しかし、千春はしっかりと事実を確かめておきたかった。

「それは……」

 奈穂は千春が訊ねたと同時に、一瞬体を僅かに震わせた。

 奈穂の振る舞いは、彼女が今抱えている問題の大きさを表しているようだった。

「話したくないなら無理に話すことないからね」

「ううん。大丈夫」

 引きつった笑みを浮かべて千春の手を握り締める奈穂。千春には彼女が飛び降り自殺寸前の悩みを抱える多感な少女のように見えた。

「私、中学の時、瀧澤たちにいじられてた。毎日のように」

 奈穂は虚ろな目で中空を見つめる。瀧澤と奈穂の関係がどんなものだったのか。改めて彼女が口にしなくとも千春は知っていた。

 二人の関係は、暴力によって繋ぎ止められた主従関係だ。

 裏で暴虐の限りを尽くしていた瀧澤からの仕打ちを、それでも『いじる』と彼女が形容するのは、自らの誇りを保つ為なのか。千春はふと、瀧澤が奈穂のことを肉奴隷と呼んでいたことを思い出した。

「それで、いじられていた時の様子って、カメラで撮影されてた時もあるんだ。瀧澤はそれを……」

 奈穂が言い淀む。千春はすかさず彼女の異変に気付き、彼女が言おうとしていることを察し、代弁した。

「その時の映像を、瀧澤は脅迫材料にしているんだね?」

「うん……」

 ゆっくりと頷いた奈穂の目には、希望の光は微塵も窺えない。

 中学の卒業式の時も、こんな目をしていたっけ。

 千春は奈穂を気遣って、彼女と繋がっているほうの手に力を込めた。

 瀧澤の名前が出た時点で、千春には彼女が何に対して思い詰めているのか、大方予想できていた。しかし、改めてその予想が正しかったのだと実感すると、千春は僅かに喜びを感じた。

 彼女が自分と同じような悩みを抱えていることが、彼女との共通点を見つけられたことが、千春には嬉しかった。それでいて、彼は切なくも感じていた。大切な親友が困っていることを知り、純粋に、密かに喜んでいる自分自身を切なく、醜く思った。

 僕はなんて汚い人間なのだろう。

 場違いに暖かい春の風が、不意に二人の体を撫でた。

「でもさ、山中君……」

 千春は奈穂の声で我に返り、彼女へと双眸を向ける。

「そういうのはさ、児童ポルノ法違反とかで、逮捕できるんだよね?」

 奈穂はすがるような目で千春を見つめた。

 千春はすぐには答えを返せなかった。千春には彼女に真実を伝えるべきかどうかがわからなかった。

 奈穂の気持は千春にも痛いほど理解できた。自分よりも力のある人間が、自分に暴力を振るってくる。社会に反した行為を自らの前で実行してくる。そんな光景を目の当たりにすれば、英雄のいる世界という幻想を植えつけられて育った子供なら、誰かが助けてくれると思うのは至極当然のことだ。

 しかし、現実にはフィクションのように世の為人の為、悪と闘うヒーローなど存在はしない。学校の教師だろうと警察だろうと、ドラマのように、こちらが求めればいつでも身を挺して守ってくれる訳ではない。所詮教師も警察も、感情と規則に縛られる非力な人間に過ぎないのだ。

 この国の憲法が不完全である以上、僕たちは自分の身は自分で守らなければならない。幼き頃に、既にこの世界での生き方をそう結論づけている千春の考えは、決して間違ってはいない。故に、彼の中に生まれる一瞬の迷い。

 真実は残酷だ。救いを求めて闇の中を彷徨う少女に、この世界の不条理を、わざわざ伝えることはないのではないか。そうは思いつつ、千春は奈穂に現実の厳しさを教えた。

「警察に動いてもらうのは難しいと思うよ」

「え?何で?」

「瀧澤は僕たちと顔見知りだ。警察に話をしたって、あいつら、脅迫相手が元同級生だって分かった途端、子供の喧嘩だと事を小さく判断するに違いないよ。そうなったら警察は、事実確認の為に瀧澤の通っていた学校や、瀧澤の家族に電話を入れるかもしれないけど、夢野さんを最低限保護することだってしやしないね。元々、あの人たちは目の前で事が起きなければ、逮捕はおろか、腰を上げることだって滅多にしないんだ」

 話している間に体が熱くなっていた。警察のことを考えると、自然と誘拐犯の三枝と過ごした日々の記憶が蘇ってきた。

 絶え間なく続く虐待から解放された、苦しみのない、恐怖のない快楽だけの日々。普通の子どもなら当たり前のように手にしている幸福感を、千春は誘拐されて初めて手に入れた。

 二人で仲良く食事をし、周りを気にせず会話を楽しみ、誰にも邪魔されることなく就寝を共にする。そこには幼い頃から存在していた支配、被支配の関係は影もなかった。しかし、そんな幸せな日々は長く続かなかった。

 千春が手にした幸福を奪うきっかけを作ったのは、彼の義母だった。彼女は千春が帰宅しないと自らが犯した悪事が彼の口によって全て露呈されるのではと危惧し、その身勝手な理由から我が子がさらわれたと泣きながら千春を求めて町内を駆け回った。警察は義母の涙の訴えを聞いてから、たっぷり二日も様子を見た後、事件性があるとして千春の捜索を開始した。それから彼が警察に保護されるまでは、長い目で見れば大して時間はかからなかった。

 千春は今でも義母家族と共に生活している。以前ほどの陰湿な虐待こそなくなったが、相変わらず義母家族からは暴力を受けていた。

 義母の保身の為に、苦しみに溢れた日々に戻させられた千春。それでも彼が恨んでいるのは義母ではなかった。千春が心底恨んでいるのは警察だった。警察は、暴力を振るう義母家族の元に千春を返し、彼が唯一慕っていた男を彼の元から引き離した。

 千春は馬鹿ではない。三枝が自分と会いたいと思っていることをちゃんと知っていた。警察の目がある以上、自分に会いに来られないというのも理解していた。しかし、千春は三枝に会いに来てほしかった。無理だと解っていても、行動を起こしてほしかった。本当の父親ならそれができると信じていた。彼はそれが叶わぬ夢であることも知らずに。

 警察は所詮人間の職業にすぎない。あいつらに期待したって、何もいいことなんてない。

 心の中で悪態を吐いた千春は、不意に奈穂が大きな溜め息を吐くのを感じた。それでも収まらない警察への怒りの感情を、振り下ろすべく場所を探していると、偶然彼女の目に宝石のように輝く滴が浮かんでいることに気付いた。

「確かに、私と瀧澤は傍から見れば、子ども同士の喧嘩なのかもしれない。でも、瀧澤は法律に違反している。十八歳未満の子どもの裸が映った映像をばらまこうとしている。それなのに、警察は動いてくれないの?瀧澤を逮捕してくれないの?」

 奈穂の目に浮かんだ雫は、堪えきれなくなって、地上に一滴、二滴、流れ落ちていった。

 とうとう泣かせてしまったと千春は思った。

 こんな時、どうするのが男として正しい行動なのか。考えて、すぐに千春は奈穂と繋いでいた手を放した。放すと彼女の肩を掴んで、そっと自分のほうへと寄せた。

「今の法律では、単純所持ってだけでは逮捕できないんだ。そもそも、児童ポルノ法っていうのは、子どもを守る為の法律なんて謳ってるけど、酷いもんだよ。被害者からしてみれば、これ以上広まってほしくない裸の写真や映像を、警察は加害者を捕まえる為に、家族や検察、裁判官、ありとあらゆる人に見せて回るんだ。その結果、犯人が捕まらないことだってある。被害者が訴えたところで、警察が動いてくれないことだってざらにある。法律は所詮、人の身を守る盾という名の飾りにすぎないんだ」

 千春の現実的な言葉は、奈穂の目から零れ落ちる涙をせき止めることに成功した。その代わり、奈穂はますます現実世界への関心が薄れたようだ。いつの間にか歪な笑みを顔に張り付けていた。

「あはは!じゃあ、私が脅されていても、瀧澤がどんなに身勝手なことをしていても、実際に私が目に見えて被害に遭わない限り、誰も瀧澤を逮捕してくれないんだね」

 奈穂は空ろな目を青空へと向けて、静かに笑った。母親に手を引かれ、そそくさと千春の横を通り過ぎた少年は、忙しなく振り返りながら奈穂の顔を不思議そうに見つめる。少年の母親は、そんな彼の礼を欠いた行為を責める訳ではなく、怪しい人に近寄るなと彼をたしなめた。

 余計なことを言ってしまっただろうか。千春は奈穂の後頭部を凝視して、黙考する。

 無駄に希望を持たせても仕方ないと放った言葉は、彼の意に反して、奈穂の心を傷付けた。見せかけの希望でも、今の彼女には必要だったのかもしれない。

 僕はいつも空回りだ。気持だけで何もできない。

 千春が自らの行動に反省し、奈穂の肩に回した腕を放すと、彼女は突然綺麗で澄んだ、純粋な笑い声を上げた。まるで抑圧に押し潰されて、ふっ切れてしまったかのように場違いに綺麗な声だった。

「ははは。私、最初から人生終わってたんだ。警察に話したとしても無駄だったんだ」

 話したとしても……?千春には奈穂の言葉が引っかかった。

「どういうこと?警察には話したんじゃないの?」

 こういう時ばかり言葉が湧き出る自分が嫌だったが、千春はすかさず奈穂に訊ねた。訊ねられると奈穂ははっとして笑みを絶やし、自分を恥じているかのように顔をこわばらせて俯いた。

 いつの間にか広場には千春と奈穂以外に人気はなかった。追いかけっこをしていたハトも、雛図書館の屋根で鳴いていたカラスも辺りには影一つない。

 静寂が支配する雛図書館前の広場で、千春はじっと奈穂の返答を待った。待っている間に自分が彼女から手を放していたことに今更気付いた。

 ぎこちない動作であわてて奈穂の肩に手を回そうとして、彼女と目が合う。目が合うと奈穂は『ふふ』と再び純粋な笑みを浮かべる。

「私、警察に瀧澤のこと、まだ話してない。ううん。正確に言うと、話せなかったんだ。警察の性暴力被害相談所ってところに電話したんだけど、恥ずかしかったのかな?瀧澤のこと話そうとすると、声が上ずっちゃって……言葉に詰まって……ろくに話せずにいたら、電話切られちゃって……。だから、今日は本当は、山中君と一緒に警察署に行こうとしてたんだ。山中君と一緒なら、話せると思ったから」

 微笑を浮かべる奈穂。先程とは違って、その笑みは弱々しかった。

「でも、そんなことをしても、無駄だったんだね。私は瀧澤から逃れられないんだ」

「馬鹿言うな。見ず知らずの人間に、自分のトラウマを冷静に口にして、相手に伝えることができる人間なんているものか」

 千春は力強く言い切った。そこに偽りの気持は微塵もなかった。それでも千春は気恥しくなって奈穂から目を逸らした。

 頭の中には三枝と会う前の自分の姿が浮かんでいた。

 義母や野上のような売春相手に暴力を受けていると千春がどれだけ訴えても、彼の周りの人間は自分には手が負えないからという理由で彼を見捨てた。警察に関して云えば、最初から子どもの言葉など聞き入れようともしなかった。

 次第にみなが千春の言葉は全て悪戯だと判断していた。彼の発言が正しかったことが世間に知れ渡ったのは、三枝が誘拐犯として捕まってからだった。

 大人をからかうんじゃない。

 不細工な容姿が売りのお笑い芸人そっくりの警官は、体を逸らし、大声で笑いながら千春にそう言った。売春をさせられていると訴えた九歳の千春に、ここは子どもの遊び場ではないとも告げた。奇しくもそれを告げられたのは、この雛図書館から歩いて二、三分で着く、雛警察署でのことだった。

「夢野さんの相手をした警察官は、最低だ。その人には暴力を受けている人の苦しみが解らないんだろうね。でも、夢野さんの人生は終わってないよ。僕が、瀧澤から夢野さんを守ってみせるよ。今度こそ」

 自分と同じ虚しい思いを、彼女にだけはしてほしくない。

 千春は見るだけで優しい気持になれる、天使のような笑みを無理に浮かべ、奈穂の手を握った。彼女の手にはまだ、しっかりと温もりがあった。

「こんなに温かい手を持っている人が、人生終わってる訳ないじゃないか。夢野さんの体はちゃんと生きてる。諦めたら駄目だよ」

 千春に悟され、後ろめたそうに俯く奈穂。

 これでいいんだ。これで……。

 千春はひとまず彼女から絶望を取り払うことができたことに安堵した。

 奈穂は千春に手を握られてから、徐々に顔に明るさを取り戻していった。もはや、今の彼女には少し前まで存在していた歪な影は微塵もなかった。

 そろそろいいだろうか。

 徐に奈穂が手を握り返すと、千春は瀧澤のことでずっと気になっていたことを彼女に訊ねることにした。

「ねぇ、夢野さん」

「ん?何?」

「瀧澤は夢野さんが言うことを聞かなかったら、過去の映像をばらまくって言ってるんだよね?」

 千春の問に、奈穂は僅かに首を傾げる。

「そうだけど……」

「そのばらまくってのは、ネットにばらまくってことなのかな?」

「あぁ、それなら、私たちが通う勢城高校にばらまくって言ってたよ」

 なるほど。もし実際に勢城高校に奈穂の痴態がばらまかれたとしても、学校側は事を荒立てない為に、瀧澤の非行を世間に露呈することはないだろう。校長や信頼できそうな教師に助けを求めたところで、所詮警察と同じで、最後には子ども同士の喧嘩で処理されるのがオチだ。それでは意味がない。必ず瀧澤に罰を与えられるよう動かなければ駄目だ。そうしなければ、夢野さんを救うことはできない。しかし、自分からぼろを出すほどあいつは馬鹿じゃない。ならばどうすればいいんだ。

 千春が一人、妙案が浮かばず、唸っていると、唐突に奈穂が『あっ』と言って、彼の手を強く握りしめた。

「そういえば、真っ先に山中君に映像を送るって言ってた。そっちのほうが面白いからって……」

 瀧澤は中学生の時に既に犯罪行為を楽しんでいた。人を傷付けるのも、法を破るのも、彼にとっては遊びでしかない。

 幼い頃より、力あるものから暴力を受けて育った千春は、その生い立ち故に、善悪の判断が大多数の人間とは逸していた。人を苦しめる者は、みな凄惨な死を迎えればいい。普段そのような歪んだ考えを持っている千春ではあるが、心の奥底では叶わないとは知りつつも、世界中の生物が幸せな生活を送れるよう願っていた。

 千春は生きる苦しみを知っている。だからこそ、瀧澤のように他者を傷付けることで喜びを感じる生物が理解できない。

 面白い?一体何が面白いっていうんだ。

 千春の中では瀧澤に対する殺意に近い嫌悪感が、急速に成長を始めていた。

 不意に、千春は何でもいいので物を壊したくなった。周囲に飢えた双眸を向け、足元に小石が落ちていることに気付くと、図書館の窓ガラスを軽く睨む。今すぐにでも小石を窓ガラスに向けて投げてしまいそうな勢いがあった。しかし、彼の破壊衝動は隣りに座る奈穂の存在によってあっさり霧消した。

 僕は何をしようとしている。こんなことしたって何も始まらないじゃないか。

 千春は恥ずかしさを押し隠して、奈穂の顔を盗み見る。奈穂の顔は、千春の足元に向けられていた。彼女は千春の言葉を待っているようだった。

 瀧澤への怒りは二の次だ。まずは何とかして彼女を助ける手段を考えないと。

 千春は暴力的な衝動に出そうになった自分を強く恥じた。自分を落ち着かせる為であっても、破壊に頼ろうとしたということは、自ら瀧澤に叶わないと認めたようなものだと思った。

 溢れる悔しさを、歯を食いしばって必死に抑え、奈穂の言葉を反芻した。

「映像のことだけど、瀧澤は本当に誰よりも先に僕に送るって言ったの?」

「うん、言ったよ」

「それって、チャンスじゃないかな」

 チャンス。その言葉を聞くと、奈穂は一瞬固まった後、困ったように首を傾げた。千春は自分でも何を言っているのかはっきりと理解できていなかった。しかし、破壊衝動という不純物が失くなると、千春の頭は妙に冴えた。冴えた頭は、焦燥感に後押しされ、彼に次から次へと言葉を送り込んだ。

「映像が僕たちの手に渡れば、瀧澤が夢野さんを脅している物的証拠が手に入ることになる。例え、脅迫されている証拠にならなかったとしても、夢野さんが暴力を受けている事実は警察も認知してくれる筈だよ」

「でも、今の法律だと、単純所持では逮捕にならないんでしょ?それに、過去に暴力を受けていたってだけでは、警察は動かないんじゃないの?」

 平生、おっとりしている奈穂にしては鋭い指摘だった。しかし、頭の中にアイデアの奔流が生まれた千春にとっては、彼女の不安など大した問題ではなかった。

「確かにね。でも、瀧澤が僕に映像を送るまでを、音声や写真として記録すれば、瀧澤の脅迫は立証できる。更に件の映像が手に入れば、内容が酷いものだろうから、警察が瀧澤の逮捕に動いてくれる可能性はかなり高いと思うよ」

 奈穂の表情は徐々に変化していった。初めは驚き。次に緊張。そして最後には心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

「山中君ってすごいんだね。私にはそこまで考えが至らなかったよ」

 千春には奈穂がわくわくしているように見えた。目を輝かせ、千春の話した計画をイメージする彼女の姿は、新しい玩具を与えられてはしゃぐ幼子に似ている。しかし、千春は彼女のように現状を楽しんではいられなかった。千春の目には既に、奈穂に話した計画を実行した後の光景がしっかりと浮かんでいた。

「ねぇ、山中君。その方法を実行すれば、瀧澤も逮捕することができるんだよね?」

 千春の目を真っ直ぐ見つめる楽しげな奈穂の双眸。千春はその―彼にとっては眩し過ぎる―視線が苦手だった。

 いつからだっけ。この視線を僕に向けてくるようになったのは。

「たぶんね。でも現実的じゃないよ。警察がそれで動いてくれるとは断言できないし、そもそも瀧澤が僕等の予想通りに動くかも分からない。失敗する確率も高いだろうね」

「それでも、実行したいって言ったら、協力してくれる?」

 期待と不安が入り混じった奈穂の双眸。断る理由がなかった。

「もちろん、手伝うよ」

 笑みを浮かべて即答してみせると、千春は奈穂から視線を逸らした。

「ありがとう。本当に嬉しいよ」

 千春の手を握る奈穂の手が更に強くなる。また少し彼女は明るさを取り戻した。しかし、彼女が明るくなればなるほど、千春は内心暗い気持になった。

 既に、頭の中では彼女を救う為の計画が八割は形を成していた。

 言葉とは裏腹に、千春は自分の考えた計画に絶対の自信を持っていた。にもかかわらず、彼の気持が晴れないのは、計画が失敗した時の光景が、癒着したかのように頭から離れないからだ。

「夢野さんはいいの?失敗したとしても」

 お世辞にも明るいとは言えない声音で千春が訊ねると、奈穂はどうしてそんなことを聞くのといった表情を浮かべる。

「うん、構わないよ」

 奈穂が嘘を吐いているようには見えなかった。千春にはそのことが信じられなかった。

「もし失敗したら、夢野さんにはなんの利益もないのに、夢野さんの痴態は他人の目に触れることになるんだよ。本当にいいの?」

「いいよ。もう山中君とは縒りを戻せたんだし……」

 奈穂の言葉はまだ続くように思われた。しばし待っていれば、その先を彼女は話したであろうが、今の千春には自分の気持を整理することで頭がいっぱいで、黙っていることができなかった。

「もし失敗したら、僕が責任とって夢野さんにこうするってことを予め決めておこう」

「そんな必要ないよ」

「念の為だよ」

「心配性なんだね」

「そうかもしれない」

 以前、瀧澤と一悶着あった時に、奈穂を本当の意味で救い出すことができなかった苦い思い出が千春を臆病にさせていた。彼としては、今以上の状況の悪化を避けておきたかった。仮に計画が失敗してしまったとしても、彼女だけは傷つけたくなかった。

「瀧澤の逮捕に失敗したら、僕が夢野さんの人生を壊したことになる。だからもしそうなったら、そうなってしまったら、僕は夢野さんの頼みをどんなことでも引き受ける。どんな罰だって受けるよ」

「どんなこともって……。何もしなくていいよ。失敗した時は私にも非があるだろうし」

 千春の言葉に奈穂は困惑して視線を右に左に彷徨わせる。一方で、千春は内心自己嫌悪に陥っていた。

 失敗した時の保険を図々しくも予め用意してしまう自分が腹立たしかった。千春は女々しいことを口にするのはやめようとは思うのだが、喋ることに飢えてでもいるのか、口の動きは感情だけでは止めることができなかった。

「僕が余計なことを吹き込んだばっかりに、夢野さんは危ない橋を渡る訳だよね。なら、夢野さんが怪我した時は僕が責任とらない訳にはいかないよ」

「大袈裟だなぁ。山中君は」

 奈穂は微笑を浮かべ、千春へと眠そうな視線を送る。

「じゃあ、もし失敗した時は、私と付き合ってくれるだけでいいよ」

「分かった。計画が失敗したら僕は夢野さんと付き合う」

 千春は奈穂の返事に即答してみせた。

 彼自身このような、自分一人で対処しきれない頼みをあっさり引き受けてしまったことに驚いていた。しかし、彼女の驚きはゆうに千春のそれを超えていた。

 奈穂は千春の答えを聞いて、目を丸くし、口を半開きにして、彼の手を握る自身の右手の力を緩ませた。

 刹那の間、彼女の時間だけが静止していた。再び動き始めた時、奈穂は真っ先に驚きを声に変換させた。

「えぇ?私今すごく図々しいこと言ったんだよ?突っぱねてもいいんだよ?」

「夢野さんこそ、それだけでいいの?僕はどんな頼みだって受け入れるよ」

「いいっていいって。それに失敗しないよ、絶対」

 奈穂は言い切った。どういう訳か自身があるようだった。

「どうしてそんなことがわかるの?」

 千春は頬を紅潮させている奈穂と目を合わせた。彼女の心情を読み取る為に。

「勘だよ勘。女の勘は当たるって言うでしょ?」

「第六感を信じることは僕もたまにするけど、あまり当てにするべきではないよ。今日みたいに人生がかかっている時は特に」

「大丈夫。一番信頼しているのは山中君だから」

 奈穂は満面の笑みを浮かべ、気持千春の体に寄り掛かった。

 幸せそうな笑顔だった。千春にとっては切なさを満たす笑顔ではあったが。

「僕は人に頼りにされるほど立派な人間じゃないよ」

 千春は話していて自分が何をしたいのか分からなくなってきた。奈穂に希望を与えるようなことを言っておきながら、今では彼女に最悪の光景を浮かばせようとしている。

 僕は彼女を助けたいのか、苦しめたいのか。本当はどっちなんだ。

 答えを見つけようと彼女への気持を推し量っていると、それを阻害するかのように千春の携帯電話が着信を知らせた。

 びくっとして身構える奈穂を他所目に、千春は空いているほうの手でズボンのポケットから携帯電話を取り出した。

 義母からの着信だった。

 千春はさして気にせず、いつものように面倒臭そうに義母の送ったメールを開いた。

 タイトルはなく、内容は一言『帰ってこい』だけだった。

 義母が自分に何を求めているのかは記載がなくともすぐに理解できた。

「ごめん。今すぐ帰らないといけなくなった」

 現在の時刻を確認してから、携帯電話をポケットにしまい、奈穂から手を放す。義母家族からの命令は絶対だった。逆らえば一層酷い仕打ちが待っている。千春が帰りたくなくとも、後々のことを考慮すれば、帰らない訳にもいかなかった。

「もしかして、昨日のあの男の人からメールが来たの?」

 千春は奈穂の目を気にせず、携帯電話を自身の膝の上に乗せ、顔から離してメールを読んだ。故に、奈穂は覗こうと思えば千春の携帯電話を覗くことができた。にもかかわらず、彼女がメールの送り主を知らないということは、彼女は律義にも千春の携帯電話を覗かなかったようだ。

「違うよ。叔母さんからだ。遊んでないで家事を手伝えってさ」

 外出中、義母がわざわざ呼びだしてきた時、家事などという生易しいものを強いることはない。義母の目的をストレートに伝えれば、奈穂が傷付くことは容易に想像できる。彼女をできるだけ傷付けたくない千春は、手頃な嘘を吐いた。

「そっか。叔母さんからじゃあ、仕様がないよね」

「ごめん。もっと話したいこともあったんだけどね」

 心底残念そうな目をして千春はリュックを背負い、背筋を正し、上品に立ち上がる。

「夢野さん、一人で帰れる?」

「うん、大丈夫。人通りの多い道を通って帰るから」

「うん。じゃあ……」

 彼女に言い残したことはないか考え、千春は計画のことを思い出す。

「件の計画の詳細な流れは、今日じっくり考えて……そうだな、今日の午後十時前には文章してメールで送るよ」

「山中君、私のメールアドレスは分かる?」

「前と変わっていなければね」

 千春は無理して微笑を浮かべた。笑っていられるような気分ではなかった。しかし、別れの時は笑顔で迎えたかった。

「うん。それなら大丈夫だね。じゃ、ばいばい」

 奈穂は千春に笑みを返し、軽く手を振って別れを告げた。

「うん。さよなら」

 千春は手を振り返し、最後に奈穂と目を合わせてから彼女に背を向けた。目を合わせたのは奈穂の心情を読み取る為だった。

 千春には奈穂が無理しているように思えた。自分に気を遣って、失敗しても構わないと口にしているのだと考えていた。しかし、少なくとも別れ際に目を合わせた時には、奈穂が嘘を吐いているようには見えなかった。そればかりか、彼女からは微塵の不安も感じなかった。

 千春は腑に落ちない気持を抱えたまま、図書館前の広場をあとにした。

 帰りは敢えて遠回りをして雛警察署の前を通った。

 そこには輝かしい思い出など一つもないが、計画が順調に進めば、奈穂を救う為の最初の通過点となる。

 幸せを勝ち取る為には、感情は捨てないといけない。

 警察が三枝に行った非人道的な仕打ちを、千春は記憶の奥底に封じ込めると、ゆっくりと雛警察署の前を通り過ぎた。自分が頭の中に思い描いた計画が、全てうまくいくよう祈りながら。

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