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 ちょうど彼岸過迄を34ページまで読み終えた頃のことだった。唐突に右肩に重みがかかり、千春ははっとして本から目を放し、どうしたのだろうと、視線を奈穂が座る右隣へと移した。

 見てみると、奈穂は疲れたような顔で千春の肩を借りている。千春が少しでも動けば倒れてしまいそうな彼女の目は、両方ともうっすらと閉じられていて、口元からは静かに寝息が漏れている。膝の上で律義に組まれた両手の傍には、奈穂が読んでいた高瀬舟の文庫本が、周りに邪魔にならないよう自身に立てかけるような形で椅子の上に置かれてある。

 どうやら奈穂はもう千春の勧めた本を読み終えたようだった。

 高瀬舟は短編小説だ。文体が特別読みにくい訳でもなく、速読の苦手な千春ですら十分もあれば読み終えることのできる文量しかない。

 ものにもよるが、千春は本を読む時は、大体一ページに一分かかる。今千春が開いているページは34.35ページ。ページ数に依存すれば、千春が一旦奈穂と別れ、長椅子に座り本を読み始めてから、単純計算で三十分は経過したことになる。

 奈穂は千春と別れてから、五分程度で高瀬舟を見つけてきて、彼のすぐ隣に腰を下ろした。仮に千春が黙読を始めてから二十分しか経っていないにしても、二十分は奈穂が彼の本を読み終えるには十分な時間だ。

 奈穂の寝顔を見ていると、千春は僅かに罪悪感に襲われた。

 彼女が寝ているということは、退屈させてしまったのだろうか。もしそうだとしたら、もっと周りに気を遣いながら読むべきだった。

 千春は寝ている奈穂から目を放し、彼女への配慮が足りなかったことを悔やみながら俯いた。

 謝らないと。

 自らの行動を後悔すると、すぐに謝罪の言葉が浮かんだ。しかし、穏やかな寝息を立てる奈穂に、今更声をかけることは躊躇われた。

 ごめんなさい、夢野さん。

 千春は心の中で奈穂に謝罪し、他にすることもないので再び黙読を開始した。が、ものの十秒も経たない内に、千春の気持が奈穂に伝わったのか、彼女の上半身がぴくりと動いた。

「あ、ごめん。私、寝ちゃってた?」

 寝ぼけ眼の奈穂は千春と体が密着していることに気付いた途端、目を見開き、慌てて長椅子の上に片手をつき、心底申し訳なさそうに謝りながら、彼から微妙に距離をとった。

「別に謝ることないのに」

 千春は本を閉じると、不思議そうに奈穂を見つめて、思ったことをそのまま口にした。

 千春にとって奈穂はこの世界で唯一触れられても不快感が湧くことのない特別な人だった。他の者が行えば、激して危害を加えることであっても、彼女だけは許される。その為、肩と肩が接触していたくらいで、千春が奈穂に怒ることはありえない。そもそも彼女に不快感を抱くこと自体が稀なのだ。しかし、奈穂は千春と一瞬目を合わせ、再び謝罪の言葉を口にした後、思い詰めたような顔をして黙り込んでしまった。

 悪いのは僕のほうなのに。

 何度も謝る痛々しい奈穂を見て、切なくなり、すぐさま千春は彼女を励まそうとする。が、ちょうどその瞬間彼女がそっぽを向いて、こちらと目を合わせずに黙りこんでしまったので、千春は話しかけるタイミングが分からず、結果彼も口を固く閉ざすこととなった。

 それから約五分が過ぎた頃。二人の前方の嵌めごろしの窓から、ゆっくりと薄い光の手が、新たな領地を求めて床から伸びてきた。薄暗く、汚い館内に差し込む眩しいくらいの明かり。千春は光の触手に足を捕まれると、こういう時は明るい場所に出るべきだと考え、奈穂を広場へと誘った。

 何となく、断られるだろうと思ったが、奈穂は無言ではあるものの、千春と目を合わせ、少し嬉しそうに頷いた。

「決まりだね」

 千春は奈穂が頷き、顔を上げ終えてから立ち上がる。

「ここで待ってて。すぐに戻ってくるから」

 読み途中の彼岸過迄を手に取り、千春は彼女の読んでいた文庫本も含めて、そそくさと定位置に戻した。

 奈穂の座る長椅子へと戻る途中、本棚に身を寄せ、密かに彼女の横顔を見てみたが、彼女の表情に目立った変化はなかった。彼女の瞳の奥に隠れている、暗く冷たい感情も、前と変わりはない。

「じゃあ、行こっか」

 千春は僅かに困惑しながらも、微笑を浮かべ、奈穂の前に立ち、時折振り返りながら、薄暗い廊下を抜けて外に出た。

 広場には、上空に漂う雲が少ないこともあって、日向が多かった。

 年頃の女の子には紫外線が気になるだろうか。

 日陰に向かうべきか迷いもあったが、春になったばかりの外はまだ肌寒いので、千春は日向のベンチへと奈穂を誘った。

「高瀬舟はどうだった?暗い気持にさせてしまったかな?」

 先程昼食を取った時にも利用した木製のベンチに座ると、千春は遠慮勝ちに奈穂に訊ねた。

「ううん、大丈夫だよ。ちょっと重い話だなとは思ったけどね。深く考えさせられる話だとも思ったよ」

 奈穂の双眸は決して明るくはないものの、濁りはなく、透き通っている。嘘を吐いている訳ではないようだった。千春はそのことに気付いたと同時に安堵の息を吐いた。

 彼女を衰弱した子猫のようにやつれさせたのが自分ではないと解ったことが嬉しかった。しかし、何よりも千春は奈穂が自分との会話を拒否しなかったことに安堵を覚えた。

「そっか。良かった。高瀬舟は安楽死をテーマにした作品だから、ちょっと心配したよ」

「うん、まあ……明るい話ではないよね」

「そうだね。でも現実ってのは厳しいものだよ。あの小説みたいに」

 千春は僅かに目を細めると、冷たい視線を雛図書館の屋根へと向ける。また目の前をうろつかれたらどうしようかと思ったが、千春が危惧している三羽のハトの姿は、もう広場の近くには見当たらなかった。

「ところで、彼岸過迄はどうかな?あまり面白くなかった?」

 奈穂は千春の双眸をじっと見つめる。その直前に、千春は目付きに平穏を取り戻す。

「面白くないことはないよ。ただ、まだ三十ページくらいしか読んでないから、話の流れが掴めてないよ」

「あ、ごめん。私が読むの邪魔しちゃったかな」

「そんなことないよ。それに、邪魔したのは僕のほうなんだから、夢野さんが謝ることないよ」

 千春は悔恨の気持を顔に露呈し、そっぽを向く。奈穂は一瞬きょとんとして千春を見つめ、彼の言葉の意味が解ると、くすりと笑って俯いた。

「山中君こそ、気にすることないのに」

 不意に、一陣の冷たい風が、二人の間を通り抜けた。上空ではカラスの鳴き声がこだましていた。

 千春は何故だか切なくなって虚ろな双眸を奈穂へと向けた。奈穂の瞳は嘘を吐いている目ではなかった。しかし、やはりというべきか、彼女は何かを隠していた。千春はめざとくも、奈穂の目を見ることによって、彼女の心の闇を見つけ出した。

 一体あなたは何を隠しているんだ。

 千春は奈穂の偽りの双眸を見ることに耐えられなくなり、いよいよ率直に訊ねてみることにした。

「ねぇ、夢野さん」

 千春が憑依の去った巫者のような疲れた目で見ると、奈穂もまたぐったりとした目をして彼に視線を返す。

「夢野さんは僕に何を隠しているの?」

 訊ねた途端、千春には一瞬世界が制止したように見えた。刹那の間、音は遮断され、ありとあらゆる質感も失せ、空気にでもなったようなふわふわした心持になった。

 ここは現実なのだろうか。

 非科学的な奇妙な現象を前にして、千春が今いる場所が夢か現か混乱しかけた時、時間の流れは元に戻り、視線の先の生気の薄い奈穂は彼の問を聞いて、僅かに瞼を開いた。

「私は……別に何も隠してないよ」そう言って奈穂は微笑を浮かべて千春から視線を逸らす。それでも千春は彼女の目をじっと見つめ、訊ねる。

「本当に?」

 再度訊ねると、奈穂は警戒心を強めたのか、表情を固くした。

「うん。本当だよ。本当に大丈夫だから」

 千春は奈穂の横顔を見つめ、やや躊躇ってから彼女の双眸へと視線を移した。奈穂の瞳は揺らいでいた。千春には奈穂が嘘を吐いているように見えた。

 できることなら千春は奈穂の助けになりたかった。そう思うのは奈穂が自分と似たような過去を背負っているからなのか、千春にとって彼女が命の恩人だからなのか、理由は分からない。ただ、千春は漠然と彼女を助けたいという強い気持に駆られていた。しかし、千春には彼女にどう声をかければいいのかわからなかった。

 千春がどれだけ奈穂を気遣う言葉を口にしても、彼女は一向に自身が抱える心の闇を話すことはない。ならばどうすればいいのか。千春は俯きながら黙考する。

 言葉が駄目なら行動だろうか。彼女が喜びそうな行動。例えば……握手。

 千春は昨日の二年A組の教室での出来事を思い浮かべる。

 床板の上に散乱していたスナック菓子やほこり。怨嗟の言葉が刻まれた机。静まりかえった教室内の異質な空気。そして、繋がった手を見て照れ隠しに笑う奈穂の顔。

 何でも助けになると云った千春に奈穂が真っ先に求めたのは握手だった。

 手と手が触れあうと、奈穂は顔を紅潮させ、恥ずかしそうに俯いた。俯いたと同時に、手を握っただけで安堵もしているようだった。

 元来、身体接触は体内でオキシトシンを分泌させるのに一役買っている。その上、奈穂は千春との身体接触には好意的だ。闘争心を押さえる働きがあるオキシトシンに、人の手の温もり。この二つがあれば、奈穂は自分に心を開いてくれるのではないか。千春はそう思い、左手を彼女の右手にそっと重ねた。すると、奈穂は十秒ほど目を丸くして、空を見上げる千春の横顔を不思議そうに見つめた後、そっと微笑を浮かべて自らも彼に倣って空を仰いだ。

 しかし、彼女の口からすぐに彼女の心の闇が語られることはなかった。

 また失敗か。思うようにいかない現実が、千春の心の中で急速に焦燥感を肥え太らせる。彼女を救うには僕はどうすればいいんだ。どうすれば。

 千春は自身の右手の平に、右手の人差指を突き立てながら、彼女の笑顔を取り戻す方法を逡巡する。そうしている間にも、時が過ぎていることも忘れて。

 やがて十分が過ぎ、二十分が経った。一面の青空に、いつの間にか現れた白い雲の群れは、時の流れとは対照的にゆったりと東へ進んでいく。近くを駆け回っていた子どもたちの姿はもうない。それでも相変わらず、二人の手は繋がったままで、相変わらず千春は妙案が浮かばずにいた。が、時は無駄に過ぎていた訳ではないようだ。雲の群れが太陽の光を遮り、千春たちの周囲に影を落とし始めた頃、しばらく黙っていた奈穂が口を開いた。

「苦しんでいるのに、一人で苦しみ抱え込んで、黙って死んでいくのって、残された人も、死んでいく人も、誰もが悲しくなることだよね」

 唐突に、ぽつりぽつりと言葉を吐き出しながら、奈穂は遠い目をして中空を見つめる。

 千春はその彼女の行動を受けて、ぎこちなく左手に力を込めた。自分が傍にいると、奈穂に改めて示す為に。

「誰もが悲しくなる……か。それって、もしかして高瀬舟の話?」

 千春の問に奈穂は表情を変えずに、ゆっくりと頷く。

「うん。私は一人っ子だから、弟はいないし、幼い頃はわがままばかり言ってたから、兄弟愛とか、弟のいる生活ってのはわからないけど、家族を失うってことがどういうことなのかは分かるよ」

 奈穂は六歳の頃に事故で母親を失っていた。

 千春も幼くして母親を失くしているが、彼の場合は、母親の顔すら思い浮かばないのが現状で、物心ついた頃から故人だった母親が、傍にいないからといって、そのことで彼が傷付いたことは一度もなかった。故に、奈穂の気持を共感できない千春は、ぼんやりとした視線を前方に送り、亡くなった母親のことを考えているであろう彼女の言葉を静かに待った。

「本来、死にたいとか、死のうと思う生物なんていないのに、人にもっと他者を思い遣る気持があればあんなことにならなかったのに。切ないよね、高瀬舟は」

 貧しく、苦しい生活の中、たった一人の肉親である兄の足手まといになることを申し訳なく思い、自殺しようとした喜助の弟。その弟の自殺の手伝いをしてしまい、結果人殺しとして島流しに遭う喜助。

 千春も初めて高瀬舟を読んだ時は、死にかけの弟に止めを刺さざるをえなくなる喜助の心情を想って、胸が締め付けられるような心持がした。

 やはり今の彼女に読ませるべきではなかった。

 読めば暗い気持になることが容易に想像できたにも関わらず、奈穂に高瀬舟を勧めてしまい、千春の中では悔恨の念が渦巻き始める。しかし、千春が思っているほど奈穂は暗い気持になった訳ではなかった。むしろ、今の彼女は昼前に会った時とは違い、双眸からは一つの強い決意のようなものが窺えた。

「ねぇ、山中君」

 奈穂は前を向いたまま、いつにも増して透き通った声で千春の名前を呼んだ。

「ん?何?」

 千春は奈穂の声に違和感を覚え、はっとして彼女のほうに体を向け、少女のような地声で言葉を返した。

 すると、奈穂は千春に向かって微笑を浮かべ、暗く冷たい洞窟内で、暖を求めて一人歩きまわる迷い子のように、右手を裏返し彼の左手を握り締めた。

「私、やっぱり中学の時しようとしたこと、間違ってたよ。あんなことしたって、誰かしらが傷付いていたんだよね。家族にしろ、先生にしろ、人は誰も傷つけずに死ぬことなんてできない」

 喋りながら奈穂の目には光が宿り始める。ちょうどその頃、二人の上空から太陽光が差し込んできた。太陽からの贈り物による眩しさの為に、千春は思わず奈穂へと向ける双眸を細めた。その為、奈穂の目が潤んでいることに、千春が気付くことはなかった。

「どんな人間であっても、人が死ねば、悲しむ人がいて、その悲しむ人を大切に思っている人は、大切な人が悲しんでいる姿を見て悲しくなって、そんな感じで、悲しみがいろんな人に伝染していって、負の連鎖が始まってしまう。どうせ人は生きていれば無意識の内に誰かを傷つけるのだから、生きられるにも関わらず、死ぬことによって生まれる避けられる暴力っていうのは、生みだされる前に回避するべきだよね」

 奈穂はここで少しの間を空け、深呼吸すると、瞬きをし、潤んだ瞳を奥へ押しやり、千春の双眸をじっと見つめる。

「すごく図々しいってのは解ってるけど、言うね」

 奈穂がこちらの様子を窺っているようなので、千春は力強く頷く。

「うん」

 上空では、雲の隙間から綺麗に太陽が顔を覗かせていたが、千春は太陽の光に負けないように瞼を開き、奈穂の双眸を見つめ返した。

 奈穂は千春にじっと見つめられると、やや躊躇って一瞬視線を落とした。しかし、思い切りがついたのか、刹那の後には真剣な顔付きになり、再び彼の双眸へと視線を向け、重い口を開いた。

「困ってることがあるんだ。だから、山中君のこと、頼ってもいいかな?」

 一生懸命言葉を紡いだであろう奈穂の目に、後ろめたさが見え隠れしていることに気付き、千春は確信した。

 彼女はずっとその言葉を溜めこんでいたのだと。

「もちろんだよ」

 千春には奈穂がどんなことを口にしても、受け止められるだけの心の余裕があった。故に、千春は彼女を安心させる為に、天使の微笑を浮かべ、即答することができた。

「ありがとう。山中君ならそう言ってくれると思った」

 千春の返事を受けて、奈穂は一瞬安堵の混ざった溜め息を吐き、彼に一瞬笑顔を向けた。おそらく、話す前から緊張していたのだろう。千春には彼女の手が湿っぽく感じられた。しかし、繋がった二人の手が汗ばんでいるのは何も彼女だけが原因ではなかった。千春もまた奈穂への対応が間違っていたらどうしようかと、終始緊張していた。彼女が自分の所為で傷付くことは千春の決して望まない結果であった。千春が望むのはただ一つ、奈穂の心の安寧。まだ彼女の口から悩みの正体を聞けた訳ではないが、じきに彼女は話してくれるだろう。

 二人が親密な空気に包まれていく間に、太陽の姿は雲の群れによって完全に隠された。日射しの恩恵を受けられなくなると、地上は風が吹いていることもあって、一段と肌寒くなった。それに呼応するかのように、暖を求めて図書館へと足を運ぶ親子連れや老人が目立ってきた。

 春の寒気は真冬のものよりはいくらかマシだが、まだまだ寒いことには変わりない。千春は白い息を疎ましそうに吐くと、隣りに座る奈穂のほうへと気持体をずらし、ぽつりと呟いた。

「寒いね」

 奈穂は答えなかった。答えずに、黙って空ろな目を足元に向けている。奈穂には千春の声が届いていないのかもしれない。どちらにしろ、彼女はまたしても生気のない銅像のように口をつぐんでしまった。返事がないことを不思議に思った千春は、奈穂の空ろな双眸が、時折僅かに開いたり閉じたりしていることに気付いた。そしてその行動が外界の事象と何の関係もなく行われていると判断すると、自分が二歳の時に亡くなったと聞かされている、母親のことを考え始めた。

 母はどんな人間だったのだろう。困っている人には手を差し伸べる人間だったのだろうか。それとも自分の私欲の為なら他人を平気で傷付けるような人間だったのだろうか。

 千春には実の母親の記憶がないようなものだった。唯一彼がはっきりと覚えている母親の記憶は、自宅と思しき場所で、木製の椅子に座り、編み物をする女性の後ろ姿。その記憶すら年々薄れてきている千春には、自分の母親がどんな人間だったのかも思い出すことができない。だからといって千春は母親と会いたいという気持はなかった。千春にとって母親は生まれた時から既に故人。科学者が実験対象に抱く類の好奇心しか母親に持ち合わせていない。

 しかし、千春は奈穂といる時、不意に母親の記憶が蘇ることがあった。それは奈穂が母親と似た部分を持っているからなのか、無意識の内に母親を失った奈穂の気持に同調するからなのか、千春にはわからない。が、千春は何となく奈穂と母親の人生は似ているのではないかと考えていた。

 人は相手との共通点を見出だすと、信頼感を得る。だからこそ人は同じような考えを持った者同士くっつきやすい。

 もし、僕と母親が似たような考えを持っていたら、母もきっと僕と似た人生を送っていたに違いない。

 脆弱な霧がかった己の記憶を頼りに、母親の歩んだ人生を想像していると、千春は唐突に焦燥感に襲われた。今すぐにでも奈穂の心の闇を拭わなければ、彼女が死んでしまうのではないかと不安が募った。

 千春は知りたかった。何が彼女をここまで追い込んでいるのか。どうすれば彼女の笑顔を取り戻せるのか。それでも強要しては駄目だと、自身を叱責し、焦る気持ちを抑え、彼女の口から全てが語られる時を待った。

 時間はゆったりと流れた。

 いつしか恥ずかしがり屋のカラスが図書館の屋根で会議を始め、異臭を漂わせる白髪交じりの中年男は広場の隅に置かれたベンチの上に仰向けになり、図書館内から出てすぐに転んで足をすりむいた少女は、親に励まされ泣きながら父親に抱きついた。そして、帰宅途中の盛んな年頃である三人の男子中学生が、顔に下卑た笑みを張り付けたまま、千春と奈穂に好奇な目を送りつつ、二人の前を通り過ぎた後、いよいよ彼女は真剣な面持で、せきを切ったように、今日彼を呼びだした理由を語った。千春にとっては待ちに待った瞬間だった。

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