7
午後十二時二分。ちょうど奈穂が菓子パンを食べ終えた時から、人気なのなかった雛図書館前の広場に、老人や親子連れが集まり始めた。
地を駆け回りはしゃぐ幼児やげらげらと品のない笑い声を上げる主婦等によって、そこには先ほどまであった静寂の気配はまるでなくなり、いつの間にか喧騒が辺りを支配している。
千春は騒がしいところも人気の多い場所も好きではない。広場に人が集まりだすと、途端に居心地の悪さを感じた。ただでさえその前から三羽のハトに不快な思いをさせられていた。千春はすぐにでも広場から離れたかった。しかし、満足そうな顔でゴミ袋を畳んでいる奈穂がまだ昼食を終えたばかりだった。
食休みもしない内から移動させるのは酷だと思い、千春は五分ほどそわそわしながら、視線をあちこちに飛ばし、時が過ぎるのを待った。そして、約五分が過ぎ、もう十分だろうと判断すると『そろそろ図書館に行こうか』と奈穂を誘った。
「山中君は、どんな本が好きなの?」
雛図書館の出入口である自動ドアを通り抜ける時、千春の横に並んで歩く奈穂が彼に訊ねた。
近頃の千春が好んで読む本といえば哲学や社会科学。小説ではホラーが好みなのだがそれを正直に伝えれば奈穂に退かれると思い、彼はもっと一般的で尚且つ彼女が詳しくないであろうジャンルを考え『SF』かなと答えた。
「SFかぁ。あまり読んだことないなぁ……」
千春の予想通り、奈穂はSFに興味がないようだ。彼女は千春の返事を聞き、一瞬目を丸くすると、首を傾げて『ううん』と唸る。千春はそんな彼女を見て、企みの成功を確信する。どちらかといえば非科学的なものを好む千春にとって、SFは好んで読むものではない。奈穂がSF好きでもっと奥深く話を聞かれるようなことがあれば、嘘を貫き通すのは難しかった。
あぶないあぶない……。
千春は密かに安堵すると、奈穂にSFに関して質問される前に、こちらから別のことを訊ねることにした。
「夢野さんはどんな本を読むの?」
「ん?私は……」
千春に訊ねられた瞬間、奈穂は神妙な顔付きを崩し、弱々しい笑みを浮かべ、受付の手前の細長い通路の途中で足を止める。
「私はあまり本は読まないんだよね」
そう言って今度は恥ずかしそうに笑みを浮かべる奈穂。千春は彼女の挙動に違和感を覚えたものの、あえてそのことは訊ねないで、横幅の狭い通路を歩く人の邪魔にならないよう彼女の前に移動する。
「そっか。じゃあ読書は苦手なのかな」
「ううん、そんなことはないよ。読む時は読むし。ただ読みたいと思える本があまりないんだ」
「そう。まぁ、無理して読むことないよ。夢野さんが小説家を目指しているのなら別だけど」
千春は顔を傾けて、通路から館内を覗きこむ。ざっと見まわしてみたところ、館内で読書を楽しんでいるのは老人ばかりで、人気もそれほど多くなく、千春の位置からは子どもの姿はまるで見当たらない。近くで騒音を奏でる者は一人もいない、静寂が支配する世界。人嫌いの千春からしてみれば、現在の雛図書館の環境はベストだった。しかし、千春はどぎまぎしていた。なぜどぎまぎするのか。理由までは判らないが、千春を襲っているのは心地良い安らぎではなく、およそ食べるものではない異物を口に入れられた時にも似た、奇妙で不快な感覚であることは確かだった。
千春はその奇妙な感覚に耐えきれず、顔を僅かに顰め、館内に退屈そうな視線を送る。と、徐に奈穂が口を開いた。
「ねぇ、山中君の好きな小説って何?」
好きな小説……。
奈穂に問われ、千春の中で真っ先に浮かんだ小説は、スティーヴンキングの『死のロングウォーク』。
近未来のアメリカを舞台に、ロングウォークという命懸けの競技に参加する百人の少年たちを描いた異色の青春小説。ロングウォークはコース上をただひたすら南に歩くだけの競技なのだが、このレースにはゴールはなく、最後の一人になるまで歩き続けなければ、死が待っている。その代わり最後まで生き残り、優勝することさえできれば、希望の品を手にすることができる。
死のロングウォークでは優勝賞品目当てで競技に参加した少年もいれば、ただなんとなく命懸けの競技に参加してしまった少年など、様々な心情を抱えた少年たちが登場する。作品には内容が内容なので、死の恐怖から発狂してしまう少年や、射殺シーンなどのグロテスクな表現も少なからずある。しかしロングウォークという生き残りを懸けた競技であるにも関わらず、多くの少年たちは醜い騙し合いを行わず、時に励まし、助け合いながら、ゴールなき死のレースに臨む。
その少年たちの青臭さが千春は気に入っていた。
「僕が好きな小説は、死のロングウォークっていう海外の小説だよ」
今回は正直に答えた。話の内容を考えれば、自身の人格を疑われない為にも、年頃の少女の前で名前を出すのは躊躇われるが、千春と奈穂は簡単にこと切れしてしまうほど柔な関係ではない。故に、千春はさして気にもせず、愛読書を彼女に教えた。
「ふぅん。死のロングウォークかぁ。読んだことないなぁ」
「ちょっと怖い話だから、夢野さんは読まないほうがいいかもね」
「えぇ?そういうこと言われると逆に読みたくなるよ」
奈穂は笑みを浮かべ、遠慮勝ちに千春の横顔を見つめる。
「あぁ、じゃあ折角だから、ここで死のロングウォークを探そうよ」
「良いけど、あれは長編だからすぐには読み終わらないよ?」
「いいからいいから。探そうよ」
千春は奈穂にせがまれ、困窮し、彼女から目を放す。好きな本の話をするのならともかくとして、あの小説を年頃の少女に触れさせるとなると迷いが生じた。
そもそも、図書館に行こうと言い出したのは奈穂のほうだ。千春が無理して彼女の頼みを無理に受け入れる必要はない。しかし、千春は奈穂の願いを聞き入れた。彼女の気持を裏切るようなことはできなかったのだ。
「わかった。じゃあ、探そうか」
館内に入ってみると、椅子に座って余暇を楽しむ老人の数が思いの外多く目についた。人気の多い場所は好みではないが、千春は極力人目を気にしないようにして受付の前方に設置された、在庫検索用のパソコンの前に立つ。
このままでいいのだろうか。
すぐにはマウスに触れず、パソコンの画面に表示された『ようこそ雛図書館へ』の文字を、ぼうっと見つめる。そんな千春の斜め後ろから、画面を覗きこみ『これで検索できるの?』と訊ねる奈穂の表情は純粋で翳りはない。しかし、千春の中にはまだ違和感があった。どうも先程から奈穂の挙動が不自然に感じられた。思い返してみれば、数分前、広場で奈穂を図書館に誘った時、彼女は一瞬『え?』と驚いた顔をしていた。千春は初め、自分が誘われると思っていなかったからこそ、驚きを垣間見せたのだと判断した。が、その後の彼女の仕種を見ていると、彼女は雛図書館に最初から来るつもりはなかったように千春には思えた。
彼女は一体何をしたいのだろう。
千春は振り返り、奈穂の顔を見つめる。見つめる体裁を装って、彼女の双眸を観察する。しかし、千春に見つめられ『ん?』と首を傾げて照れる奈穂を見ても、彼には彼女の心中まで見通すことはできない。見通せない以上、彼女の心理を考えていても仕方ないので、千春は諦めてパソコンにキーボードで『死のロングウォーク』と入力し、エンターボタンを押す。
検索結果はすぐに表示された。どれどれと、ろくに期待しないで見てみると、パソコンの画面には『当館に在庫なし』と表示されていた。
件の本の初版刊行は二十年近く前のことなので、海外の作品ということもあって、現代の図書館に置かれていないのはある意味当然のことなのかもしれない。が、奈穂はよほど読みたかったのか、検索結果を目にするや否や『えぇ?置いてないの?』と雛図書館に対して不平を漏らした。
「まぁ仕方ないよ。古い作品だから」
「ううん。でも、少しでもいいから読んでみたかったなぁ」
若干不貞腐れたような表情で残念がる奈穂を他所目に、千春はキーを押してパソコンの画面をトップページに戻す。
「そんなに読みたいのなら、僕のでよければ貸すけど……」
「本当?貸して貸して。読みたい」
千春が気遣って話をふった途端、奈穂は目を輝かせ、両手を胸の前で握りしめた。
彼女の反応は千春の予想を超えていた。どうやら社交辞令で読みたいと云っていた訳ではないようだ。
「わかった。じゃあ、今度会う時にでも、持って来るよ」
「また会う日が増えたね」
顔を赤くして微笑を浮かべる奈穂。
「そうだね」
千春は奈穂の眩しい視線と勢い付いた熱気に尻込みし、真横に来た彼女から目を逸らす。
「ところで、これからどうしよっか。本見つからなかった訳だけど」
「あ、じゃあ私の好きな本を検索してみるね」
奈穂は千春の前に出て、不慣れな手付きでキーを押す。
「お、私の好きな本はあるみたい」
千春は奈穂の子供っぽくはしゃぐ面持につられて、パソコンの画面に双眸を向ける。映し出されているのは、かの有名な夏目漱石の検索結果。
彼女の好みは純文学のようだ。中学時代、語彙力の乏しかった奈穂を知っているだけに、千春には目の前の光景が不思議に思えた。
「夢野さんは夏目漱石を読むんだね。それで、好きな小説っていうのは?」
千春は視線を奈穂の横顔へと移し、訊ねる。
夏目漱石の検索結果はパソコンの画面に三十件表示されている。三十は一度に表示できる著書の最大数。画面内で重複している彼の作品をとばして見たとしても、奈穂が求めている本は千春には判らない。
「あ、うん。私が好きな小説は……」
千春に問われ、奈穂はマウスを操作し、画面内の一つの項目をクリックする。
「この『彼岸過迄』って小説。山中君は読んだことあるかな?」
「ひがんすぎまで……」
千春は奈穂が選択し、青い斜線が引かれた『彼岸過迄』の項目へと目を向け、しばらく画面を見つめる。
「読んだことないね。名前を見かけたことならあるけど」
千春が夏目漱石の作品で読んだことがあるのは『こころ』だけだった。
「なら読んでみてよ。ちょうど在庫あるみたいだから、探そうか。7Aの棚だって」
「ちょっと待って、今から読むの?」
奈穂は返事を聞く前から館内の奥に向かって横二列で縦にずらりと並ぶ本棚のほうへと歩を進める。それを千春は慌てて制止し、受付に飾られた時計を見て現在の時刻を確認する。
時計を示しているのは午後十二時十五分。義母に帰るよう言われている午後五時までには、まだ五時間近く余裕がある。しかし……。
「『彼岸過迄』は確か長編小説だったよね。読むのは構わないけど、僕が読んでいる間、夢野さんはどうするの?」
読みたくない訳ではない。ただ、千春は彼女を待たせてしまうのが気掛かりだった。
「私はそこら辺にある本を読むから、気にしなくていいよ。好きなだけ読んでって」
「そんなこと言われても……」
「いいからいいから。読んでみてよ」
千春の肩を後ろから押し、無理矢理前に歩かせる奈穂。時折強情になる彼女は、こうなったら千春には止めることはできない。結局、千春は奈穂の頼みを断り切れずに彼岸過迄を読むことになった。
「じゃあ、僕はそこの椅子に座ってるから」
奈穂と二人で件の本を見付けると、千春は彼女に声をかけてから空いている長椅子の端に腰を下ろす。
夏目漱石か……。
本を読む気分ではなかった千春にとっては、奈穂が勧める本の内容よりも、彼女が抱える心の内のほうが気掛かりだった。が、それでも千春は沸き立つ感情を抑え、奈穂が戻るまでには読み始めなければと表紙を捲った。
奈穂は千春が前書きを読み終えた頃、ちょうど彼の隣に腰を下ろした。腰を下ろしても、書を読む千春を気遣っているのか、彼女が言葉を発することはない。奈穂はただ、にこにこしながら千春の横顔を見つめる。千春はその視線を意識しながら、奈穂の膝元へと目を向ける。
二、三分離れている間に、奈穂は一冊の本を手にしていた。
何の本だろう。
注視してみると、彼女が膝の上に乗せている本は森鴎外の『高瀬舟』だった。
彼岸過迄を探す際、千春は奈穂に『純文学なら何が好き?』と問われ、さして考えずに『森鴎外の高瀬舟かな』と答えた。
奈穂はそれを真に受けに高瀬舟を取ってきたようだ。
どうせならもっと時間をかけてから答えるべきだった。
彼女が手にしている本の内容を思い浮かべて、千春は思わず苦笑しそうになった。
高瀬舟は安楽死をテーマにした作品だ。先に勧めた『死のロングウォーク』よりは明るい話かもしれないが、どちらにしろ人の生き方を扱った重い話であることには変わりない。もっとも、奈穂の受け取り方次第で作品の印象は変わってくる。つまるところ、彼女自身の問題なのだが、千春は刹那の間後悔した後、読書中であることを思い出したかのように手にした本のページを捲った。
さて、そろそろちゃんと読み始めるとするか。千春はそう自分に言い聞かせ、周囲への関心を絶つと、眠そうな顔で彼岸過迄の黙読を始めた。




