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春。
春とは人に安らぎを与える季節。人の心も体も温かくしてくれる優しい季節。春には冬の厳しい寒気はなく、夏のしつこい暑さもなく、純粋に考えれば春は一年で一番過ごしやすい。
人は面倒事を嫌う生き物だ。雪崩も旱ばつも起きてほしいと願うものはそうそういない。故に、程良い気温で自然災害の少ない春を人は好む。
しかし、美しいとされる薔薇に刺があるように、春にも刺がないということはない。
春という言葉には古くから色情という意味もあり、また一年の内に最も性犯罪が起こる時期がその季節だ。
暴力とは無縁の生活を送れている者にとっては、春は過ごしやすいのかもしれないが、性暴力を行使される側にとって春ほど生き辛い季節はない。地元の雛図書館で得た知識と自身の経験から、千春はそう確信していた。
三月十七日、午前十一時三十七分。
雛図書館前の広場。その広場の中心に安置されている、直径2mほどの地球儀付近。複数設置された木製のベンチの内一つに、千春と奈穂は共に腰掛け、昼食の菓子パンを二人で分け合って食べていた。
平日の午前だからなのか、休日には親子連れで賑わう広場に、二人以外に人気はない。
人混み溢れる場所に入ると、千春は息苦しくなる。見知らぬ者が傍にいない状況は、人嫌いの千春にとって、気分の良いことだ。とはいえ、二人以外の人気のないこの場所で、千春の心は穏やかではなかった。
千春と奈穂の目の前には三羽のハトがいた。
それぞれ模様に微妙な差異のあるハトたちは、十分ほど前に、食事中の千春と奈穂からおこぼれを貰いに来たのか、二人の前に物怖じせず堂々と降り立った。つい先程までは腹を空かせたハイエナのように二人の近くを右往左往していた。ふと前を見れば、いつの間にかその内一羽が他の二羽の―体色がピンクがかった―ハトを追いかけまわしていた。
片方の後をつけるのに飽きると、そのハトはもう片方のハトへと矛先を向ける。やがてそちらも飽きるとまた片方のハトにちょっかいを出す。
ハトにも性欲があるのか、それとも単に退屈でじゃれているだけなのか。どちらにしろ、千春は三羽のハトが目に入ると不快な気持になった。
千春には追いかけているほうのハトが刃物を持った変態性欲者に、追いかけられているほうのハトがレイプされかけの全裸の女のように見えた。
何も、夢野さんといる時に始めることないじゃないか。
千春は三羽のハトから目を放し、僅かに顔を顰め、隣りに座りメロンパンを食している奈穂の横顔を盗み見る。
彼女は紅葉を散らし、嬉しそうに笑みまで浮かべてゆっくりと口を動かしている。彼女が千春と同じようにハトに対して不快感を表している様子はまるでない。そもそも奈穂の輝きのある双眸には千春以外の事象は映っていないのかもしれない。
千春は奈穂が楽しそうにパンを食しているのを確認すると、雲一つない青い空へと視線を向け、空のビニール袋を膝の上に乗せた紺色のリュックの中に、極力音を立てないよう静かにしまった。
午前十一時に、雛図書館前の広場で千春が奈穂と落ち合った時、彼女は寝不足気味の疲れた目を彼に向けた。挨拶が交わされるよりも先に、彼女の双眸が、野上との一件を話してくださいと頼んでいるように千春には見えた。その為、千春は彼女と目が合うなり、昨日野上と再会した時の事の顛末を語った。勿論、千春は自分が身を売ることを嫌っていることに、奈穂が気付いていることを知ったいるので、彼女に余計な無力感や苦しみを与えない為にも、野上との一件は嘘を交えて彼女に伝えた。
『夢野さんと別れた後、僕は駅で野上と再会した。そして……』
千春は野上と春眠橋駅で再会し、隣町まで電車で移動したことまでは話したが、ホテルに連れて行かれたことまでは話さなかった。ホテルに連れてかれそうになったが、結局何もなかったのだと、奈穂に話した。今ではその話を奈穂は信じているようだ。笑顔で千春との食事を楽しんでいる。しかし、千春の事象を捻じ曲げた話を、奈穂は初めから信じた訳ではない。
千春は奈穂に野上とは何もなかったと話すと、おとなしい性格の彼女にしては珍しく、怒りを露呈して彼の話を否定した。
『何もなかった訳がない。何かあった筈だよ。どうして隠すの?』
千春が奈穂の怒った顔を見るのはこの時が初めてのことだった。千春は周りの目も気にせず怒りの感情をあらわにする彼女の気迫に圧され、一瞬言葉に詰まった。
自分の為にここまで怒ってくれる人が他にいるだろうか。いっそ全てを打ち明けてしまおうかと千春は思った。が、ここで圧されて野上との抗うことのできない関係を語ったところで彼女が幸せになることはないと、自身を叱責し、すぐに平静を装うと、いつものように優しい言葉を返した。
『あの辺りは最近警備が厳しいから、野上も悪事を働けなかったんだ。本当に、野上とは何もなかったよ。どこも人通りが多いから、殴られることすらなかった。でも夢野さんが僕の話を受け入れられないなら、確かめてもらうしかないかな』
殴られることすらなかった。これも事実とは反するものの、千春が実際に上着を脱ぎ、半裸になろうとすると奈穂は慌てて、彼を止め、彼の言葉を受け入れた。
その後はお互い気まずくなり、図書館に入る気も失せ、千春の提案によって、少し早かったが、近くのコンビニで菓子パンを買い、広場で昼食をとることになった。
『ごめん、山中君。本当のことを知りたかったんだ』
雛図書館前の広場から歩いてすぐの、何故か出入口付近にレンガが積まれてある、いつも店内が薄暗いコンビニへと向かう際、奈穂はぼそっと心中を語った。強く言わなければ山中君が嘘を吐くのではないかと。千春は彼女の気持を察して『気にしてないよ』と笑顔で返した。
それから奈穂は紅葉を散らし、笑みばかり浮かべている。広場を出て、千春が忌み嫌う雛警察署の前を通り過ぎた時も、件のコンビニでどのパンを買うか、千春と相談する時も、支払いの際、千春が奢ると口にした時も、広場に戻って来て、二人で並んでベンチに座った時も、彼女は笑顔だ。
二人の前を歩きまわるハトたちも、一面青色に染まった、千春にとってはなんの面白みもない空も、おそらく彼女の目には映っていない。
彼女が幸せそうでなによりだ。千春は奈穂の横顔を盗み見て、そう思った。奈穂の笑顔を見ていると、自然と顔には笑みが浮かび、口からは笑い声まで漏れそうになった。例え一時でも、大切な人と平穏な時間を過ごすことができるのは幸せだった。
暴力に溢れた現実になど目を向けていたくない。人が苦しむばかりの世界に戻りたくない。そう思わないこともなかった。しかし、千春としては呑気に笑ってもいられなかった。
彼女が自分をこの場所に呼び出したのには意味がある。千春は奈穂が何か隠していると考えていた。
彼女は意味のないことをする人間ではない。話さないのも、今は話す準備ができていないだけ。千春は笑みを絶やし、雛図書館の出入口の自動ドアへとつまらなさそうな視線を送る。
きっと彼女は助けを求めているのだろう。自分一人では解決できないほどの問にぶちあたっている。だからこそ避けていた僕に話しかけてきた。
「あぁ!ハトだぁ」
不意に、千春の前を二、三歳くらいの少年たちが歓声を上げ、三羽のハトめがけて走り出した。
千春はいつの間にか目の前まで来ていた子どもたちの声によって、現実世界に戻されると、むっとして少年たちを見つめる。と、ほとんど時を同じくして、三羽のハトが空高く飛翔した。
子どもの無邪気な好奇心の犠牲となったハトたちは、雛図書館の屋根の上に揃って止まると、何事もなかったかのように静かに鳴きながら辺りを徘徊する。それを恨めしそうに見上げる子どもたち。
それらが今頃になって近くにいることに気付いた奈穂は、受ける春の日差しに目を細めながら、屈託のない笑みを浮かべて呟く。
「なんかのどかだね」と。
千春はそんな―一時的に苦しみから解放された―奈穂と目が合い、無理して『そうだね』と、笑みを浮かべた。
誰もが作り笑いだと疑わない赤子のように優しく澄んだ笑みを、彼女の為に。




