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物語はまだ続きますが、この話で『仮初の計画』の連載は一旦終了です。
暗闇の中で、不定期的に二つの音が響いていた。一つはエアガンの発砲音。もう一つは発砲された玉の衝突音。千春の眠気を吹き飛ばすそれらの轟音は、止まることなく彼の佇む洋服箪笥の扉に向けられる。
時折発砲音が不発に終わるのは、リズムでもとっているからなのか。いずれにせよ、千春が閉じ込められている洋服箪笥に向けて、エアガンを発砲し続ける彼の義兄は、歪な旋律を奏でることを楽しんでいた。
午後九時十七分。
扉の隙間から僅かな光が差し込む、暗い、空の洋服箪笥の中で、千春は体育座りをしている。図書館で奈穂と別れ、自宅に着いてから、ほとんどその姿勢のままだった。
狭いところが苦手な千春が、閉塞感溢れる洋服箪笥に籠っているのは、好んでそうしている訳ではない。
千春は義母に呼び出され、急いで帰宅してみるも、帰りが遅いと彼女にこめかみを殴られた。息を切らして玄関を開けなかったのが失敗だったようだ。機械よりも冷たい目をした義母は、小走りで帰路についた千春の努力など鑑みずに、携帯電話を取り上げると、彼の部屋に置かれた洋服箪笥の中に、彼を無理矢理閉じ込めた。
「お前は本当に醜い奴だ。あいつらとは縁を切れってあれほど言ったのに」
義母の怒りの原因は、千春が野上と接触したことにあるようだった。彼女は千春が話さなくとも、昨日彼と野上が会っていたことを知っていた。
義母には野上のほうから連絡を入れたのだろう。千春の携帯電話には義母の連絡先が登録されてある。一時的に千春の携帯電話を所持していた野上ならできないことではない。
元々野上は愛する者を傷付けることで性的快楽を得るサディストだ。義母と自ら連絡を取ったのは、彼女の中に潜む過去の醜態を刺激すれば、彼女が抑圧している感情を爆発させ、千春に陰湿な八つ当たりをすると踏んだからなのか。いずれにせよ、千春からしてみればとばっちりだった。
義母は小一時間ほど千春を罵倒した。彼の不純な行動を責めることから始まり、彼の名前、名前の由来、人格、人間関係、そして彼の母親の人生までをも否定すると、満足したのか、薄ら笑いを浮かべ、箪笥に鍵もかけずに満足そうに部屋を出て行った。義兄が千春の部屋に入ってきたのは、それから五時間後のことだった。
千春より三つ歳が上の義兄は、幼い頃から彼のことをストレス解消の道具としか見ていない。
ある意味で、この家の中で一番千春に対して暴力を振るっているのは義兄だ。義母は何かしら自分の考えにそぐわないことが起きると、千春に暴力を振るうが、義兄の場合は自分がむしゃくしゃしていようと、穏やかであろうと関係ない。ただ、面白いからという理不尽で残酷なまでに純粋な気持から千春を傷付ける。
今日も今日とて義兄は千春の前に現れた。
猟銃を以て獲物を威嚇する狩人のように、自分より弱い立場の者に向けて発砲することに、彼は悦に入っていた。
テストステロンが脳内で大量に分泌されている今、義兄の頭はエアガンであっさり千春を傷付けてしまうことを拒否していた。まずは不定期的に鳴らす発砲音で千春を脅かし、前菜に飽きた頃に彼を箪笥から引きずり出し、メインに取りかかるのが義兄の算段だ。
千春は義兄の考えを見通していた。しかし、だからといって何もできなかった。この家の中では、彼は完全に無力なのだ。
五分ほど発砲音が休息を取った。箪笥の外で義兄が携帯電話をいじっているのだ。しばらくして、音は再び千春の部屋に響き始めた。
義兄からしてみれば、箪笥に向けて発砲するのは、暗闇の中、千春に居眠りさせない為の嫌がらせでもあるのだろうが、千春からしてみればその嫌がらせはありがたかった。
昨日、野上に性行為を強いられたこともあって、千春の体は疲労していた。暗闇と二人きりで身を寄せていれば、そこに睡魔がつけ込んでくる。計画の完成にはもう少し時間が必要だった。千春としては今すぐにでも彼女を救う為の計画を実行に移したいと思っている。ここで容易に睡魔に身を任せ、居眠りをこく訳にはいかないのだ。
バチッバチッバチッ。火花が散る時にも似た、エアガンの発砲音は、相変わらず室内に響いていた。そんな中、千春が思いめぐらせているのは、計画遂行に必要不可欠な協力者の存在だった。
千春は自分が立案した計画で、瀧澤を確実に逮捕に導くには、奈穂と二人だけでは不可能だと考えている。だからこそ信頼できる協力者を探していた。
必要なのは最低二人。一人はこちらの素性を知らない者。そしてもう一人は奈穂の事情を汲める顔見知りの者。千春が後者には誰が適任か考え、真っ先に思い浮かべたのは同学年の少女、深町香織だった。
彼女は二年B組の学級委員を務めている。性格も明るくて優しいと、同級生からも教師からも評判の生徒だ。
成績は優秀で、友達も多い。それに何より香織は女だ。男の千春よりも奈穂を精神面で支えられるに違いなかった。しかし、千春が誰よりも先に彼女を思い浮かべたのには他に理由があった。
千春は日頃より、香織からの視線を感じていた。教室で一人、弁当を食べている時、トイレに向かう時、校庭で体育の授業を行っている時。それらはいつも他の多くの者がするような、彼を蔑む目ではなく、憧憬の眼差しであることを千春は気付いていた。
おそらく香織は千春の助けになれるのであれば、何でもするのだろう。千春にそう思わせるほど、彼女の目には情熱的な力が宿っていた。
香織の千春に対する気持は計画遂行に利用できるに違いない。しかし、千春が香織に抱く希望はあくまでも期待であって、確信ではなかった。その上、彼女が校内でのいじめの標的を決めているという黒い噂を耳にしていない訳でもなかった。
彼女は外面を真面目で優しい人間で装っているだけで、中身は汚物の詰まったゴミ袋のように、歪な感情を弄んでいるのだろうか。
結局、千春は少しでも不安要素のある香織を協力者候補から外すことにした。
次に千春が協力者候補として思い浮かべたのは中学時代の恩師、五味教諭。男気溢れる彼女は教師たちの中では唯一、奈穂が瀧澤から暴力を受けていることを認知していた。成績優秀で、普段上品な振る舞いをする瀧澤の仮面に騙されない者はほとんどいなかった。そんな中、感性の鋭い千春よりも先に瀧澤の悪行を見抜いていた五味は、持ち前の正義感で、奈穂に暴力を振るう彼を糾弾しようとした。しかし、それが故に五味は瀧澤に目をつけられてしまった。度重なる瀧澤からの嫌がらせにより、彼女の目は、千春と奈穂が中学を卒業する頃にはまるで魂が抜けてしまったかのように空ろだった。
五味は千春と奈穂の中学三年生時の担任。陰で大悪無道を尽くす瀧澤を唯一糾弾しようとした大人。香織とは違い、千春と奈穂の両名と親しく、瀧澤とも面識がある。今の千春にとって五味は誰よりも頼りになる博識のある大人だ。
しかし、千春は五味を信用しきれずにいた。
勤めの終えた太陽が空を下り、校舎が橙色に染まったある日の放課後。職員室の隅に設置された『生徒相談室』という名の小部屋で、五味は千春に云ったのだ。奈穂は絶対に助けてやると。その頃の千春は瀧澤の底知れない悪意に気付いたばかりで、徒党を組んで弱い者いじめを楽しむ卑劣漢にいかなる手を使ってでも、制裁を加えるつもりでいた。そんな彼を、五味は言葉で厳しく悟した。そのお陰で千春は罪を犯すことを回避できた。今でも千春は五味に感謝している。だが、いつしか五味から奈穂の助けになるという気が全く感じられなくなったのは事実だった。
まだ五味に奈穂を助ける気持があるのならば、瀧澤のことで千春を巻き込むまいとしていた奈穂が、彼に声をかけることはない。千春が五味を信用しきれない大きな要因は、彼女が奈穂を見捨てたことだ。とはいえ、千春は三枝と同じように五味を恨んではいなかった。五味のしたことは多くの人がしているように、自分の人生を優先させただけに過ぎないのだ。千春はそれを責める気は微塵もない。少しくらい連絡をくれてもいいのではと思ってはいるが。
ドンドンドン!唐突に洋服箪笥の扉を乱暴に叩く音が、暗闇の中に響いた。千春は招かれざる訪問者の急襲を受け、びくりとして顔を上げた。上げたところで箪笥の中は真っ暗なので、何も見えはしなかった。しかし、外でエアガンを発砲し続ける義兄の声を捉えることはできた。
「そろそろ出してやるからな、千春。楽しみにしておけよ」
下品な笑い声を上げて、義兄は箪笥の扉に拳を埋めた。
千春は義兄の言葉から、罰の終焉も近いことを悟った。家の人間の気が満たされさえすれば、外に出ることができる。外に出ることさえできれば、奈穂と連絡も取れる。その前に、重い勘当が待っていたとしても、長い長い拘束からようやく解放されるのだ。
千春は現在の時刻を知らないが、罰が終わればすぐにでも奈穂に今日話した計画の詳細を伝えるつもりだった。
ぐずぐずしてはいられないな。
計画はまだ不完全だった。計画が完成する前から詳細を奈穂に伝える気は千春には毛頭ない。
急がないと……。
不快な焦燥感に襲わた千春は、協力者候補から五味を外すと、自分と同じクラスの少女、新井早紀の姿を思い浮かべた。
早紀は普段、学校で感情を表に出すことはない。終始無口で、教室では一人でいることが多い。早紀は人と関わるのが嫌いなようだった。集団とは可能な限り距離を置き、周囲に分厚い壁を作って他者との繋がりを遮断する。彼女の人付き合いを絶つ振る舞いは、教師ですら黙認するほど、頑なで強固だ。それ故に、彼女が日頃何を考えているのか、どんな人物なのか、はっきりと理解している者は皆無に等しい。人の考えを見透かすことが得意な千春にしてもそうだった。
美人という理由で陰湿ないじめを受けているという早紀。同級生の話によれば、彼女の母親は一流のメークアップアーティストなのだそうだ。彼女が綺麗なのは、母親の偽装技術によるものだと訴える同級生もいるが、それは単なる彼女に対する妬みに過ぎない。
早紀は偽りのない美しさを兼ね備えている。彼女のことでみなが認知しているのはその点くらいのものだ。しかし、千春はみなが知り得ない早紀の隠し事を知っている。その彼女の隠し事は、奈穂を助ける計画に大いに利用できそうだった。だからこそ千春は、有力な協力者候補として早紀を選出した。
新井さんとはろくに話したことがない。どんな人なのかもよく分からない。でも、新井さんはきっと協力してくれる。なぜなら彼女は……。
千春の知る早紀の隠し事。それは彼女の思い人。
平生、無表情を貫く早紀が、人前で笑うことは滅多にない。しかし、時折彼女は刹那の間、聖女のような優しい笑みを浮かべることがある。そのことに千春が初めて気付いたのは移動教室の際、廊下で奈穂とすれ違った時。千春が何気なく向けた視線の先に、不純物のない笑みを浮かべる早紀の姿があった。注視しなければ捉えることすら困難な、彼女の生まれてすぐ消える笑顔は、奈穂の背中に向けられていた。
その後、何度か似たような場面に出くわした千春は、最初こそ勘違いだと思っていたが、いつしか早紀の思い人が奈穂であることに確信を持つようになった。
千春が立案する計画の協力者候補の一人、深町香織はあくまでも千春に好意があるだけに過ぎない。奈穂を救う為にいかなる手段でも行ずることができるかといえば、そんなことはないだろうと千春は考えている。また同じく、協力者候補の一人、五味教諭は千春とは中学生の時、瀧澤たちによるいじめの件で大きく力になってくれはしたものの、その動機はいじめを許さなかった五味の息子と千春の姿を重ねただけだった。結局五味は奈穂を救おうとしたのではなく、千春を争い事から救おうとしただけなのだ。
香織と五味では、奈穂を助けようという気持が弱いのは明らかだった。しかし、早紀は違った。
心の中に底知れない闇を抱えているであろう早紀が、胸の内に秘めている奈穂に対する純粋な愛情は、千春でも比較にならないほど深く、慈愛に満ちている。奈穂を救う上で、千春が一番重要視している彼女に対する思いを、早紀はしっかりと持ち合わせている。
千春は早紀がどんな人間なのか。知らないことが多過ぎた。が、計画の協力者にうってつけの人物は、彼女以外には考えられなかった。
奈穂の父親は愛する妻を事故で失ってから数年の間、彼女に暴力を振るい続けた。彼には娘が最愛の人を奪ったように思えたのだ。奈穂曰く、今でこそ穏やかになったそうだが、千春には彼を信用することができずにいた。本来奈穂の親にも協力してもらうべき事象を、千春が自分たちだけで解決しようするのはその為だ。
千春は決して奈穂の父親を協力者候補から外していた訳ではない。しかし、最後には誰よりも奈穂に対する愛の深い、新井早紀を協力者として選ぶことにした。
これで全てがうまくいく。これで彼女は救われる。
協力者が決まると、千春の頭の中でパズルのピースが次から次へと一つの形を成していった。いよいよ千春が計画の全体像を完成させた時、義兄が洋服箪笥の扉を乱暴に開いた。
「待たせたな、千春。そろそろ遊びも終わりにしようぜ」
眩しく、鬱々とさせる白い光と共に、目に入ってきたのは義兄の下卑た顔。彼の右手には非常にもまだしっかりとエアガンが握られている。見えない錠で封をされていた扉が、義兄の手によって開かれたということは、そろそろ罰も終焉を迎えるようだ。
千春は心の内で安堵の微笑を浮かべると、義兄に引きずられるような形で暗い箪笥の中から外に出た。
待ちに待った外に出たところで、すぐには奈穂と連絡は取れない。連絡を取る前には、理不尽な暴力に耐える必要があった。しかし、千春の表情には苦悶の色など微塵もなかった。
彼は罪を赦された罪人のように穏やかな顔で、因縁という名の一方的な罰を受けるのであった。




