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二人は中学三年生になったあたりから、互いとまともに話をしたことがなかった。ここ数年はお互い顔を合わせることすら避け、他人同然に振る舞い続けていた。故に、二人の間にはいつしか壁ができていた。そんな状況下では口下手な千春が無理をしても、話が弾まないのは当然のこと。とはいえ、元来千春と奈穂は唯一無二の親友同士。長い年月を経て、二人の間に壁ができたといっても、その壁は大きくもなければ厚くもない。壊そうと思えば壊せるし、越えようと思えば越えられる柔な壁だ。しかし、それでも千春は奈穂との接し方すら分からなかった。
どんな話をすればいい。どう話しかければいい。
答えを探してもがいても、奈穂を笑顔にする言葉は一向に見つかる兆しがない。千春はいっそ彼女の方から話しかけてくれればいいのにとさえ思うが、奈穂は先程から遠慮勝ちに千春の手元を見つめているだけで、口を固く閉ざしている。
もうこの際なんでもいい。彼女が楽しいと思える話題はないだろうか。
千春は半ば混乱して、視線を右へ左へ弄ぶと、不意に、奈穂の机に刻まれた文字が目に入ってきた。
帰れ。死ね。
鋭利な刃物のようなもので、机にはそう刻まれてあった。
千春はそのことに気付くと、ぎょっとして奈穂の周囲の机に目を配る。
喧嘩上等!赤点余裕!
やたら威勢のいい落書きは見かけられても、少なくとも周りの机には非難めいた言葉が刻まれているものは一つもなかった。
いつになっても、下らないことをする奴はいるんだな。
千春は奈穂の手前、軽くため息を吐き、再び彼女の机に目を向ける。白く塗装された机の表面は、他と違い、全体的に灰色がかっていて、いくつもの暴言が刻まれてある。その刻まれた文字の中には『ナホのアホ』というフレーズが随所で見受けられた。
おそらく、机に与えられた傷は全て、彼女に向けたものなのだろう。
陰湿な同級生の手口を目の当たりにし、千春の目つきは自然と鋭くなる。
幼い頃から千春は弱い者いじめと集団暴力を忌み嫌っていた。奈穂が毎日同級生から嫌がらせを受けているのかと思うと、両拳には自然と力が入った。
「どうしたの?山中君……」
千春が拳に力を込めると、奈穂は彼の微妙な気持の変化を感じ取ったのか、視線を彼の双眸へと向ける。刹那の後、二人は目が合った。
ここで目を逸らせば、彼女に自分の考えを見透かされる。千春はそんな気がして彼女をじっと見返す。おずおずと千春を見つめる奈穂の目は、よく見ると空虚だった。千春も負けず劣らずの生気のない目だが、その気になればいつでも、双眸に輝きを宿せることもあり、彼女ほどさびしくはなかった。
夢野さん、まさか未だに瀧澤に付き纏わられているなんてこと、ないよね。
千春は思わず視線を落とし、今現在彼女が抱えている心の闇の大きさを推察すると、今度こそ彼女に話を振ろうとした。が、口を開いたのは奈穂のほうが僅かに先だった。
「あぁ、何かと思ったら、これのことね」
千春の視線に気付いた奈穂は、つまらなさそうに双眸を机の傷へと向ける。
「これさ、朝来たら、いつの間にか彫られてあったんだ」
机に刻まれた暴言を手でなぞりながら、苦笑いを浮かべる奈穂。
遅かったか。
机の話題が奈穂の口から語られ、千春は一瞬罪悪感に襲われた。千春としては、机の話題は避けておきたかった。そう思ったのは、彼女がそのことに触れてほしくないだろうと考えていたからだ。しかし奈穂の表情からは嘘偽りを感じさせるものは微塵もなかった。彼女は心底同級生からの嫌がらせを気にも留めていないようだ。
僕の勘違いだったか。
千春は数秒、奈穂の双眸を凝視すると、中腰になり、彼女の方へと椅子を引きずりながら移動した。
例え奈穂が同級生からの嫌がらせを下らないと思っていたとしても、安心してはいられなかった。
彼女が決してタフな性格でないことは、中学生の時から彼女を見てきた千春には分かっていた。だからこそ千春は思った。彼女は学校内でのいじめを取るに足らないと感じるくらい感覚が麻痺していて、今現在それとは比べ物にならないくらい重い苦痛や不安に襲われているのではないかと。
「夢野さん」
微妙に距離を置いて腰かけた千春に名前を呼ばれても、奈穂は机の傷をなぞるばかりで、返事をしなかった。抜け殻然とした彼女の体は、そもそも千春の声が届いていないのかもしれない。
「夢野さん」
今度はせわしなく動く奈穂の腕を握りながら、千春は彼女の名前を呼んだ。すると、奈穂はしばらく放心状態で、千春に腕の動きを止められたまま、じっと机の傷に双眸を向けていたが、ふと現状を理解した途端、顔を赤くし「え?あ、どうしたの?」と言って、恥ずかしそうに俯いた。
千春はそんな彼女の反応を見て、数年ぶりに心の底から笑みを浮かべた。
千春からしてみれば、奈穂の行動はどんな間の抜けた計算高い芸よりもおかしく感じられた。
奈穂の、こちらの予想を裏切る子どもっぽい反応を見ていると、今まで彼女に避けられ続けていたことなどどうでもよく思えてきた。
「夢野さん。困っていることがあるなら、何でも言ってよ。助けになるから」
たどたどしい口調で言葉を紡ぐ千春。その千春の笑みを見て、目に光が宿る奈穂。
「そ、そう?じゃあ……」
「じゃあ?」
「山中君の手、握ってもいいかな?」
そうきたか……。
奈穂の返答は千春の予想の斜め上を行っていた。とはいえ、奈穂は先程とは違い、落ち着いた口調で千春に訊ねてきた。そこには千春が忌み嫌う性的欲求は微塵も感じられなかった。故に、千春は快く彼女の頼みを受け入れることにした。
「うん、いいよ」
「うん……」
奈穂は千春の返事を聞いた途端、腕に力を込めて、彼の右手を見つめた。
千春は気恥ずかしかったが、奈穂の腕から右手を離すと、そのままぶっきらぼうに彼女の机の上に安置した。
数秒後、奈穂は遠慮勝ちに千春の手に自身の手を重ねた。彼女の手は千春のとは正反対で熱を持っていた。
彼女の手の温もりは、極寒の地で燃える炎のように、心地良く力強いものだった。
なんて温かいんだ……。
彼女の熱を感じると、温もりに飢えている千春は空いている左手を、従順で綺麗な彼女の手へと伸ばしたくなった。しかし―ここで手を出したら野上や瀧澤たちと一緒じゃないか―湧き立つ衝動を、自分に暴力を振るってきた大人たちの顔を思い浮かべることで、何とか抑え、気を紛らわす為に俯いた。
黙っていても、何故か千春は緊張した。今朝手を握られた時とは別の感覚に襲われていることが、千春には不思議だった。
僕は一体どうしてしまったんだ。これまでだって、いろんな女に体を触られてきたじゃないか。どうしたって今になって。彼女に限って。いや、今の状況がちょっと特別なだけだ。動揺することなんてない。僕は普段通りだ。そうだろ?
「ねぇ、山中君」
千春が一人、自問自答を繰り返していると、不意に奈穂が口を開いた。
「えっ、何?」
千春は奈穂の穏やかで澄んだ声に反応し、彼女を見やる。奈穂は千春の顔を見つめながら、もじもじしていた。
何か言いたいことでもあるようだ。そのことに気付いた千春は奈穂が話しやすいようにと促すことにした。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね……」
「お腹空いたとか?」
「それもあるけど……」
奈穂は紅葉を散らして俯く。彼女の仕種から、彼女が話そうとしているのは少なくとも暗い話ではないことが窺えた。しかし、奈穂は千春に対して内気な面があった。彼女の性格をよく知っている千春は、このままでは埒が明かないと判断し、彼女の緊張をほぐすという意味で、あえて惚けることにした。
「何?トイレに行きたいとか、駆け落ちしようとか?」
「違うよ」
千春がわざと惚けたことを知ってかどうか、奈穂は千春の問を笑いながら否定した。
雰囲気は十分だった。
あとはもう一押しすれば話してくれるだろうと千春は思った。が、彼がそうするまでもなく、奈穂のほうから話は切り出された。
「私たち、もうすぐクラス替えだよね」
「そうだね」
「楽しみ?」
「クラス替えが?そんなことないよ」
「え?どうして?」
「誰と一緒になっても、僕がからかわれることには変わりないからね」
「そう……」
奈穂は一瞬視線を落とす。
「でも、私は楽しみ」
「どうして?」
「来年は、山中君と一緒のクラスになれる気がするから」
『えへへ』と笑う奈穂。それを見て千春はこれが言いたかったんだなと推察した。
「余計な期待は、するだけ無駄だよ」
「うん、でも大丈夫。来年は絶対私たち同じクラスになれるから」
奈穂は満面の笑みを浮かべると、千春の手をぎゅっと握った。満面の笑みを浮かべているのだから、奈穂の笑みは喜びから来ているものだと判断するのが普通だ。しかし、千春には奈穂が、まるでホラー映画に登場する架空の怪物に怯える幼き少女のように見えた。
「こういうこと言うのもなんだけど、クラス発表はまだされてない筈。だから、まだ誰と誰が一緒になるかなんてわからない。教師のパソコンを盗み見した訳でもないんでしょ?」
「うん。一緒になるっていうのは全部勘。でも当たるよ、絶対」
「科学的ではないね」
「それでも良いじゃん。自分が楽しくて、それによって誰かが苦しむ訳ではないんだから」
「……」
千春は返事に困って黙り込んだ。彼女の言っていることは正論だ。しかし、物事は想像通りには動いてはくれない。大多数でスポーツをしている時、最初は楽しく和気あいあいとしていて、その時はみなが幸福を感じていたとしても、時間が経過し、途中で誰かがけがをしたり、競技を真面目に行わないものが出てきたりすれば、状況が悪化することは多々ある。
物事の動きというのはあなたが思っているほど簡単じゃない。その予想が当たらなかった時に傷付くのは、夢野さんなのに。
千春は奈穂に反論したかったが、他人の生き方にまで口を出すのは気が引けたので、替わりに話題を変えることにした。
「ところでこの教室、すごく汚いよね。いつもこうなの?」
千春が辺りに冷たい視線を向けると、奈穂は同じように辺りを見回し、苦笑いを浮かべた。
「うん。大体こんな感じ。今日はいつもよりちょっと汚いけど」
「よくこんなところで勉強できるね」
「まぁ、人間慣れれば何でもできるからね」
思わせぶりな発言だった。千春は先程から奈穂が隠している心の闇がどのようなものなのか、想像を膨らませているが、中々正体が掴めない。
とりあえず今の彼女が人の助けを求めているのは確かだ。問題は彼女を追い込んでいる諸悪の根源。いじめが関係しているのかとも思ったが、彼女の振る舞いからして、この学校内でのいじめは大した苦ではないように思える。ならば、家庭の問題だろうか。
千春の中で徐々に曖昧なイメージが形を成し始めた頃、ちょうど二年A組の出入口付近で、一人の少年が大声を上げた。
「夢野さあああああん!」
激しい主張を乗せた少年の声は、直接教室内に響くことはなかったものの、千春たちの耳にも十分過ぎるくらい届いた。
何だ今の……。
突然校内に響き渡った大声に、千春は一瞬怯んだ。しかし、大声に続いて、必死にこらえるような少女の笑い声が聞こえたのと、二人の制服姿の男女が教室の横を走り去って行くのを見逃さなかった。
あいつらの仕業か。
千春は教室の出入口に虚ろな双眸を向ける。すると
「ほんと、嫌になっちゃうよね」
奈穂がぼそっと呟いた。
「でも、私がいると、みんな教室出て行っちゃうから、便利だよね」
外からも中からも、ぼんやりとした様子しか窺えないよう加工された廊下側の窓ガラスを、奈穂はいつの間にか寂しそうに見つめていた。
「そんなこと、言うなよ」
千春は奈穂から急に生気が失われたような気がして、ぎこちなく返事をし、彼女の手を握り返した。奈穂は一瞬驚いた顔を千春に向けたが、すぐに笑みを浮かべて彼に礼を言った。
「うん。ありがとう。山中君ならそう言ってくれると思った」
「……」
千春は奈穂に返す言葉が見つけられなかった。
黙っていると、奈穂はどんどん千春の手を握る右手に力を込めていった。
彼女の振る舞いには、千春の人間性を疑う素振りは微塵もない。
前々から奈穂は千春を信じ切っていた。千春だけは絶対に裏切らないと思っているかのように。
「ずっとこうしていたいな」
頬を紅潮させ、おだやかな表情を浮かべる奈穂は、黒板の真上に飾られた丸いアナログ時計を見ながら、そっと言葉を紡いだ。
かわいらしいな。
奈穂を見て千春はそう思った。
二人の世界は手の上で溶けてべたつくチョコレートのように甘ったるく、人の温もりによってだらしなく弛緩し始めていた。
人嫌いの千春ですら、彼女の傍にいたいと思った。しかし、千春は奈穂につられて時計を見ると、夢のない現実世界に戻された。
時計の針は十二時四分を示していた。
そろそろ駅に向かわなければならない時間だった。
「ごめん、そろそろ帰らないと」
千春は奈穂の手を離すと、そっと立ち上がり、教室から出ようした。しかし、出入口に向かって一歩踏み出すことすらできなかった。奈穂は癒着したかのように彼の手にくっついていた。千春が手の力を抜いても、彼の手は奈穂と繋がったままで離れなかった。
「夢野さん……」
奈穂は今にも泣きそうな顔で千春を見上げていた。
彼女が考えいることは、千春には何となくわかった。
おそらく彼女は僕に野上と会ってほしくないと思っているのだろう。
しかし、千春は野上に会わなければならなかった。
彼女を良く思っているからこそ。彼女を汚れた世界に引き込まない為にも、かつて彼女がそうしたように、千春は奈穂から離れない訳にもいかなかった。
「行かないと。野上に会わないと」
千春は強引に右腕を引っ張ったが、頑なに手を離そうとしない奈穂を、椅子ごと倒しそうになり、慌てて力を押し戻した。もはやつい先程までの、蜂蜜に砂糖を混ぜたような甘い世界には戻れそうになかった。
「どうして?」
奈穂はか細い声でそう言うと、俯き、目に光を宿す。
「どうしてあの人にまた会いに行こうとするの?」
「野上には携帯電話を取られているんだ。返してもらわないと」
「でも、会いに行ったらまた山中君は」
「あれが無いと、僕は夢野さんと連絡が取れないだろ?」
千春は笑みを浮かべ無理して明るい声を出し、彼女の言葉を途中で遮った。
それでも奈穂は右手を離してくれなかった。
「そんなこと、どうでもいいよ。実際に私たちは生きてて、会えるんだから」
千春の手を握り潰そうとしているかのように、右手に更に力を込め、彼の手を両手で覆う奈穂。彼女を説得するには多大な時間が必要らしい。千春は悟ると、やむをえず、できれば触れたくなかった話題に触れることにした。
「会える。確かに僕たちは会えるよ。でも、僕を避けていたのは夢野さんのほうだろう?」
口にするのは躊躇われた。しかし、ここで野上を無視したら、彼の興味の矛先は千春を離れ、奈穂へと向かうことになるかもしれない。千春は少しでも彼女が傷付く危険性を排除しておきたかった。だからこそ、奈穂が一瞬手の力を緩めると、野上が待ち伏せているであろう春眠橋駅に向かう為、彼は手を引き抜いた。途端、奈穂はショックを受けたような顔を千春に向けたが、立ち止まっている訳にもいかなかった。
「ごめんね」
奈穂に背を向け、千春は教室の出入口へと歩を進める。彼女が悲痛な顔になった理由を反芻しながら。
「でも、私だって思うところがあって避けていたんだよ。山中君のこと、意味なく避けていた訳じゃない」
千春が出入口のドアの取っ手を掴んだ時、教室内に、奈穂の妙に落ち着いて澄んだ声が響き渡った。
千春にとっては懐かしい声だった。彼女の声はどことなく亡き母親の声を連想させた。
母さん……?
千春は一瞬振り返り、確かめたい衝動に駆られたが―母さんがここにいる訳ないじゃないか―すぐに我に返り、笑みを浮かべた。
「また明日会おうね」
千春は奈穂にそう告げると、幽霊のように音を立てず、静かに二年A組の教室を後にした。自身が忌み嫌う、野上に会う為に。




