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 体育教師の森康夫という男は授業中でもプライベートでも、興奮して吠える犬の如くやかましく喋る。避難訓練中でも、テスト中でも彼には関係ない。舌でも抜かない限り、彼は場所を選ばずひたすら喋り続ける。傍からすれば迷惑な話だ。大人にとっての会話というものは、時と場所を選んで行うもの。会議の途中、或いは用を足している際に、場の空気も読まずに世間話をするものではない。自分が話していて楽しいからといって、長々と私的な話を一方的に語るのは非常識だ。それでも、森と関わる常識ある大人はみな揃って彼の非常識な振る舞いを注意しない。注意しないのは一様に、彼の行動にあきれて声も出なくなるからなのだが、本人はそのようなことは一切気付いていなかった。

「全く、家の嫁も面倒臭い奴だよなぁ」

 教壇の上に立つ森康夫は、四十人の生徒たちに向かって、家庭の愚痴をこぼし始めると、大きくため息を吐いた。

 喧騒に包まれる勢条高校の二年C組の教室。その教室内には春休みを目の前にし、浮足立つ生徒ばかりで、担任である森の話を真面目に聞いている者はいない。ほとんどの生徒は森に体を向けることすらせずに、近くの席の親しい友人たちと、春休みの予定を話し合っている。だからといって、森が自分の話を聞くよう生徒を注意することもなければ、饒舌さに歯止めがかかることもない。彼は話すことに喜びを感じる。相手が聞いているか聞いていないかなどは彼にとってはどうでもいいこと。

 ただ、言葉をぶつけられる相手がいればそれでいい。森はそういう男だった。

「大体、ポストから新聞取ってくるなんて簡単にできるしすぐに終わることなんだから、それくらいでわざわざ怒ることないよなぁ?家の人間が届け物を受け取らなかったら誰が家に物を持ちこむっていうんだよ。誰かに恨まれている訳でもないんだから、誰も人の家の荷物を持ってたりなんかしない。誰かが取らなきゃ、新聞はポストに入ったままだ。何であんな小さなことに意地張って怒るかなぁ。まるで嫁の感覚がわからないよ。あ、それで春休み期間中の注意事項について話してたんだっけ。お前等、休みだからってあまりふざけたことするなよ、来年はお前等も受験なんだから。あぁ、それにしても二週間以上休みがあるなんていいよな、お前等は。俺もたまにはゴルフでもやりに行きたいよ。俺はな、自慢じゃないがゴルフの腕もプロ並なんだ。ホールインワンは若い頃に四回はしたことあるな。あぁ、ゴルフの話をしていたら久しぶりにやりたくなってきた。で、何の話だっけ、あぁそうだ春休みの話か」

 森の話は脱線するばかりで、本題である春休みの注意事項に関しては一向に語られない。そんな状況にうんざりして、千春は机に突っ伏して、しばらく目を閉じていたが、千春が顔を上げた時にもまだ彼の長話は終わっていなかった。

 一体いつまで無駄話を続けるつもりだ。超能力者、宇宙、天気の次は政治の話か?まったく……。

 千春は―体育館に集合と青い文字が書かれてある―黒板の上に飾られた円形のアナログ時計を見て、終業式が終わってから三十分が経過していることを知った。

 もう十時四十五分じゃないか。夢野さんはまだ教室で待っているのだろうか。

 奈穂のことを考えると、千春の心の中は急速に焦燥感で満たされた。

 千春はすぐにでも奈穂と連絡を取りたかったが、彼の携帯電話は今野上の手中にある。故に森の目を盗んで奈穂にメールを送ることすらできなかった。

 あとどれくらい待てばいいんだ。どれくらい待てば……。

 千春は口元に手をかざし、あくびをすると、教室の出入口へと目を向ける振りをして、隣の席の少女の顔を盗み見た。

 視線の先の少女の名前は新井早紀。学校一たおやかな少女である早紀は、授業中いつもしているように、無表情のまま机の中心を見つめている。

 容姿端麗が為に同級生から陰湿ないじめを受けている彼女が、一人何を考えているのかは彼女にしか判らない。人の目を見て相手の心情を読み取ることに長けている千春でも、早紀の頭の中までは読めない。

 ただ、千春は彼女以外で唯一、彼女のことで一つ知っていることがあった。それは、おそらく早紀が誰にも知られてはいけないと考えている、彼女の思い人だ。

 とはいえ、それを知っているからといって、森教諭の話が短くなる訳ではなく、今の千春には、早紀の思い人が誰なのかを知っている事実など、微塵も役に立たなかった。

 新井さんには底知れない力を感じる。それが正の感情なのか、負の感情なのか、それすらわからないのだけれども。

 千春は早紀から目を離すと、再び前方のアナログ時計へと双眸を向けた。

 時計の針は十一時を示そうとしていた。しかし、森の話はまだ続いていた。

「そういえば家の嫁はシャンプーの詰め替えに対しても文句を言うんだよな。いっつも自分がやってるって。シャンプーの詰め替えくらいで大人気ないよなぁ。大体、俺にほとんど小遣いくれないんだから、それくらいの雑用文句も言わずにやってほしいもんだよ」

 森は眉間に皺を寄せて、顔を左右に振る。

「それで、春休みの話か」

「あの、森先生。春休みの説明はもう終わりましたよ」

 森の話がいつまでも終焉を迎えないので、千春が痺れを切らし、立ち上がろうとした時、彼の同級生である、クラスのお調子者、大谷コウが右手を斜めに上げて、周りに促されるような形で森に嘘の報告を行った。すると森は『あぁそうか』と言って、二言三言お決まりの挨拶を述べて、ホームルームを締めくくった。

「じゃあ、お前等、くれぐれも人に迷惑のかかることはするなよ」

 長話が終わると森は、さっさと教室を出て行った。途端にあちこちで不満の溜め息が漏れる。生徒たちの誰もが森の長話にうんざりさせられていた。その為か、二年C組の教室で大谷は半ば英雄扱いだった。

「よくやった大谷!マジ助かった」

 大谷を慕う同級生たちが、下敷を使って彼の髪の毛をくしゃくしゃにさせる。そんな光景を横目にしつつ、千春は複雑な気持を抱く前に、教室の出入口へとそそくさと向かいながら、心の中で大谷に礼を言った。

 ありがとう。

 大谷が森の話に口を割らなければ、永遠とまではいかないにしても、あと十分、二十分は四段が続いているところだった。

 いつも大谷には私物を隠されたり、性的なスラングを浴びせられたりと、一方的な嫌がらせを受けていたが、今回ばかりは千春も彼に助けられた。

 森先生はいつも喋り過ぎだ。そのくせ授業やホームルームの時間に遅れてきて、休み時間にまで授業を浸食させる。少しはこっちの身にもなってほしい。休み時間に休まずに、いつ休めというのだ。まぁ、それも今日で終わりなのだけれども……。

 教室を出る際、千春は新井早紀の姿を探して教室内を見渡したが、既に彼女の姿はどこにもなかった。

 さて、いよいよ問題の時間だ。

 千春は二年C組の教室の隣の隣、奈穂が所属する二年A組の教室の前に立つと、深く息を吐いてから扉を開けた。

 開けた瞬間、奈穂に怒声を浴びせられるのではないかと思ったが、千春が教室に足を踏み入れても、彼女は笑顔で机に向かっている。どうやら彼女の機嫌を損ねたということはないようだ。

 千春は安堵すると、改めて教室内を見渡した。教室内の作りは言うまでもなく、他のどの教室も同じだが、黒板の横に古本の詰まった長方形の本棚があることと、あちこちにゴミ(スナック菓子や空のペットボトルなど)が散らばっているところは二年C組の教室とは違っている。

 終業式だからこそ教室が汚いのか。普段からこの教室は汚いのか。床には零れたジュースの固まりまで点在している。

 汚い教室だな。とても勉強する場所とは思えない。

 千春は教室内に奈穂しか残っていないことに気付くと、思わず頷きそうになった。これだけ汚れていては人がいなくても当然だ。しかし……。

「ふふふ、ふふふ、ふふふふふ」

 汚物が散らばる教室内でも奈穂は、窓際の席で、木製の椅子に座り、鼻歌を歌いながらノートに絵を描いている。

 そこらにある埃もスナック菓子も、彼女は気にならないのだろうか。千春は多少興味を覚えたが、そこには触れずにまず彼女に謝ることにした。

「夢野さん、ごめんなさい。遅れてしまって……」

「え?」

 奈穂は千春に名前を呼ばれると、目を丸くして彼を一瞥し、童謡『こいのぼり』を歌うのをやめた。千春に話しかけられるまで、彼が教室に来ていたことに気付かなかったらしい。奈穂は千春と目が合うなり、紅葉を散らし、慌ててノートを閉じて、座ったまま彼に体を向けた(その為、千春は彼女が何の絵を描いていたのかまではわからなかった)。

「あ、おはよ!それで……なんて言ったの、今」

「僕が来るの遅れてしまって、ごめんって」

「あ、気にしなくていいよ!私全然待ってたって感覚ないから」

「そう……」

「うん!」

 気持が冷めている千春とは対照的に、満面の笑みを浮かべる奈穂。その奈穂と目が合い、千春は後ろめたくなって視線を落とす。

「夢野さん、怒っていいんだよ」

「えぇ?どうして私が山中君を怒るの?」

 千春が遠慮がちに苦言を呈するのを見て、奈穂はノートを学生カバンに詰め込みながら『ふふふ』と笑う。しかし、千春は彼女が笑顔であることが心苦しかった。

 彼女に本当のことを言うべきなのか、言わないでおくべきなのか。そもそも言う必要があるのか、ないのか。

 唐突に頭の中を占拠し始めた疑問符を、軽く首を振って払い、視線を上げ、奈穂を見つめる。彼女は黒板の上に飾られたアナログ時計に目を向けていた。

 彼女が千春に、一時的に無関心であったということは、一瞬彼の表情に走った苦痛による皺は、彼女の眼には入ることはなかったということになる。千春は静かに安堵のため息を吐いた。

「ふぁあ、もうお昼の時間だね」

 奈穂が時計を見ながらぼそっと呟いた。教室の時計が指し示す時刻は十一時八分。千春たちが今から下校すれば、大体十二時前後にはそれぞれの自宅に着くことができる。

 奈穂の口調にはどことなく千春を昼食に誘う雰囲気があった。ここで肯定すれば、千春にとっては意に反する事態を招きかねないが……。

「そうだね」

 千春は素直に相槌を打った。

「山中君、今お腹すいてる?」

「うん、少しは」

「そっか……」

 暫しの沈黙。

「山中君、何か食べたいものある?」

「なんだろう。特に食べたいものはないかな」

「ううん、そっかぁ」

 そろそろ話題を変えるべきだろう。千春はもじもじしている奈穂を見て、そう判断を下した。食事を誘おうとしているのを容易に想像できていたにも関わらず、話を延ばしたことは、奈穂には悪いと思った。しかし、彼女の笑顔をすぐにでも奪うことは、千春にはできなかった。無駄に期待や緊張をさせてしまったことに、心の中で詫びると、千春は彼女に別の話を振った。

「ところで、話したいことって、何?」

「話したいこと?」

「ほら、登校途中に言ってただろ?話したいことがあるって」

「あぁ、あれね……」

 このまま彼女に糠喜びさせる訳にはいかない。そう思い、千春が本題に触れたと同時に、奈穂は直前まで浮かべていた柔和な笑みを絶やした。

「あぁ、あれはね……」

 みるみる内に、奈穂の顔つきはこれまでの明るい表情とは違い、神妙な顔つきへと変化していく。

 千春は奈穂が俯き、醸し出す空気を一変させたことに気付くと、彼女が話しやすいようにと思い、彼女の隣の席に腰掛けた。

 話したいことがあると自ら言うのだから、その話は明るい話なのだと、安易に判断したが、どうやらそうではないようだ。

「夢野さん?」

 千春が気遣って、少女のような地声で優しく名前を呼ぶと、奈穂は弱々しい笑みを浮かべた。

「ごめんごめん。大した話じゃないんだけどね……」

「何か、嫌なことでもあったの?」

「ううん。ただ、明日か明後日に、山中君と一緒に図書館に行こうって、誘おうと思ってただけ」

 寂しそうに俯く奈穂。千春には彼女が本当に言いたいことを隠しているように見えたが、あえて話を促さなかった。

 話せるようになれば、自然と彼女から話してくれる。今はまだ、話す時ではないだけ。

 二人は中学生の時から、長い間同じ時を過ごしてきた。その為、聡明な千春が単純思考の彼女の心情を察するのはそんなに難しいことではない。

「そっか、わかった。じゃあ、明日一緒に図書館に行こうか」

今朝、窮地から救ってもらった恩があるので、千春は彼女の気持を推察して、面倒臭いとは思ったが、彼女の誘いを受けることにした。すると奈穂は、微笑を浮かべる千春を見て、安心したのか、

「え?あ、うん。ありがとう」

再び弱々しい笑みを浮かべた。

 またその笑顔か。

 千春は無理して笑う奈穂が痛々しく思えて、彼女から目を離した。

 千春が奈穂の悲痛な作り笑いを見るのは、数年ぶりのことだった。

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