第九話 光の鎖
ルミシャ
地を蹴った化け物が、まっすぐ突っ込んでくる。
速い。 あの図体で、ありえない速さだった。
村人が二人、喰われたわけだ。
ティユラは、動かなかった。 ぎりぎりまで引きつけて――
杖を横に薙いだ。
地面から、光の鎖が跳ね上がった。 化け物の前脚に、絡みつく。
化け物が、吼えた。 鎖を、力任せに引きちぎろうとする。
みしり、と。 光が、軋んだ。
並の結界なら、ここで切れていた。
でも、ティユラは慌てなかった。
引きちぎられる、その前に。 二本目を、三本目を、重ねていく。 一本が緩めば、もう一本が締まる。
逃がさない。 壊させない。 じわじわと、檻が閉じていく。
一撃で薙ぎ倒す、なんてやり方じゃない。 あの速さと膂力を、まず確実に閉じ込める。 動けなくしてから、仕留める。 壊す魔法じゃなく、封じる魔法。 それが、この女の戦い方だった。
――その組み方を、あたしは知っていた。
ほどけないように、幾重にも結んでいく術式。
二千年前、ひとりの女が、机にかじりついて研究していたものだ。
インクで、指を汚しながら。
ネルフィの、魔法だった。
形は、変わっていた。 二千年で洗練されて、別物みたいになっていた。
それでも、芯は同じだった。
ネルフィが遺したものが、こんなところで化け物を縛っていた。 あの子を、伝説でしか知らない女の手の中で。
檻が、閉じきった。
化け物は、もう動けない。 六つの目が、ぎょろりと宙を彷徨った。
ティユラは、近づいた。 杖の先を、その眉間に当てる。
ひと言、低く唱えた。
光が、内側で弾けた。
化け物が、崩れ落ちた。 一度、大きく痙攣して――動かなくなった。
それで、終わりだった。
ティユラは、息ひとつ乱していなかった。
杖をしまう。 死骸を一瞥して、踵を返す。
「あれの牙を、二本」 あごで、死骸を示した。 「ギルドの、証明用」
血まみれの仕事は、あたしの担当らしい。 あたしは鞄を下ろして、化け物のほうへ歩いた。
「……すごい」 村のほうから、声が上がった。 「ありがとう、ティユラ様! ありがとう!」
村人が、駆け寄ってくる。 泣きながら、手を握ろうとする。
ティユラは、その手を、やんわりと外した。
「報酬は、ギルドを通して」 「契約どおりに」
化け物から救われた村人が、泣いて礼を言っている。 ティユラは、それを報酬の話に変えてしまう。
たぶん、こうしないと受け取れないんだ。 ただの「ありがとう」を。
――ネルフィの魔法で、人を助けて。 ネルフィとは、正反対の受け取り方をする。
あたしは、化け物の牙に手をかけた。
引いても、抜けなかった。 頭骨の奥に深く食い込んでいる。
二千年、もっと厄介なものをほどいてきた。 こんな牙、一本。
――つい、だった。 指先に、ほんの少しだけ力が流れた。
牙が、ことりと緩んだ。
その、瞬間。
ティユラが、振り返った。 村人の礼を受け流している、その途中で。 まっすぐ、あたしのほうを見た。
あたしは、手を止めた。
緩んだ牙を、今度はただ力任せに引き抜く。 ぶつ、と鈍い音がして、血が垂れた。
「……抜けた。二本」
何でもない顔を作った。
ティユラは、しばらくあたしを見ていた。 何か言いかけて――やめた。
帰り道。 ティユラは、先を歩いていた。
あの背中の中に、ネルフィの魔法が入っている。 あの子の、二千年後が。
言いたいことが、喉まで来て。 あたしは、飲み込んだ。
「……強いんだね」
本当に言いたかったことの、代わりに。
ティユラは、振り返らなかった。
「当たり前でしょ」
その声は、いつもの取引の声で。 でも、ほんの少しだけ、いつもよりやわらかかった気がした。
それでも。 さっき振り返った、あの目だけは。 まだ、あたしの背中に刺さったままだった。




