第八話 朝のパン
ルミシャ
焼いたパンの匂いで、目が覚めた。
眠っていたのだと気づくまでに、少しかかった。
天井がある。 草ではない。 空でもない。
――眠った。 二千年ぶりに、夜が終わっていた。
体が重い。 眠るというのは、こんなに疲れることだったか。
隣の寝台は、もう空だった。 シーツに、ぬくもりは残っていない。
階下に降りると、ティユラはもう食卓にいた。
帳面を開いて、細かい字で、数字を書き込んでいた。
「起きたんだ」 「……寝てた」 「見ればわかるでしょ」
パンと、何かの煮込みが置かれた。
腹が鳴った。
――空腹。 それも、二千年ぶりだった。 庭では減らなかったものが、今は、ちゃんと減る。
体が、生き返っていく。 うれしいのか、こわいのか、わからなかった。
「変な感じ」 「睡眠が?」 「朝が」
ティユラは、ペンを止めなかった。 わかるとも、わからないとも言わなかった。
帳面の数字が、ひとつ増えた。 たぶん、今のパンの分。
「ぜんぶ、つけてるの?」 「当たり前でしょ」 「律儀だね」 「貸しは、貸し」
ティユラは、帳面を閉じた。
「今日は、仕事に行く」 「仕事」 「昨日の分を、返してもらう」 「菓子一つと、宿代で?」 「食事も、入ってる」
――どこまでも、勘定の合う女だ。
ティユラは、大きな革の鞄を、あたしの胸に押しつけた。
「持って」 「……荷物持ち?」 「あなたにできる仕事が、ほかにある?」
返す言葉は、なかった。 この時代で、あたしにできることは、表向き、何もない。
仕事は、魔物の討伐だった。
街道沿いの村が、襲われているという。 家畜が、何頭も喰われた。 人も、二人。 村の自警団では、手に負えない。 だから、この街でいちばんの魔導士に、話が回ってきた。
村の入口で、依頼人が待っていた。 やつれた顔の、村長らしい老人。
ティユラを見ると、深く頭を下げた。
「ティユラ様。来てくださるなら、もう安心です」 「あの化け物は、並の魔導士では、どうにもならなかった」
ティユラは、軽く頷いただけだった。 慣れている、という顔。
――なるほど。 この女は、ただ強いんじゃない。 手に負えなくなったとき、いちばん最後に呼ばれる側にいる。
「そちらの方は」 「連れ」 「気にしないで」
あたしは、黙っていた。 ただの連れ。 それで、よかった。
村の外れ、森との境まで歩いた。
血の匂いがした。 獣のものじゃない。 もっと濃い、嫌な匂い。
木立の奥で、何かが動いた。
――大きい。
ティユラが、足を止めた。 片手で、あたしを後ろに下がらせる。
「離れてて」 「……」 「契約は、私一人分」
それが、木立を割って出てきた。
黒い、毛むくじゃらの巨体。 牛を、二回りは超えている。 頭は狼に似て、もっと醜い。 口の端から、まだ新しい血が垂れていた。
六つの目が、いっせいに、こちらを向いた。
低い唸りが、地面を震わせた。
ティユラは、動じなかった。
外套の内から、細い杖を抜く。 その先に、淡い光の文様が、組み上がっていく。
低い唸りが、もう一度。
そして、化け物が、地を蹴った。




