第七話 白い灯り
ルミシャ
油と、煮た野菜の匂いがした。
階下から、人の声がくぐもって上がってくる。 笑い声。 食器の音。
部屋の灯りは、揺れなかった。 火じゃない。 あたしの知らない、白い、静かな光。 ティユラが指を触れると、それは弱まった。
連れてこられたのは、町外れの宿屋だった。 一階が酒場、二階が客間。 その、いちばん奥の部屋。
「ここを使う」
宿の灯りまで、変わっていた。 燃えないのに、明るい。 あたしの時代なら、これだけで魔導書の一章になった。
部屋には、寝台が二つ。
「私が払った」 ティユラは、外套を椅子にかけた。 「貸しにしておく」
――また、取引だ。
ありがとう、と言うべき場面なんだろう。 たぶん、この時代でも。
でも、あたしの口は動かなかった。 二千年、誰にも礼を言わなかった。 言い方を、忘れていた。
ティユラは、それを待っていなかった。 むしろ、礼を言われない方が、楽そうだった。
食事が運ばれてきた。
湯気の立つ皿。 名前のわからない、温かいもの。
右手で匙を取った。 左手はポケットの底に入れたまま。 食べるくらい片手で足りる。
口に運んだ。
――あたたかい。
舌が、それを思い出すのに、少しかかった。 何も食べなかった庭の長さが、ひと口ごとに剥がれていく。
気づくと、ティユラがこっちを見ていた。 匙を持つ手じゃない。 ずっと出てこない、左手のほうを。
「食べ方を知らない人みたい」 「……そう」 「どこの育ちなの?」 「遠いところ」
嘘じゃない。 二千年は、たしかに、遠い。
ティユラは、それ以上訊かなかった。 育ちのことも。 ずっとポケットに入ったままの、左手のことも。 納得したわけじゃない。 今夜はここまで、という顔だった。
食器が下げられた。
ティユラは、窓辺で指を動かしていた。 空に細い線を描くみたいに。 描き終えると、部屋の四隅が、一瞬だけ淡く光った。
「結界?」 「念のため」 ティユラは、こちらを見なかった。 「あなたが、夜中に何をするかわからない」
なるほど。 あたしを、野放しにする気はないらしい。 目の届くところに置いて、見張る。 そういう肚だ。
さっきの結界。 知らない術式だった。 結界も、進んでいる。
それでも、腕は読める。 悪くない。 むしろ、いい。
警戒はしている。 でも、怖がってはいない。 得体の知れない女を、結界一つで隣に寝かせておけるくらいには、自分を信じてる。
――好都合だった。 あたしも、この女を、もう少し見ておきたかった。
ティユラは寝台に腰を下ろして、何か書きものを始めた。 明日の仕事の支度だろうか。 ペンの音が、小さく続いた。
――ペンの音。
二千年ぶりに聞くその音が、胸の奥を薄く擦った。 あたしは、目を逸らした。
階下では、まだ人が騒いでいた。 笑って、飲んで、誰かが歌っていた。
庭には、なかった音だ。 二千年、あたしのまわりには、風と水しかなかった。 今は、壁の向こうに、いくつもの人生がある。
それが、妙に効いた。
あたしは、ティユラを見た。
「あんた、なんでも貸し借りにするんだね」
ペンが、止まった。
「……どういう意味?」 「泊めるのも、飯も、ぜんぶ。貸しにして、帳尻を合わせる」
しばらく、返事はなかった。
「そのほうが」 ティユラは、書きものに目を戻した。 「お互い、楽でしょ」
楽。 ――そう口にした横顔は、少しも楽そうじゃなかった。
貸し借りのない手を、どう受け取ればいいのか。 この女は、たぶんそれを知らない。 ただ、そばにいてほしいと言われたことが、一度もないみたいに。
やがて、ペンの音がやんだ。
「灯りを消すよ」 「うん」
白い光が、ふっと引いた。
闇に慣れた目が、天井を見ていた。
眠り方も、忘れていた。 庭では、夜が来ても眠くならなかった。 時間が、止まっていたから。
二千年ぶりに、あたしの体は眠ろうとしていた。 うまくいかなかった。
隣の寝台で、ティユラの息がゆっくりになっていく。 あんなに警戒していたくせに、先に眠った。
人の寝息を聞くのは、いつ以来だろう。
――ネルフィが、机に突っ伏して寝ていたとき。
それが、最後だった。
暗闇の中で、あたしはいつもの順番を唱えた。 声には出さずに。
甘味処。 枯れない樹の実。 海の見える丘。 リストの、いちばん上の、あたしの名前。
二千年、繰り返してきた呪文。 今は、すぐ隣に人がいる。
それでも、あたしは、まだ言えない。 このリストのことも。 いちばん上の名前を書いた、あの子のことも。
ティユラの寝息が、規則正しく続いていた。
あたしは、目を閉じた。
眠りは、ずいぶん時間をかけて、ようやく来た。 二千年ぶりの、夜だった。




