第六話 蜂蜜色の髪
ルミシャ
通りすがり、と言ったのに。 ティユラは、動かなかった。
人混みのざわめきが、二人のあいだだけ薄くなっていた。
「嘘でしょ」 「……」 「通りすがりは、こうはならない」
ティユラの指が、軽く宙をなぞった。 あたしの立っているあたりの空気を、測るみたいに。
「さっき、一瞬」 「なに?」 「あなたから、底の見えないものが漏れた」
――気づかれていた。 力を抑えたつもりが、ほんの一瞬こぼれていたらしい。 二千年ぶりの世界には、思っていたより目ざとい人間がいるらしい。
「気のせいでしょ」 あたしは、菓子の最後の一口を口に入れた。 「ごちそうさま」
背を向けて、歩きだした。
どこへ、というあてはなかった。
この街に、あたしの知っているものは、ひとつもない。 泊まる場所も。 金も。 帰る家は、二千年前に崩れて、苔の下だ。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。 立ち止まると、二千年が追いついてくる気がした。
「待って」
声が追ってきた。
振り向くと、ティユラがすぐ後ろにいた。 さっきと同じ、取引の目で。
「行くあてが、ないんでしょ」 「……」 「金もない。この街のことも、知らない」
見透かされていた。 否定する気にも、ならなかった。
「だったら、なに?」
ティユラは、少し黙った。 それから、言葉を選ぶみたいに口を開いた。
「取引」 「取引」 「私が、あなたの面倒を見る。宿も、食事も、この街の歩き方も」 「……かわりに?」 「あなたが、何者か。それを、私が納得するまで」
ああ、と思った。
この女は、たぶん、こうやってしか人と繋がれない。
――ネルフィの血を、引いているくせに。 あの、勘定なんて一度もできなかった子の。
断る理由を探した。 見つからなかった。
この女は、ネルフィの目をしている。 琥珀と、深い緑。 二千年前、あたしを覗き込んだのと、同じ色。
そばにいる理由なんて、本当は、それで足りていた。 言わないけれど。
「いいよ」 「ただし、納得しても、たいした話は出てこない」 「それは、私が決める」
ティユラが、あたしを見た。
「名前は」
名前。 ずいぶん久しぶりに、自分へ向けられた言葉だった。 最後にそう呼ばれたのは、二千年前。
「……ルミシャ」
口にすると、他人の名前みたいだった。 リストの、いちばん上にあった名前。 あの子が、書いた。
「ルミシャ」
ティユラが、繰り返した。 品物に札をつけるみたいに、なんの温度もなく。
あの子が呼んだ声とは、違った。
ティユラは、もう歩きだしていた。 ついてこい、とも言わずに。
あたしは、その背中を追った。 きっちり結い上げた、蜂蜜色の髪。 ネルフィとは、似ても似つかない後ろ姿。
それでも。 二千年ぶりに、あたしの前を歩く誰かがいた。
約束は、まだ、ひとつも果たせていない。 甘味処も。 枯れない樹の実も。 海の見える丘も。
でも、最初の一口は、もう口にした。 思っていたより、甘かった。
あたしは、歩きだした。




