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二千年のルミシャ  作者: 河野広明
第一章
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第五話 甘い匂い

ルミシャ

甘い匂いがした。

砂糖と、焼けた生地の匂い。 人の、ざわめき。 昼の、白い光。

あたしの足は、勝手にそっちへ向いていた。

通りの端に、屋台が出ていた。 硝子の向こうに、見たこともない菓子が並んでいた。

二千年。 腹はずっと減らなかった。 庭では、何も食べなくてよかった。

なのに今、あたしはそれを食べたいと思った。

ネルフィと、行くはずだった。 甘味処。 リストの、二番目。

あたしは一つ、手に取った。 口に運ぼうとして――

「金は」

屋台の男が手を出した。

「かね」 「代金だよ。ただじゃない」

ああ。 そういう仕組みは、あたしの時代にもあった。 ただ、あたしはこの時代の金を一枚も持っていない。

「持ってない」 「なら、置いていけ」 「もう、触った」 「だから、置いていけって」

男の声が高くなった。 周りの目が集まってくる。

面倒だ、と思った。

指先一つで、この男も、屋台も、通りごと消せる。 けれど、それはしない。

その力は左手にある。 二千年いた庭が置いていったもの。 詠唱も陣もいらない、世界の理をねじ曲げる力。

ただ、使えば減る。

世界はあたしを余分だと思っている。 理から外れた力を振るうたび、気づいて、すこしずつ削り取っていく。 減ったぶんは、戻らない。

ただ、消えてしまうわけでもない気がした。

削られたものは、どこか深くへ沈んでいく。

手の届かない、下のほうへ。

だから、左手はポケットの底だ。 にぎって、しまっておく。

右手でたいていのことは足りる。 左手を出すのは、命を一枚、払ってもいいときだけ。

「いくら」

横から、声がした。

振り向くと、女が立っていた。

あたしより少し背が高い。 きっちりと結い上げた、蜂蜜色の髪。 そして――左右で色の違う瞳。 片方が、琥珀。 片方が、深い緑。

どこかで、見た色だった。

屋台の男の態度が変わった。

「これは、ティユラ様」 「お代は結構です、ティユラ様にそんな」 「さすが、ネルフィ様の血を引く御方だ」

ティユラは、男の言葉には何も応えなかった。 硬貨を二枚、台に置いた。

「釣りはいい」

もう、男を見ていなかった。

ティユラの目が、あたしを見た。

その目が、あたしの髪をなぞった。 銀の髪を。 それから、あたしの目を。

少し、止まった。

「死んでいるみたいな目」 「……そう」 「礼は」 「いる?」

ティユラの片方の眉がわずかに上がった。

たぶん、礼を言われ慣れている。 あるいは、怖がられ慣れている。 どっちでもない反応には、慣れていない。

「金を、払った」 「うん」 「普通は、礼を言う」 「あんたが、勝手に払った」 「……」 「頼んでない」

ティユラは、しばらくあたしを見ていた。 品定めするみたいに。 取引の損得を数えるみたいに。

「ネルフィ様の血筋に、口の利き方を――」

屋台の男が何か言いかけた。

「ネルフィ」

あたしは、その名前を繰り返した。

石の像の荘厳な衣。 封印の祖。 大魔導士。

――インクで指を汚していた、あの子。

「……べつに、たいした血じゃないでしょ」

その瞬間。 ティユラの取引みたいな目が、初めて揺れた。

なにか、まずいことを言ったらしい。 本当のことを言っただけなのに。

「あなた」 ティユラが口を開いた。 「何者」

あたしは、菓子を一口、かじった。

二千年ぶりの甘さだった。 思っていたより、ずっと甘かった。

「……べつに。ただの、通りすがり」

嘘だ。 でも、本当のことは、まだ言えない。

ティユラは、あたしから目を離さなかった。

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