第四話 石の像
ルミシャ
風の匂いが、変わっていた。
知らない草の、知らない花の匂い。 遠くで、誰かの声がする。 人の、声だった。
ずいぶん久しぶりの、人の気配。
光に、目が慣れない。
縫い目を抜けた先は、崩れた石の窪みだった。
壁だったものが、低く残っている。 蔓と苔が、何もかもを覆っていた。
それでも、あたしにはわかった。
ここだ。 あたしが、落ちた場所。
机のあったあたりにしゃがんで、苔の下の石に触れた。 ひんやりと、冷たい。 気が遠くなるほど長いあいだ、誰もここにいなかった。
外に出た。
あたしの知っていた街は、どこにもなかった。
道も。 家並みも。 甘い湯気の匂いも。
見たことのない形の建物が、見たことのない場所に建っていた。 人々の服も、言葉の響きも、少しずつずれていた。
時間が街ごと入れ替えていた。
すれ違う誰もが、あたしの服をちらりと見た。 あたしには見慣れた、織りと花の紋様。 この時代の、誰も知らない。 ずれているのは、向こうじゃない。 あたしのほうだった。
あたしは歩いた。 知っているものを、ひとつでも探して。
何もなかった。
あたしの時代は、まるごと土の下に沈んでいた。
広場の中央に、像が立っていた。
見上げて、立ち止まった。
ネルフィだった。
石になった、ネルフィ。 高く、大きく、見たこともない荘厳な衣をまとって。 あの、ほどけかけた髪の子が。 あの、インクで指を汚していた子が。
台座に、文字が刻まれていた。
『大魔導士ネルフィ』 『封印の祖』 『二千年前、この地に在りき』
――二千年。
あたしはしばらく、その数字を見ていた。 そうか。 二千年も、いたのか。 道理で、長かったわけだ。
二千年。
あたしが葉を数えていた、あの庭の。 終わらなかった時間の。 ぜんぶの、名前。
ネルフィは、もういない。 とっくに、いない。
甘味処も。 枯れない樹も。 海の見える丘も。 一緒に行こうと言った、あの全部も。
それでも、ネルフィはここに立っていた。 石になって、神話になって、二千年を越えて。
あたしの名前を、いちばん上に書いた、あの子が。
あたしは像の足元にしゃがみこんだ。 誰も見ていない広場で。 ずいぶん久しぶりに――声を、出した。
「……ただいま」
返事は、ない。 わかっていた。
それでも、言った。




