第三話 銀の水面
ルミシャ
春が来た。 何度目の春かは、もうわからない。
最初の頃は、数えていた。 葉が落ちるたびに一枚、木の根元に置いて。 百を越え、千を越え、その先もしばらくは数えた。
けれど、いつからか数字は意味をなくした。 どれだけ積んでも、庭は終わらない。 ある日、あたしは数えるのをやめた。
木の根元の葉は、山になり、丘になった。 やがて、その下から新しい木が芽吹いた。 その木も葉を落とし、枯れ、また次の木が生えた。
あたしが最初に置いた石は、雨に打たれ、風に削られ、角を失って、丸くなった。 丸くなった石が土に還っていくのを、あたしは見ていた。
光が満ちては、翳る。 それがいったい何度、繰り返されたのか。
あたしはただ、その中にいた。
最初の頃は、ネルフィの名前を呼んでいた。 返事がないのは、わかっていた。 それでも、呼んだ。
いつからか、呼ばなくなった。 声を出すと、静けさがよけいに深くなるから。
そのうち、自分の声がどんな響きだったかもわからなくなった。 ネルフィの声も。 笑い方も。 少しずつ、遠くなった。
でも、消えはしなかった。
手放さなかったものが、ひとつだけあった。
約束。 甘味処。 枯れない樹の実。 海の見える丘。 リストの、いちばん上の、自分の名前。
忘れそうになるたび、唱えた。 それが、あたしをあたしのままにつなぎとめる、ただ一本の糸だった。
その果てのない時間を、あたしはひとつのことに使った。
帰るための、魔法。
最初は、習った通りの陣を描いた。 詠唱を唱えた。 どれも、庭には届かなかった。
ここの理は、あたしが知っている魔法のずっと外側にあった。
だから、捨てた。 陣も、詠唱も、教わった順番も、ぜんぶ。 いちばん下から組み直した。 壊しては組み、また壊した。
何百年か。 何千年か。 わからない。
ただ、少しずつ、庭の理がほどけていった。
その、どこかで。
小川の水に、あたしの髪が映っていた。
最初は、水色だった。 あの子が、水みたい、と笑った色。
その色が、少しずつ、抜けていった。
何十年かおきに、覗くたび。 青が、薄くなっている。 気づかないくらいの速さで。 でも、確実に。
水色が、薄い銀になり。 薄い銀が、白に近づき。 やがて、髪は、すっかり銀になった。
目も、同じだった。 ネルフィの知ってる、あたしの青い目。 それも、どこかへ流れ出して。 ガラスみたいな、灰になった。
時間が、あたしを漂白していた。 髪も。 目も。 たぶん、中身も。
銀になってからも、まだずいぶん長かった。
そして――いつか。
陣も、詠唱も、いらなくなった。 あたしはただ庭の理に手を置くだけで、それを捻じ曲げられるようになっていた。
世界の縫い目が、見えた。 ここと外とを隔てている、細い、ほつれた一本が。
あたしは、そこに指をかけた。
水面を、最後に覗いた。
水色は、もうどこにもなかった。 青い目も、なかった。
銀の髪に、灰色の目をした女が。 あたしを、静かに、見返していた。
知らない顔だった。 ネルフィが見たら、わかるだろうか。 これが、あたしだと。
それでも。 その灰色の、いちばん奥だけは。 まだ、何かを覚えていた。
帰る。 いちばん上から、順番に。
あたしは、縫い目を引いた。
光が、差し込んだ。 ずいぶん――気が遠くなるほど久しぶりの、外の光だった。




