第四十九話 赤い袖
ルミシャ
あの木から帰って、いく日かが過ぎた。
家の朝は、いつもどおりだった。
パンを焼く匂いで、ティユラが起きてくる。
「……おはよ」
寝ぐせのまま、椅子にぼすんと座る。
焼きたてをちぎって、半分わけた。
ティユラは黙って食べる。
あたしも食べる。
おかわりをした。
なんでもない朝だ。
二千年、こんな朝はなかった。
庭にはパンも、匂いも、隣の椅子もなかった。
だから、これがいい。
ずっと、これでいい。
戸口に、ティユラの道具が置いてある。
綻びを縫う、商売道具。
このごろ、埃をかぶっている。
最後に手に取ったのが、いつだったか。
思い出せなかった。
ティユラが咳をした。
口を手でおさえて、ちいさく。
でも、止まらなかった。
何度も、肩を揺らして。
手のひらを、見ていた。
そこに何があったのか、すぐに袖で隠した。
あたしには見えた。
赤い。
朝の匂いの中で、それだけが、ちがう色をしていた。
赤を、隠しきれなくなっていた。
袖にも、口元にも。
ティユラはもう、ごまかさなかった。
ただ、目を伏せた。
あたしも、知らないふりをやめた。
二千年、訊かなかった。
ネルフィのときも、訊けなかった。
でも、今は。
「それ、治しにいこうか」
ティユラが顔を上げた。
なにか言いかけて、やめた。
それから、ゆっくり俯いた。
「……うん」
ひとことだけ。
それで、じゅうぶんだった。




