第三十六話 朝の音
ルミシャ
朝の音で、目が覚めるようになった。
鍋の音。 水を汲む音。 ティユラが台所で何かを刻んでいる音。
庭にいた二千年、朝はなかった。 夜も、昼もなかった。 今は、毎朝ある。
あれから、季節がひとつ巡った。 ティユラは相変わらず、綻びを縫って暮らしている。 あたしは相変わらず、その隣にいる。 それだけのことが、二千年ぶりに、ふつうだった。
台所をのぞくと、ティユラがこっちも見ずに椀を寄こした。
「食べな」
湯気が立っていた。 あたしの腹は、ちゃんと鳴る。
匙を取った。
そのとき、ティユラが咳をした。
一度。 それから、もう一度。 肩が小さく跳ねるくらいの、咳だった。
「平気」
訊いてもいない。 口元を手の甲で拭った。 何でもない、というふうに。
その手を、見ていた。 何でもなさそうに引っ込められた、その手を。
――知っている手つきだ。
その日から、見るようになった。
ティユラの咳は、一度では済まなくなっていた。 朝。 仕事の途中。 夜、火を落としたあと。
そのたびに、ティユラは背を向けた。 あたしに見えないように。 見えていない、と思っているらしかった。
訊かなかった。
昔、あたしの左手のことを、ティユラは訊かなかった。 ずっと出てこない手を、見て見ぬふりで、隣に置いてくれた。 だから、あたしも訊かない。 それが、二人のやり方だった。
ただ―― 見ないふりは、思っていたより苦しかった。
ティユラは痩せた。 匙を持つ手が、ときどき止まる。 綻びを縫う詠唱の途中で、息が続かなくなる。
あたしは、知っている。 こういうのを、見たことがある。
――いや。
見たんじゃない。 渡されたんだ。
消えかけたあたしを、ティユラが引き戻した、あのとき。 あの女は、自分の何かを、あたしに分けた。 今あたしが生きている時間は、ティユラの時間だ。
減っているのは、あたしじゃない。
ティユラだ。
助ける。
そう決めてから、おどろいた。 二千年、何も欲しがらなかった女が、何かを"する"と決めていた。
でも、どうやって。
寿命を分けるなんて術は、聞いたことがない。 ティユラがどうやってあたしを引き戻したのかも、知らない。 治癒師に診せたところで、首を振られるだけだ。 これは、病じゃない。
――ひとりだけ、いた。
失くしたものを、取り戻す。 そればかりを調べて、一生を終えた人間が、ひとり。
ネルフィ。
あの子が死ぬとき、あたしは庭の底にいた。 手も、声も、届かなかった。 気づいたら二千年が過ぎて、あの子は、もういなかった。
ティユラは、目の前にいる。
――今度は、手が届く。
ネルフィはもういない。 でも、ネルフィが一生をかけたものは、どこかに残っているかもしれない。
ひとつだけ、心当たりがあった。
二人で、苗を植えた場所。 「大きくなったら、ここで会おう」 そう約束した、場所。
あの木が、まだ立っているなら。




