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二千年のルミシャ  作者: 河野広明
第一章
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第三十五話 小さな器

ルミシャ

街に入った。

この時代で、目を覚ました街だ。

知らない匂いがした。 乾いた石と、風。 二千年前の匂いは、もうどこにもない。

通りの形は変わっている。 それでも、足は迷わなかった。 坂をのぼって、右へ折れて。 頭より先に、体が道を覚えていた。

南のはずれ。 そのあたりに、それはあったはずだった。

崩れた石がいくつか。 低い土台だけが地面に残っている。 あとは草と土に呑まれていた。

もう、建物ですらない。 ただの石の跡だ。

ここで合っているのか。 二千年だ。確信なんてない。

それでも、足が止まった。

ここだ。 あの子といつか来ようと決めていた店。 いちばん高いのをふたりで頼もうと笑っていた。

来た。 二千年、遅れて。

ティユラが隣で石の跡を見ていた。

ひとりじゃ、なかった。

土から、平たい石が顔を出していた。

近づくと、唇が動いた。 あたしの体が勝手に読む。 この時代の誰にも読めない古い字を。

店の名と、看板の品。 いちばん値の張ったひとつ。

『――枯れぬ樹の実より』

字はそこで摩耗していた。 あとは読み取れない。

枯れぬ樹の実。 何日も山を歩いて、どこにもなかったやつ。

このお菓子は、もう作れない。

実が絶えている。 続きが読めたとしても、おなじだ。

わかっていた、つもりだった。 それでも、胸の奥がすこし軋んだ。

海も。 実も。 最後のこれも。

ぜんぶ、二千年前に置いてきたまま、戻ってこない。

あの子と頼むはずだったいちばん高いやつ。 それだけは、もうどうやっても手に入らない。

しばらく、動けなかった。 摩耗した石をただ見ていた。

ティユラが口を開いた。

「前に」 「あの街の南で」 「ひとりで抜け出して」 「何もない軒先を、ずっと見てたでしょ」

あの日だ。 契約を破って、甘味処を探しにいった日。 ティユラは何も訊かずに、ただ隣に立った。

「あれも」 「……甘味処を、探してたの」

うん。

あのとき、何も言わなかった。 この女も何も訊かなかった。 それでも、ずっと覚えていたらしい。 あたしが空っぽの軒先を見ていたことを。

ティユラがその石を覗き込んだ。 それから、火打ち石を取り出した。

「作れないよ」

つい、口に出していた。 その実はもうどこにもない。

ティユラの手は止まらなかった。

「同じのは、ね」

崩れた石のあいだに火を起こした。

「だから、別のを作る」

顔はこっちを向かなかった。

「私のを」

めずらしく、声に迷いがなかった。 祖がどうとか、血がどうとか。 そういう響きがどこにもなかった。

ただ、ティユラが作りたいものを作る。 それだけの声だった。

手が動きはじめた。

あの子のとは、違う手だ。 インクのしみがない。 迷いもない。

ティユラには写してきた古い作り方があった。 封印術の写しの隅に、料理がまぎれこんでいた。

いちばん古いもので、八百年。 それでも、この石には千二百年も足りない。

枯れぬ樹の実は、もうどこにも残っていない。 古い作り方をなぞって、無いところはこの女が埋めた。

なぞっただけじゃ、ここまで来られない。 足りなかったところが、ティユラのものだ。

誰の真似でもない。 祖の血でもない。

ティユラがティユラのものをこしらえていた。

あたしはそれを見ていた。

ずっと、後ろを見て歩いてきた。 枯れた実。 会えない子。 戻らない味。

なのに、目の前で。 嗅いだことのない匂いが立ちはじめている。

過去からじゃない。 いま、この手から生まれる匂いだ。

ちいさな器にそれがのった。

湯気が立つ。 甘い。

ひとくち、口に入れた。

舌の上でほどけた。

知らない味だ。 あの子の味でも、昔の味でもない。 そんなもの、もうこの世にない。 いま、ここで、はじめて生まれた味だ。

庭にいた二千年、腹は減らなかった。 庭を出て、腹は減るようになった。 それでも、食べたいとは思わなかった。

本当に食べたいと思ったのは、一度だけ。 この時代に出てきて、すぐ。 屋台の菓子を、ひとつ。

二千年ぶりの甘さだった。 でも、あれは。 ネルフィと来るはずだった、約束の味だ。 昔をなぞっただけ。

これは、ちがう。

なのに。

器の底にすこしだけ残っていた。 それを見ていた。

――もっと。

そう思った自分におどろいた。

空になった器を。 ティユラのほうへ、押した。

何も、言わずに。

ティユラの手が止まった。

こっちを見て。 すこし、目を見開いて。

血を引いているからでも。 都合のいい杭だからでも、なかった。

この女がたったいま、自分の手で生んだものを。 あたしが、もっと欲しがっている。

二千年、誰にも本当には欲しがられなかった女と。 二千年、過ぎたものしか欲しがらなかった女が。

ひとつの器をはさんで、向かいあっていた。

ティユラの目の奥がゆっくりとゆるんだ。

「……おかわり?」

うん。

声がすこし掠れた。

ティユラがもう一度、火に向かう。 その背中が来たときよりすこし軽い。

見ていた。 後ろじゃ、なかった。

たぶん、はじめて。 前を、見ていた。

石のあいだから光が差してきた。

朝だ。

この街で、目を覚ました。 庭を出た、あの日に。

今日また、ここで目が覚めた気がした。

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