第三十話 薬の匂い
ルミシャ
暗いところに浮いていた。
上も、下も、なかった。
水の中みたいに。 あの時層の庭に似ていた。
どこかで、薬を煮る匂いがする。
遠くで、声もした。 知らない男の声。 低くて落ち着いた声。
「……これは、ひどい」
冷たい指があたしの手首にふれた。 脈を診るみたいに。
「衰弱では、ないな」
ことばが途切れて届く。 水の上からもぐってくるみたいに。
「からだが、薄い。 端から、世界に溶けている」
そうだよ、と思った。 よく、わかってるじゃないか。
「こういう話を、古い書物で読んだことがある」
紙をめくる音。
「時層の庭に、迷い込んだ者」
ああ。 あたしのことだ。
「だが、書いてあるだけだ。 戻った者など、いない」
戻ってきてしまった。 あたしがはじめて。
「人の理から外れた魂を、世界は置いておけない。 だから、押し出そうとする」
「……まさか、本当に出てくるとはな」
世界からの拒絶。 薄々、感じていたこと。 名前がついただけだった。
別の声が割って入った。
ティユラだ。
「治せるの?」
余裕のない声。
間があった。
「無理だ」
はっきりと、言われた。
「薬でも、術でもない。 失われた時を、足してやるしかない」
「足す……?」
「だれかの寿命を、そっくりこの人へ移す。 それしか、ない」
部屋がしんとした。
「だが、やめておけ。 与えた側が削れる。 分を誤れば、共倒れだ。 古い書にも、禁じてある」
やめて、と思った。
聞かせないで。 この女にそれを。
起きなきゃ。 止めなきゃ。
なのに、指一本動かない。
「……どれだけ渡せば、足りる」
ティユラの声。
静かで。 もう、決めたあとの声だった。
「やめ……」
声にならない息がこぼれただけ。
暗い水がまた上から満ちて。
あたしを底へ引きずりこんだ。




