第十五話 古い字
ルミシャ
村を出て二日。
歩くほどに空気がゆるんでいった。 時間の止まった村も。 化け物も。 裂け目も。 ぜんぶ後ろへ遠ざかっていった。
たどり着いたのは、城壁に囲まれた大きな街。 ギルドのある街だった。
知らない街。 もっとも、あたしには、知ってる街のほうが珍しい。
その市場は生きていた。
油で揚げた何かと、香辛料と、人の匂い。
値切る声。 車輪の軋み。 走る子どもの足音。
天幕の隙間から、斜めの陽が落ちていた。
その雑踏のなかを、ティユラが迷いなく進んでいく。
村の礼金は受け取った。 次の旅の支度を買い足していく。 干し肉。 油紙。 火打ち石。 慣れた手つきで。
あたしは後ろをついて歩いた。 財布はない。 あたしの持ち物は、とうの昔に塵になった。
干し肉の屋台で、ティユラが銅貨を数枚置いた。
あたしはそれを覗き込んだ。
「高くない、それ」 「……は?」 「ひと束で、銅貨五枚」
あたしの知ってる相場なら。 それで羊が一頭買えた。
ティユラがあたしを見た。
「いつの話?」
答えられるわけがなかった。
「……さあ」 「さあ、って」
ティユラはそれ以上は訊かなかった。 けれど、何かを帳面につけるみたいな目をした。
次の屋台で、あたしはつい口を滑らせた。
「それ、とこしえ草?」 「とこ……何?」
店主が首をかしげた。 ティユラも。
あたしの知ってる名前は、もうどこにもなかった。 草は同じ草なのに。 呼び名だけが入れ替わっていた。
「……なんでもない」
ティユラがその草を指した。
「これは、癒し草。どこの方言?」 「遠いとこ」 「どのくらい」 「……すごく」
ティユラが薄く笑った。 呆れたみたいな。 でも、嫌な笑いじゃなかった。
「あなた、ほんとに変な人だね」
ひとつ、探しているものがあった。
赤くて、小さくて、すっぱい実。 ネルフィとよく食べた。
屋台をいくつも覗いた。
どこにもなかった。
「何か、探してるの?」 「……実。赤くて、すっぱい」 「名前は」 「もう、ない名前」
ティユラは少し黙った。
「……その実も、たぶん、もう、ない」
知っていた。 それでも探した。
古道具の屋台に、欠けた石板が転がっていた。 値札にこうあった。 『読めない古字・飾り用』
あたしは足を止めた。
その字なら読めた。 あたりまえだ。 子どもの頃に習った字だった。
『――旅の無事を、星に』
声に出していた。 うっかり。
店主がぽかんとした。 ティユラの足も止まった。
「いま、読んだ?」 「……勘」 「勘で、古字を」
ティユラがあたしの横顔を見ていた。 さっきまでの、呆れた目じゃなかった。
何かを測りかねている。 そういう目だった。
あたしは石板を置いた。
「気のせいだよ」 「……そう」
そうは思っていない声だった。
日が傾いてきた。
ティユラは買い込んだ荷を肩に振り分けた。 そして、ひとつをあたしに差し出した。
「持って。荷物持ちでしょ」 「……へいへい」
軽いほうを寄こしていた。 ぜんぶ自分で持てるくせに。
雑踏を二人で抜けていく。
あの頃の相場も、名前も、赤い実も。 もうどこにもなかった。
でも、隣で誰かが荷を分けて持っていた。 あたしのぶんを軽くして。
ひとりじゃない歩き方を、忘れていた。




