第十三話 水色の格子
ルミシャ
それは形を持っていなかった。
裂け目の底から、ずるりと出てきた。 人より大きい。 けれど、輪郭が定まらない。 見ようとすると、目が滑る。 裂け目と同じだった。
通った跡で、草が枯れた。 一瞬で朽ちて、土に還る。 そのくせ、すぐ脇では別の草が芽吹いていた。 時間が、そいつのまわりでばらばらになっていた。
「下がってって、言ったでしょ」
ティユラの声が鋭くなった。
両手が跳ねる。 光の鎖が何本も走って。 そいつに絡みつく。 縛る。 縫いつける。
ネルフィの魔法だ。 化け物を縛った、あの手つき。
けれど。 鎖が触れたところから錆びていく。 古びて、ほどけて。 時間ごと食われていた。
ティユラが舌打ちした。 新しい鎖を繰り出す。 また錆びる。
そいつは、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
ティユラの足が、半歩下がった。
初めて見た。 この女が押されている。
そいつが向きを変えた。 ティユラじゃなく。 村のほうへ。
入口に、人影がいた。 逃げ遅れた、何人か。 動けずに、固まっている。
そいつがそっちへ進みはじめる。
あたしは知っている。 時間に呑まれるのが、どういうことか。 二千年、味わった。
あれを、あの人たちに。
――だめだ。
考えるより、先だった。 体が動いていた。
あたしは、左手をポケットから出した。
それだけ。 詠唱も陣もいらない。
指の先から、光がこぼれた。
金じゃない。 水色の光だ。 昔、あたしの髪がそうだった色。
その光が幾筋もの線になって走った。 そいつを囲うように。 細い、氷みたいな格子。 縦に、横に、斜めに。 一瞬で編みあがる。
ばらばらだった時間が、格子に留められた。 形を持たなかったそいつが、はじめてくっきりと輪郭を持つ。 逃げ場は、どこにもない。
世界に、そう刻んだ。 そいつは、いらない、と。
あたしは左手を握った。
水色の格子が、内へ縮んでいく。 囚えたものごと。 一点に。
消えた。
音もなく。 最初から、いなかったみたいに。
――その瞬間。
裂け目の金が、いっせいにこちらを向いた。
文字が。 図形が。 ぜんぶ、あたしを指していた。
世界が気づいたみたいだった。 ここに、いてはいけないものが、いる、と。
金の光が、あたしへ伸びてきた。 裂け目を塞ぐみたいに。 あたしを、世界から閉じ出そうとして。
寒い、と思った。
傷じゃない。 血も出ていない。 ただ、あたしの輪郭がすこし薄くなった。
指の先が、向こうの景色を透かしはじめる。
ああ。 また、減った。 あたしの、残りが。
だから、しまっておくんだ。 出すたびに、一枚、めくれて消える。
歯を食いしばった。
ここで消えるわけにはいかない。 約束が、まだひとつも。
伸びてくる金に抗った。 無理やり、自分を世界に縫いとめる。 あたしの、やり方で。
光が、しぶしぶ引いていった。
あたしはまだここにいた。 指先も戻った。 ――たぶん、さっきよりほんの少し足りないまま。
ティユラがあたしを見ていた。
化け物のことじゃない。 あたしが片手で世界をねじ曲げたこと。 そのあと、消えかけたこと。
その両方を見ていた。
気づくと。 ティユラの手が、あたしの腕をつかんでいた。
支えるみたいに。 落ちるな、とでも言うように。
取引にも、仕事にも、ない手だった。
ティユラ自身が、その手を見ていた。 なんでつかんだのか。 わからない、という顔で。
「……あなた」
声が掠れていた。
「あなた、何なの?」
あたしは答えなかった。
答えられる言葉が、この世界にはもうなかった。
二千年。 誰も知らない。 あたしが、何なのかを。




