許せない過去
「エレナさん!」
星霜百貨店から出てきた颯太は、体を斜めにして人混みからエレナのスラリとした姿を見つけた。
百貨店の壁に身を預けていたエレナは、数メートル先から自分を呼ぶ颯太を見つめると慌てて唇に人差し指を押し当てた。
たちまち颯太は怪訝な顔になり、首をかしげる。
エレナはそんな颯太を一瞥すると、彼との距離を詰めず独りで交差点を渡り始めた。
一体なんなんだ。
颯太は慌てて後を追うが、人が多すぎて思うように追い付けない。
「エレナさん!」
颯太がようやくエレナの腕を掴めたのは、彼女が長い横断歩道を渡りきり、南に体の向きを変えた瞬間であった。
颯太に腕を掴まれたエレナは彼を見上げると、慌てて逆に颯太の手を掴んで狭い路地に引きずり込んだ。
「バカね!」
そう言って密接した颯太を見上げると、呆れたように口を開く。
「テレビクルーがいたでしょ?あなた私といるとこ撮られるわよ?!」
は?
颯太は唇を引き結んだままエレナを見下ろし、エレナは真剣な眼差しで颯太の瞳を覗き込んだ。
互いに暫く見つめ合っていたが、
「フッ!」
「なんで笑うの?!」
颯太は笑いながらエレナの体を押して路地から出た。
「僕は芸能人じゃない」
「アクター顔負けの人気だったわよ?私ビックリしちゃった」
エレナが少し引いたような眼差しで颯太を見たから、彼は無意識に首を左右に振ってエレナの瞳を覗き込んだ。
「あなたといるところを撮られても全然構わないし、寧ろ嬉しい」
「え?」
「僕の恋人がこんなに素敵な女性だと、手っ取り早くみんなに自慢出来る」
「……!」
「なんですか?」
何ですかって、何ですかって……嬉しいけど、どうリアクションすれば……。
エレナは固まりかけたが、気を取り直して口を開いた。
「颯太くん、凄くかっこよかったよ」
エレナは日本酒フェアでの颯太を思い出しながら言った。
「惚れ直しましたか?もし惚れ直したなら、今すぐご褒美にキスし」
「バカ!」
バシッと叩いてやろうと振り上げたエレナの手を、颯太はいとも簡単に片手で掴むとニヤリと笑った。
それからエレナを引き寄せて胸に抱くと、周りを気にせずに彼女の唇にチュッとキスした。
「照れなくてもいいでしょう?あなたはアメリカ人だしこういうのはアメリカなら珍しくないし」
「…ここ日本だよ…」
「さて、何処にいきますか?……今思い出しましたが秘書の青山さんをほったらかして来ちゃいました」
「プッ!」
「あははははは!」
「電話しなよ!」
「ですね」
エレナは、少し恥ずかしそうな颯太を見て微笑んだ。
◇◇◇◇
……なによ。こんなところでイチャイチャして!
高宮理恵は星霜百貨店での日本酒フェアを見て、改めて颯太の魅力に酔いしれ思わず彼を追い掛けたが、彼が関係者と共にオフィスへと姿を消してしまって会えずにいた。
仕方がないので店先で待っていたが、エレナが颯太に自分よりも早く出会ってしまったので、夢中で二人の後をつけたのである。
こんな二流役者の一体どこがいいのよ!
見た目が綺麗なだけで、中身なんて空っぽでしょ?!
高宮理恵は唇を噛み締めた。
六年前に出逢い、再会して盛り上ってるのか知らないけど、彼は渡さない!
目一杯傷つけてやる。ズタズタに引き裂いてやる。
高宮理恵は、颯太に守られるように歩き出したエレナの背中を、全身全霊を込めて睨み付けた。
◇◇◇◇
「私、動画投稿サイトで見たわよ!星霜百貨店の日本酒フェア!神谷颯太、超素敵よねー!」
咲希は六本木にあるアメリカンダイナー的な店で、ハンバーガーを両手でがっしりと掴んだままウットリと瞳を潤ませた。
「帰ったらそう伝えとく」
エレナが淡々とそう告げると、咲希は慌ててハンバーガーを皿に置き、両掌をエレナに向けて戦闘の意思がない事を現した。
「ちょっと、親友の男を横取りしようなんて考えじゃないからね!私は起業家としての神谷颯太を見て評価してるだけ!」
「わかってるわよ!あんた結婚してるし!横取りしようとしたら、旦那に言うわよ」
「きゃー、よかった!旦那を横取りされるのかと思ったわ」
咲希はそう言って再びハンバーガーを掴み上げるとガブッとかぶりついた。
「そろそろ帰るんでしょ?どうすんのよ神谷颯太とは」
咲希がエレナにわざとぶっきらぼうに問う。
「前にも言ったでしょ?…遠恋はしないし約束もしない」
「アクトレスの決心は固いわけだ。いいの?後悔しない?」
エレナはちょっと笑った。
「今恋愛に走って夢を棒に振る方が後悔するわよ」
「……そっか。私や亜子には本音言っていいし、甘えていいんだからね!」
エレナは咲希を見つめて笑った。
「ありがと!凄く心強い!」
「午後からの予定は?」
咲希が気分を変えようとでも言うように、爽やかに尋ねた。
「弟が昨日から日本に来てるの。だから今日は二人で晩御飯の約束なんだ」
咲希はパアッと嬉しそうな顔をしてエレナを見つめた。
「玲哉君が?!やだー、あいたかったなあー!よろしく伝えといて!」
「分かった!」
咲希と別れ、ゆっくりと颯太のマンションへ足を向けながらエレナは思った。
咲希や亜子に言ったのは、そうしなければならないと思う、言わば理想。
本当は颯太と別れたくない。
けれど遠距離恋愛をする自信はないし、颯太を叶うか分からない夢に付き合わせたくない。
彼の時間を無駄にしたくないのだ。
でも、もしも。颯太と別れてアメリカに帰り、彼に恋人が出来たら?
夢を達成できず、おまけに彼が他の誰かと結婚したら?!
エレナは思わず寒気がして、両腕を交差させると自分自身を抱き締めた。……怖い。
颯太に会いたい。エレナは駆け出した。
駅へと続く道を左にそれ、数十メートル先を更に左に曲がる。
マンションが見えてきて、エレナが速度を落とした時、入り口の横の植木の影に人が見えた。
思わず足を止めてその人物に見入る。
「高宮さん?」
エレナはそっと声をかけた。
高宮理恵はフッと視線をエレナに向けると、唇を引き上げて笑った。
「突然ごめんなさい。あと一時間待ってお帰りにならないのなら出直そうと思っていたんですが、お会いできて良かったです」
「どうしたんですか?」
エレナは理恵に静かに問いかけた。
「お気付きでしょ?私があなたに会いに来た理由なんて、一つしかないわ」
エレナはコクンと息を飲んだ。
理恵の眼はエレナを真っ直ぐ捉え、その黒い瞳は挑戦の光に満ちていた。
『神谷颯太についてよ』
高宮理恵の眼は明らかにそう語っている。
エレナは一瞬躊躇したが、この場で話す気にも店でお茶を飲みながらという気持ちにもならなかった。
「部屋で話しましょう」
エレナは、理恵の脇を通り抜けてマンションへと進んだ。
◇◇◇◇
時刻は四時を過ぎていた。
夕立特有のどす黒い雲が広がり、室内はまるで夜のように暗かった。
「話って?」
リビングに入るとエレナは理恵を振り返った。
理恵は肩に掛けていたバッグをソファに置くと、辺りを見回して微笑んだ。
「コーヒー、いただいてもいいかしら?」
その声を聞いてエレナがキッチンへ立とうとした瞬間、理恵は左手を上げてエレナの行動を止めた。
「あなたにお願いした訳じゃないわよ。自分で淹れるわ」
そう言うや否やキッチンへ入ると戸棚を開けて、コーヒーを取り出してテーブルに置くと、今度は食器棚へと手を伸ばした。
「あら、あのオフホワイトのウェッジウッドが見当たらないわ。どこかしら」
エレナは心臓を掴み上げられたような感覚と同時に、喉の奥が張り付いたように痛かった。
理恵の言葉と行動に、思わず眼を見張る。
慣れ親しんだ場で何処に何があるか、すべて知り尽くしているような無駄のない動き。
理恵は眼を見開いて自分を見ているエレナに、勝ち誇ったような笑みを見せた。
「なに?その顔」
理恵は、可笑しくてたまらないと言ったように天を仰いだ。
「あなた女優でしょ?ちょっとはその驚き、隠せば?」
…………!
『あなた女優でしょ?ちょっとはその驚き、隠せば?』
たった今言われたばかりの言葉が、体の中のどこかにガツンと当たった気がした。
理恵がカップに視線を落としたのを見て、エレナはゆっくりと眼を閉じた。
驚きが隠せなくて悪かったわね!
でも。確かに女優だから、私。
エレナはゆっくり眼を開けると、真っ直ぐに理恵を見つめて口を開いた。
どす黒い雲を裂くように稲妻が光り、雨が窓ガラスを叩き始めていた。
◇◇◇◇
「エレナさん」
午後六時。
颯太はネクタイをゆるめながら、リビングを覗いた。
……部屋か?
足早にエレナの部屋のドアの前に立ち、声をかけた。
「エレナさん」
返事はない。
颯太はそっとドアを開けた。
すぐに、ベッドメイキングをしているエレナが目に留まる。
「……何してるんですか?」
「…掃除」
エレナは颯太を見ずに答えた。
本当はもう少し早く片付く予定だったが、エレナは理恵が帰った後暫くの間、床にへたりこんでしまっていた。
胸を撃ち抜かれたような痛みと騙されたという悲しみと、あの女の鼻をつく態度。素人相手に性悪女を演じた罪悪感。
それら……いや、それ以上の嫌な物も、まとめて襲いかかってきたようでエレナは耐えきれなかったのだ。
颯太はエレナの表情から、なにかあったとすぐに理解できた。
「エレナさん」
エレナはベッドメイキングを終えると、手を休めることなくスーツケースを開けた。
クローゼットの中の服をベッドの上に投げるように置くとハンガーを外し、ひとつづつ畳んでスーツケースに入れる。
……なんだよ。
颯太は、こっちを見向きもしないエレナの態度に苛つきに似た焦りを感じた。
考えるよりも早く、エレナの手を掴んで彼女の動きを止める。
「触らないでよっ!」
「なんなんですか?」
エレナは颯太に軽蔑の眼差しを向け、睨み付けた。
「何って?!それはこっちの台詞なんだけど」
掴まれた手を思いきり振り払いながら、エレナは颯太の眼を見据えた。
「ムカつく」
颯太は眉を寄せた。
「何にですか」
「何に?!」
エレナはちょっと笑った。
それから声を荒げて、持っていた服を颯太に叩きつけた。
「その馬鹿丁寧な喋り方も、六年前から恋人はいないと私に嘘をついた事も、愛してるって、私を抱いた事もよ!」
エレナの声が震えた。
「高宮理恵さんがここに来たわ。この家のキッチンでコーヒーを淹れてた。まるで自分の家みたいにね」
「エレナ……」
颯太の声が掠れて、エレナは更にイラついた。
「彼女とはなんにもないって言ってたよね!?」
「エレナさん」
颯太が苦しげに眉を寄せる。
「彼女に聞いたわ!何度も彼女と寝たんでしょ?!何度も抱いてたのよね!?」
「……っ!!」
颯太が大きく息を飲み、エレナは眼を見張った。
……な、によ、その顔……!!違うって、言ってよっ!!ねえっ!!!
「颯太くん……理恵さんが言ったのは本当なの?……彼女とはそういう関係なの?……答えて!」
颯太がギュッと眼を閉じた。
「彼女と寝ました」
心臓がズキンと痛み、エレナは苦痛に顔を歪めた。
ああ!!この苦しみを、私はまた味わうのか。愛した男に、また裏切られるのか。
たちまちあの忌まわしい記憶が甦る。
テレビも冷蔵庫もカーテンすらも、何もなくなった部屋。
散乱した本棚、五千ドルが消えた空の引き出し。
むせ返るようなマリファナの煙。
ベッドの上に放置された使用済みのコンドーム。
壁にはルージュで書かれた『U fucking bitch Elena』の文字。
グルグルと眼が回る感覚と、胸の中の焼け付くような焦げ付いたような痛みと吐き気。
エレナは、よろけた。
「高宮さんとそういう関係なら、どうして私に好きだって言ったの?!
彼女といればいいじゃない!!
なんで、私をここによんだのよ!!」
「聞いてください」
颯太の苦しげな顔と掠れた声。
「聞きたくない!私の話をしながらベッドで抱き合ってたらしいわね!大した趣味だわ!吐き気がする!」
エレナは、身体中の力を使って叫んだ。
「出ていく!どいて!」
「聞いてください!」
ドアに立ち塞がったままの颯太を、エレナは睨んだ。
「俺の話を聞いてください」
「どけっつってんのよっ!!」
エレナは颯太の身体を突き飛ばした。
けれどもう、力がなかった。
簡単に引き寄せられて、エレナはもがいた。
「やだやだ離してっ!もう嫌、離してっ!離してったらっ!」
「聞けっつってんだろっ!!」
颯太が声を荒げた。
その大声に、エレナの身体が硬直した。
動かない身体とは裏腹に、ハラハラと涙が頬を伝う。
颯太はエレナの瞳を至近距離から覗き込み、必死で語りかけた。
「確かに俺は高宮さんと寝ました。けどそれは今から半年以上前の話で、彼女とは恋人同士じゃなかった。
勿論、あなたと再会してからは身体の関係だって解消しました」
エレナは、勝ち誇った顔の高宮理恵を思い返した。
『私と颯太さんは何度も寝てるの。……今日だって抱かれに来たのにあなたに部屋を貸してるなんて言うものだから、驚いたわ』
エレナは颯太の瞳を見て、フッと笑った。
「……モノは言い様よね。あなたたちどちらの話が本当かどうかそんな事、もうどうでもいいわ。関係無い」
颯太が苛立たしげに眉を寄せた。
「どうでもいい?!俺はよくない!確かに俺は高宮理恵さんと寝ました。『付き合ってくれ』とも言われました。けど俺はいつかあなたと再会して恋に落ちるって、信じてた!だから高宮理恵さんには『城田エレナ以外の誰とも付き合う気はない』と断りました」
颯太はここまで言うと、唇を引き結び、半年前を思い返した。
◇◇◇◇
半年前。
「城田エレナ?」
高宮理恵は、聞き返した。
雑誌『NEED』の取材で神谷颯太と何度も会っているうち、理恵は颯太に恋心を抱くようになっていた。
何度目かの取材の時、思いきって告白したが、颯太は好きな人がいるからと理恵の想いを断った。
「会えるかどうかわかりませんけど」
独り言のように呟いた颯太の言葉を、理恵は聞き逃さなかった。
……会えるかどうか分からない女?そんな女のために断られるなんて、納得できない。
「話してみて。力になれるかも」
颯太は躊躇したが、理恵のしつこさに根負けした。
「……城田エレナというんです、彼女。アメリカ国籍で母国で女優になると言ってました」
颯太は、人が思い出を語る時に生む独特の眼差しで、打ち合わせに呼ばれたホテルの窓から外を見つめた。
「調べてあげてもいいわよ。アメリカの出版社仲間の伝を使って。ただし……抱いてくれたら。いいでしょ?お互い大人なんだし、割り切った関係で。会えるかどうかも分からない相手の為に、これからもずっとセックスしないの?」
理恵は颯太に近寄ると、そっと身を寄せて彼を見つめた。
「抱いて?」
颯太はフッと笑った。
◇◇◇◇
颯太は苦しげにエレナを見た。
「俺が嫌いになりましたか?」
エレナは颯太を見ずに答えた。
「話は分かった。要するに理恵さんとは割り切った大人の関係だったわけだ」
今度はしっかり颯太の目を見つめた。
「身体だけの関係って事よね」
颯太の瞳の光がグッと屈折し、悲しげに揺れる。
頭では納得出来た。
颯太が自分との再会を信じ、特定の恋人を作らなかった事。
けれどその反面、体だけの関係の女がいた事。
エレナと再会してからは、理恵と身体だけの関係を解消した事。
夢見る少女でいたいわけじゃない。なのに、許せない。
ケイレブもそうだ。
何もかも持ち去り、ただ一つのベッドで、エレナのモデル仲間だったエマとマリファナを吸い、彼女と寝たのだ。
エレナの話題を口にしながら。
許せない。
過去なのに、過去なのに許せない。
「エレナさん、答えてください」
エレナは、颯太から離れるとスッと姿勢を正した。
……終わりにしなければ。
そう。丁度良かった。潮時なのだ。
エレナはフワリと微笑んだ。
そんなエレナを見て颯太は息を飲んだ。
「さっきエージェントから電話があったの。いい話がきたのよ」
エレナはそこで一旦言葉を切ると、颯太を見つめて爽やかに笑った。
「部屋を貸してくれてありがとう。ほんとうに感謝してる。
恋人の真似事も、楽しかった」
恋人の、真似事……。
颯太は小さく頭を振りながら、エレナを見つめた。
「待ってください、エレナさん」
「まさか本気にしてないでしょうね?私は女優よ?」
颯太は目を見開いたまま、張り付いたようにエレナの笑顔を見つめた。
「ジョーイの話じゃ、次の映画は主演がシェリル・シーマなの。オーディションに受かれば、彼女と共演できる」
「エレナさん!」
「あなたには高宮さんみたいな人がお似合いだと思うわ」
颯太は僅かに眼を細めると、精悍な顔を傾けた。
「どういう意味ですか?」
「それは彼女に聞けば?もしくは本気で付き合えばわかるんじゃないの?」
エレナスッと笑みを消すと颯太を一瞥し、はっきりとした口調で告げた。
「私はね、男になんか期待しないの。自分にしか期待しないの」
エレナは付け加えた。
「あなたの事なんて、好きでもなんでもなかった」
エレナはスーツケースを持つと、数歩歩いた。
「颯太くん、今までありがとう。どうかお元気で」
颯太は俯いて唇を噛み締めていたが、部屋を出ようとしたエレナの腕を掴んで引き寄せ、胸に深く抱いた。
「エレナ、エレナ」
堰を切ったように颯太はエレナの名を呼んだ。
一方エレナはフワリと颯太の匂いに包まれ、再び涙が出そうになる。
やだ、そんな風にしないで。
そんな声で呼ばないで。
エレナはギシギシと軋む胸の痛みに悲鳴を上げそうであった。
颯太の切ない眼差しとぶつかり、思わず息を飲む。
「俺のエレナ」
呟いた直後、颯太の唇がエレナの唇を塞いだ。
愛してるんだ、エレナ。
震えながら、ふたりは互いに顔を離して見つめ合った。
エレナ、愛してるんだ。
愛してるよ、颯太くん。
見つめ合うだけで、言葉はなかった。
暫くの後、先に口を開いたのは颯太だった。
「……馬鹿丁寧な言葉遣い、ムカついてたんですか」
「……っ」
エレナが眼を見張ると、颯太はフウッと微笑んだ。
「じゃあ、今更だけど、もうやめる」
颯太は白い歯を見せた。
「エレナ、お前がオーディションに受かるのを願ってる。
ずっと応援してる」
「……そ、うた、くん」
「じゃあな、エレナ」
「さよなら、颯太くん」
エレナはゆっくりと颯太から離れると、クッと前を向いた。
◇◇◇◇◇
高宮理恵は、叩きつけるように降る雨の中を、無我夢中で飛び出した。
逃げるように神谷颯太のマンションを後にする。溢れる涙を止めることが出来ない。
負けた、城田エレナに。そう、見た目も中身も。
理恵は恥ずかしかった。
颯太の愛を得られず、その腹立たしい思いからエレナをズタズタに傷つけたくて彼女に挑んだ。だが。
理恵は、降りしきる雨に任せて思い切り泣いた。
泣きながら、エレナとの会話を思い返した。
◇◇◇◇
「あなた女優でしょ?ちょっとはその驚き、隠せば?」
理恵はカップを置くと真っ直ぐにエレナを見据えた。
「率直に言うけど、神谷颯太から手を引いてくれないかしら」
理恵は続けた。
「私、取材で彼と知り合ったんだけど、彼を気に入ってるの。
彼のが4歳年下だけど、そんなの構わない。彼、凄く大人だし外見も素敵でしょ?勿論経済的にも文句なしだわ」
…………。
エレナは、酔ったように話す理恵を食い入るように見つめた。
「うちの会社って過酷なの。何日も働きづめで徹夜もザラ。肌は荒れるし婚期は遅れるし、焦りと疲れでもうボロボロよ」
理恵は、更に続けた。
「彼と結婚できたら凄くラッキーでしょ?見目麗しい青年実業家。お金には困らないしあくせく働かなくてよくなる。こんな素敵な出会いってあまりないのよね」
…………。
理恵はもう一口コーヒーを飲むと、エレナの全身を眺めた。
「あなた綺麗よね。スタイルもいいし女優なんて言わば特殊な職業だし、もてはやされるでしょ?人気ハリウッドスターと恋愛する機会もあるでしょうし、パーティーに行きゃ、金持ちの男とすぐ知り合える。
綺麗なんだから誰とでも恋に落ちる事が出来るじゃない。
だから、神谷颯太じゃなくてもいいでしょ?私は彼にしか出会ってないのよ」
理恵は一旦言葉を切って、再び口を開いた。
「あなたが来るまで、私が一番彼に近かった。私、あなたの情報を彼にあげてたのよ。あなたの出演したドラマを調べてDVDをプレゼントしたり、過去のCMを見せたり、モデル時代のあなたの画像だって探し出したわ。
彼はその都度、抱いてくれた」
エレナは、眼を閉じた。
「あら、ショックだったかしら。……とにかく彼を譲ってもらいたいのよ」
エレナは眼を開けると同時に、フフフと笑った。
「なによ?!」
「アホらし」
エレナは両手を首の後ろに回すと、長い髪をパサリと跳ね上げた。
それから頭を振って、うんざりしたように理恵を見つめる。
「あなた随分勘違いしてるのね。私が颯太くんをあなたに譲る?私が彼と別れたら彼はあなたの元に行くのかしら?あなたに恋をするかしら?第一、譲るとか譲られるとかの話?彼はモノじゃないのよ」
エレナはニヤリと笑った。
「随分彼に養ってもらいたがってるけど、あなたは自分の人生、男任せにしていいの?まだ20代よね?精神的にかなりフケてるのね」
理恵の怒りに満ちた眼差しを、エレナは侮蔑の表情で見返した。
「早く颯太くんと連絡取れば?
駄目なら次のカッコイイ金持ち探さなきゃでしょ?あなたの話を聞いていると、神谷颯太というひとりの男を愛してるというより、彼の地位、名誉、話題性、経済力に随分惹かれてるようだけど。
…………せいぜい頑張って、高宮理恵さん」
エレナは言い終えると顎を上げて、思い切り冷やかな光を宿した瞳で、理恵を再び見つめた。
くっ……!
理恵が堪らず叫んだ。
「あなたは?!あなたはどうなのよ!?彼が貧乏でも愛するって誓える!?」
エレナは失笑した。
「私が好きなのは彼自身なの。社会の一員として真面目にしっかり働いてる神谷颯太なのよ。たとえ金持ちじゃなくてもかまわない」
「あなたは女優だからそんな綺麗事を言うのよ!!
女優なんて少し売れたら金に苦労しないじゃない!いいわね女優で!」
エレナは、呆れたように溜め息をついた。
「あなたに私の女優人生を話す気はないわ。けれどあなたが考えているよりも1000倍厳しい世界なのよ。……私、そろそろアメリカに帰らなきゃならない時期なの。どうぞお構い無く彼に告白でも何でもして、抱いてもらうなり養ってもらうなりすれば?私には女優として、叶えなきゃならない夢がある。自分の脚でしっかり歩かなきゃならないの。あなたみたいに男に寄生して生きていくなんて出来ないのよ」
理恵は、何も言い返せずに息を飲んだ。
「これ以上、あなたと話すことはないわ。さよなら、高宮理恵さん」
エレナは蒼白な理恵の顔を一瞥すると、踵を返した。
カタカタとコーヒーカップが小刻みに揺れて、理恵は初めて自分が震えていることを知った。
稲妻が光り、雷の音が辺りを震わせていたが、理恵は颯太のマンションを飛び出した。
◇◇◇
理恵は自分でも分かっていた。
颯太の心には六年前からエレナがいて、彼はずっとエレナを愛していたのだ。
いや、エレナの存在があろうがなかろうが、神谷颯太が私を恋愛の対象としてなど、見てくれはしない。
叶わない。敵わない。
颯太との結婚も、エレナという気高く美しい女にも。
理恵は足を止めて、時折光る暗い空を見上げた。
雨はやむ気配がなかった。




