踏み出す為に
「エレナ、ほんとにいいのかよ」
昨日から日本に来ていた弟の玲哉が、心配そうに口を開いた。
うるさい店内が、どん底だったエレナの心を僅かながら明るくする。
エレナはジョッキをグイッとあおると、玲哉を見ずに答えた。
「いいもなにも、もう別れてきたわよ。アメリカに帰るわ。一週間後、オーディションだし」
玲哉は金髪の長い前髪をうるさそうにかき上げながらビールを飲んで、エレナを見た。
「しかしあれだな、姉ちゃんは男を分かってねぇわ」
「なによ、どういう意味よ」
すると玲哉は周りの客を流すように見ながら、サラリと答えた。
「よく言うだろ?男は本命がいても、関係ねー女を抱けるの!」
「あんたは特にね!」
「バーカ!俺だけじゃねーわ。しかも、その神谷とかいうヤツと理恵って女がヤりまくってたのって、姉ちゃんと再会する前の話なんだろ?だったら姉ちゃんがキーキー怒る事ねーじゃんか」
エレナは玲哉を睨んだ。
「分かってるわよっ!!ちょっと!!ヤりまくってたとか言わないでよ!」
玲哉はそんなエレナをせせら笑うと、刺身をパクッと口に入れた。
「うま」
「ここ、あんたのおごりね。それと今晩、あんたのホテルに泊めなさいよね」
「分かってるって。なあ、姉ちゃん」
「なに」
「会えよ、ケイレブに」
弾かれたようにエレナが玲哉を見上げた。
玲哉は真剣な眼差しでエレナを見つめた。
「姉ちゃんの心には傷があるんだ。
あの日ケイレブに付けられた傷が、姉ちゃんの心に影響してるんだろ。
その傷は誰かに何とかしてもらえる類いのものじゃない。自分で治すしかないんだよ」
自分で治すしか、ない。
「姉ちゃんも分かってるんだろ、本当は。だから神谷ってヤツから離れたんだろ?」
エレナは玲哉を見つめた。
見つめたが、エレナは玲哉を通して自分の心の中を覗き込んでいた。
そうだ、玲哉のいう通りだ。
恋人と波風が立たない時はいい。
けれど何かが起こった時、この傷は自分だけでなく恋人までも苦しめるのだ。
そうよね。自分の傷は、自分で治さなきゃダメよね。じゃないと前に進めない。
「分かったよ、玲哉。自分で決着をつけてくるよ」
玲哉はニヤッと笑った。
「それでこそ、城田エレナだぜ」
エレナは、ホッと息をつくとビールを飲み、玲哉を見た。
「で、あんたは何しに日本に来たのよ」
「そりゃ、好きな女に会いに来たのに決まってるだろ」
「日本人なの?」
「ああ。まあ、そいつにゃ恋人がいるんだけどな」
「はあ?!」
「好きなんだから仕方ねぇだろ」
「バカね」
エレナはそれ以上何も言えなかった。
玲哉の瞳が、切なげに揺れた気がしたから。
◇◇◇◇◇◇
ニューヨーク市マンハッタン区。
エレナはモデル時代にケイレブと住んでいたイーストビレッジの街並みを、懐かしい思いで見渡した。
住んでいた頃、エレナはこのニューヨークを『裏腹な街』だと思っていた。だが、今はただ懐かしかった。
アベニューAに沿った、大きな公園。
エレナは、懐かしくてその芝生を思い返した。
トンプキンス・スクエアパークへは、よくケイレブと出掛けた。
彼は芸術家志望で、よくこの公園でバスケをする人や走り回る犬をデッサンしていた。
たまにケイレブはエレナを描いた。
あの時はお互い夢に向かって真っ直ぐだった。
……いつからだろう。足並みが揃わなくなっていったのは。
『知り合いから聞いたんだけど、あいつの職場はバーらしい。電話番号は……』
玲哉の情報を頼りに、エレナはイーストビレッジの目抜き通りを抜け、アベニューAを南へと進んだ。
南北に走るアベニューAは、エレナがニューヨークに住んでいた頃とさほど変わりはなかった。
けれど時間が時間だった。午後一時過ぎ。
様々な店は大抵正午ぐらいには開くが、バーは閉まっている。
あれ?アベニューAじゃなかったっけ?
店の看板を見ながら5丁目まで来たときであった。
「エレナ…?!」
懐かしすぎる声に、エレナの足が止まった。
振り向きたいのに、体がうまく動かない。
「エレナ・リーダスだろ?」
声の主は、ガタンと音をたてて何かをアスファルトの上に置いた。
前方に広がる風景は、古びたビルとその歩道の脇に枝葉を広げた背の高い街路樹だったが、エレナは後ろの人物ばかりが気になった。
振り向かなければ。前に進むために。
「エレナだろ?」
エレナは深呼吸をして、ゆっくりと振り返った。
◇◇◇◇◇
「まさか、お前が受かるとはな!」
珍しくエレナがエージェントに顔を出すと、挨拶よりも早く、ジョーイが皮肉げに唇を曲げた。
エレナは見事、シェリル・シーマの主演映画『Agrippina』に出演が決定したのだ。
古代ローマ時代、暴君と呼ばれた皇帝ネロの母親、アグリッピナの生涯を描いた歴史スペクタクルだ。
勿論、シェリル・シーマがアグリッピナ役であるが、後にネロの妻となるポッパエアを、エレナが演じる事となったのだ。
「アジア人のお前が、ポッパエア役とはな」
何かとアジア人の血を引いているのを持ち出し、バカにするジョーイをエレナはチラリと見た。
正直エレナ自身、今回は完全にダメだと思った。
だが有名若手女優を抑え、映画界で無名だったエレナが大抜擢されたと分かった時は、ロス中のエージェントが驚いたにちがいなかった。
プロデューサーは後に、ポッパエア役をエレナに決めた時の心境をこう語った。
『意外性の追求は一切ない。正しい心以外の全てを兼ね備えた女性、ポッパエアが生きていれば、正にこんな感じだと僕は直感したんだ。
エキゾチックな顔立ち、男を惑わすような魅惑的な瞳。
幼げでありながら妖艶で、儚げでありながら強かな精神。きっとエレナが演じるポッパエアは、映画を見た人々の心の中でただひとりのポッパエアとなるだろう』
ロサンゼルスの高級ホテルで、映画『Agrippina』のスタッフ及びキャストの顔合わせパーティーが開かれた。
そこでエレナはシェリル・シーマと再会を果たす。
グラスを片手に、セネカ役の有名俳優と談笑するシェリルを、エレナは見つめた。
ああ。ずっとずっと、この瞬間を夢見ていた。
あの日、あの降りしきる雨のニューヨークで彼女と会わなければ、今の自分はなかった。
フッとシェリルが視線をエレナに向けた。
アクターに軽くグラスを持ち上げて挨拶すると、シェリルはエレナへと歩を進め、やがて彼女の正面で足を止めた。
緊張のあまり硬直するエレナに、シェリルは優しく微笑んだ。
「この日を待っていたわ。エレナ、お久し振りね」
「…………!!」
みるみるエレナの視界が歪み、シェリルが思わずエレナの肩に手を回した。
「あらあら、泣かないで、ポッパエア」
こんなに嬉しいことなかった。
エレナは溢れ出す涙をどうしても止められなかった。
「お前のポッパエアが見物だぜ」
険を含んだジョーイの声が、エレナを現実に引き戻した。
「ジョーイ」
「あ?」
「アグリッピナが公開されたら、劇場に観に行く?」
ジョーイは驚いてエレナを見た。
てっきり自分の悪態に対する、反撃の言葉が返ってくると思っていたのだ。
ジョーイはエレナの真面目な顔を1、2秒見つめたが、ぶっきらぼうな口調でこう返した。
「ポッパエアの前評判による」
「あっそ!じゃあね、ジョーイ」
「段々、お前と口喧嘩出来なくなる日が迫ってる気がするぜ」
エレナはジョーイを振り返った。
「なぜ?」
何故って。
ジョーイはオフィスの窓から、遥か下の道路を見下ろした。
近い未来、この高さ位の差が出来そうだからじゃねぇか。俺と、お前に。
エレナは、何も答えないジョーイの横顔をジッと見つめた。
「大丈夫よ」
「…………」
「だって、あなた私が嫌いなんでしょ?」
エレナはニヤッと笑った。
「じゃあね!」
ジョーイは、ため息をついた。
◇◇◇◇◇
1年半後。
クランクインから9カ月後、エレナはクランクアップし、残り3ヶ月間の撮影現場となった地中海から帰国した。
それから数ヵ月後、すべての作業が終了し、エレナ達キャストの面々はPRの為各州を駆け回り、満を持して映画『Agrippina』は、全米で公開された。
現代物に押されぎみの歴史映画だが、『Agrippina』は大ヒットを期し、日本公開が半年早まった。
あと三ヶ月の後、エレナは『 Agrippina』の日本公開PRのため、来日が決まっている。
製作側からエージェントに、日本でのPRイベントに参加して欲しいという依頼が来たときは、真っ先に颯太の顔が浮かんだ。
エレナはあの日、颯太と別れてから彼の事を考えない日はなかった。
……会いたい、颯太くんに。
けれどあの時は先の見えない約束などするわけにはいかなかったし、ケイレブとの過去に傷付いたまま、あれ以上颯太といられなかった。
けど今なら。
エレナは自宅のカウチでスタイニーを傾けながら、ケイレブとの会話を思い返した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
約一年半前。
ニューヨーク市マンハッタン区。
アベニューAのバー、『Pablo』を通りすぎた時、エレナの背後から懐かしすぎる声がした。
「エレナ?」
体が硬直し、喉の奥がジンと重くなる。
「エレナ・リーダスだろ?!」
エレナは深呼吸をすると、ゆっくりと振り返った。
「……ケイレブ」
エレナは、懐かしい過去の恋人を見つめた。
ヒョロッとしていた昔より、幾分か逞しくなった体つき。
淡いブラウンだった髪はそのままだが、あの頃よりも短い。
ブリジットの瞳も当時のままだった。ただ、彼の腕のタトゥーから、エレナの横顔が消えていた。
「……変わらないね、エレナ」
「あなたも」
ケイレブはエレナの澄んだ瞳を見つめて、はたと我に返った。
思わず声をかけてしまったが、やはりあの出来事が胸にのし掛かる。
「ケイレブ……少し話せない?私、あなたに会いに来たの」
「俺に?」
エレナはケイレブの眼を見てしっかりと頷いた。
「……うん……入って」
ケイレブの勤務先のバー『Pablo』は、壁という壁にピカソの画の模写や誰かの描いた油絵が飾られ、棚や窓には小さな石膏像、金属で作られた作品などが飾られていた。
エレナはケイレブが飲み物を用意してくれている間に、店内の作品を見て回った。
「ピカソの模写も他の画も、全部俺が描いたんだ」
「……凄い……」
「今日は酒の納品にトラブルがあってね、いつもより少し早めに出勤したんだよ」
「ここはケイレブのバーなの?」
ケイレブは軽く頷いた。
「うん。どうぞ」
カウンターに炭酸水を置いて、ケイレブはエレナを見つめた。
「たまに酔った客が、俺の作品を買ってくれるんだ」
ケイレブは気恥ずかしげに笑った。
「酔いが冷めた後もまだ返品された事はないんだけど、そろそろ『返品不可』ってタグを付けとこうかな」
エレナは笑った。
そんなエレナを見てケイレブは続けた。
「近頃はネットで作品を売ったりしてる。この間はギャラリーに出品した半分の作品が売れたんだ」
「凄いじゃない!良かったね!」
明るい声が反射的に口から漏れて、エレナは自分に驚いた。
自分を裏切り、心にひどい傷を負わせたまま立ち去ったケイレブの成功を、こんな風に喜べるなんて思いもよらなかったのだ。
「ごめん……」
突然ケイレブの苦し気な声が響き、エレナはコクンと息を飲んだ。
「あの日の事で、俺に会いに来たんだろ?……本当に、ごめん」
エレナは冷えた炭酸水の瓶を握り締めた。
今から問わなければならない、これからの為に。
喉の奥が押し潰されたように痛い。胸の中に鉛が詰まったように苦しい。
エレナは思わず眉を寄せながら口を開いた。
「なんであんな事したの」
ケイレブはブリジットの瞳に暗い影を落として、カウンターを見つめた。
「……あれからずっと後悔してた。けどあのときの俺は、ああするより他はなかったんだと思う。……話してもいい?」
エレナは、尚も冷たい瓶を両手で握り締めた。それしか出来ることがなかったのだ。
「うん、話して」
ケイレブはカウンターごしの椅子に腰かけると、静かに話し出した。
「俺、恐かったんだ。いつかエレナに捨てられるのが。
君はいつも輝いていたのに俺はそうじゃなくて……働きながら演劇学校に通ってたエレナに初めて出逢った時、神話の女神のようだと思ったよ」
ケイレブは当時を思い出しながら、柔らかな眼差しでテーブルに置いた自分の指を見つめた。
「苦しかったんだ。エレナの稼ぎで生活をして、俺はただガラクタを作る日々。いつかエレナに恥じない男になりたかった。けれどある日、ドラマの端役のオーディションに受かったと嬉しそうに話す君を見た時、俺は思ったんだ。近い未来、君に捨てられる。エレナが俺から去っていくって」
ケイレブは、自嘲的に唇だけで笑った。
「君が仕事に出てる間、俺は酷く酔ってた。そこにエマが君を訪ねてきたんだ。彼女は君がドラマの端役を貰えた事を知らなかったんだね。俺、エマは親友だから知ってると思ってた。エマは、僕に囁いたんだ。エレナはきっとあなたと別れる。あなたは捨てられるわよって」
エレナは早鐘のような心臓を感じながら、ケイレブを見つめた。
「俺は思わず、酔いに任せて君を悪く言ってしまった。
エマは、そんな俺を抱き締めてこう言ったんだ。『私達から遠ざかろうとしているエレナに、私達を刻み付けましょう』って」
カシャカシャと胸の中で何かが壊れるような気がして、エレナは瓶から手を離した。思わず胸を押さえて、大きく息を吸い込む。
「マリファナを吸い、エマを抱いたら、少し心が和らいだ気がしたんだ。俺がこれから君に付けられるであろう傷と同じくらいの傷を、君に残したかった。傷の大きさで、俺の愛を分からせたかったんだ。
ずっとずっと、エレナの心に俺を刻み付けて、一生忘れられなくしたかった。凄く愛していたから」
耐えきれず、エレナは声をあげて泣いた。
「私は、ケイレブを愛してたよっ!ひどいよっ!ひどいよ、ケイレブ」
ケイレブは、カウンター越しにエレナの手を握り締めた。
「ごめん、ごめんエレナ。酔いが醒めてマリファナからも解放された時、自分のしてしまった仕打ちに俺は怯えた。
君との生活を自分から壊した俺自身を恨み続けたけど、君に謝りにはいけなかった。恐かったんだ。あんな酷いことをして、君が俺を愛してくれる訳がないから。だから会いに行けなかった」
ケイレブの瞳からみるみる涙が盛り上がって溢れ、カウンターにポトリポトリとこぼれ落ちた。
「今頃謝っても遅いけど、ごめんエレナ。本当にごめん」
エレナは涙でグシャグシャになった顔で、ケイレブを見つめた。
「私、好きな人がいるの。2歳年下の人。でも怖くて怖くて踏み込めないの。またケイレブの時みたいになっちゃうんじゃないかって。
また酷く傷つけられて裏切られるんじゃないかって!だって彼も年下なんだもん」
「エレナ!」
ケイレブが悲鳴のような声でエレナの名を呼び、カウンターを飛び越えるときつくエレナを抱き締めた。
「俺のせいで本当にごめん。けどその人は、俺じゃないんだ。君を裏切った俺じゃない。酷い男は俺で、その人じゃないんだよ。
年下でもしっかりした男はいるんだ。俺のつけた傷でこれ以上苦しまないでくれ……君を、解放するから!」
…………君を、解放するから…………
解放。本当に?この痛みから、解放してくれるの?
エレナは、ケイレブの温もりを感じながら呆然と彼の声を聞いた。
「こんな言い方、最後まで酷くて嫌なヤツだと思われるだろうけど」
ケイレブは一旦言葉を切って身を起こすと、至近距離からエレナの瞳を覗き込んだ。
「君を俺のかけた呪いから解放する。だから君はもう恐がらないでいいんだ。もうエレナは自由だから」
ケイレブは両手でエレナの頬の涙を優しく拭った。
「これで呪いは解けるから」
エレナの額にそっと口付けを落として、ケイレブは泣きながら笑った。
「うん」
涙で濡れた互いの顔を見つめながら、二人はしばらくそのままでいた。




