視線の先
忙しなくしているうちに、瞬く間に三ヶ月が過ぎた。
映画『Agrippina』の大ヒットに伴い、エレナの生活も変わり始めた。
「おいポッパエア、仕事の話だぜ」
「あんたはまだジョーイのままね」
相変わらずのジョーイとの会話。
「資料は要らないらしいから手ぶらでいい。地図はファックスで送る」
「分かった」
「エレナ」
「なに」
「お前の演技、良かったぜ」
?!
ジョーイ、とエレナが言いかけた時にはもう電話が途切れた。
ありがとうくらい私だって言うのに。
エレナは苦笑した。
◇◇◇◇◇
日本。
エレナは 『Agrippina』のPRイベントに参加するため、他のキャストと共に日本を訪れていた。
公開初日に親友の咲希と亜子が、いち早く劇場で 『Agrippina』を観賞し、この日の夜、エレナも二人に合流して祝いの飲み会となった。
「いやー、凄かったわ!私、ローマ時代に興味ないけど内容もめちゃくちゃ面白かった!
もうシェリル・シーマが最高だったわ。あと、あんたもね!!
衣装も良かったし濃いアイメイクも良かった!!ポッパエアみたいな根性ババ色の腹黒女を見事に演じきってエレナは凄いっ!私、こんな憎たらしい女が親友だった事に怯えたわよ、ほんと」
エレナは、大きな声でそういう咲希を睨んだ。
「ちょっとっ!性悪女を演じただけだからねっ!なんて言いぐさよっ!」
亜子はケラケラと笑った後両手で頬を挟み、眼を閉じながらクネクネと体を曲げた。
「いや、凄いと言えばあんたと皇帝ネロのベッドシーンが凄かったわ!
ヤバい、あれはヤバい!」
「こらっ!ヤバいヤバい言わないっ!私必死だったんだからね!」
エレナは恥ずかしさのあまり、ビールを飲んでから手を振り回した。
「この話、終わり!」
「やだ、終われない!エロすぎて終われない!」
「ばか!」
「この映画観たら、神谷颯太は嫉妬で発狂するね」
「ほんとほんと!嫉妬に狂って……」
エレナはチラリと二人に視線を送り、呟くように言った。
「……颯太くんとは会ってないし連絡もとってない。もう私の事なんて忘れてるよ」
咲希と亜子が顔を見合わせて口を揃えた。
「忘れるわけないでしょ」
「……もう、結婚してるかも」
「神谷颯太は、独身だし彼女もいません!」
咲希はそう言うとガサガサとバッグを探り、一冊の雑誌を手に取ると付箋を目印に、それを勢いよく開いた。
……颯太くん……!
「えっとね、この女性誌によると某有名化粧品メーカーが、日本酒の入った基礎化粧品を発表し、その酒の提供元が神谷酒造なんだって!
で、神谷颯太がインタビューに答えたと言うわけ」
「さっすがよね、この女性誌!
酒の提供元が神谷酒造じゃなかったら、絶対取り上げてないわ。
しかも読者が知りたいトコ、しっかり押さえてる」
エレナは雑誌の中で微笑んでいる颯太を凝視した。
一緒にいたときより、幾分か頬がシャープになった気がする。
それに、髪の色もブラウンから漆黒に変わってるし……。
相変わらず男らしい眉の下の、どこまでも見透すような綺麗な瞳。
「会いたいな……」
エレナは無意識に口に出していた。
「行くわよ!」
「え?」
「だから行くわよ、神谷颯太のところへ!!」
咲希が素早く立ち上がり、残っていたジョッキを豪快に煽る。
勢いがよすぎて唇の端からビールがこぼれたが、咲希は動じることなく片手でグイッと唇を拭った。
「姉ちゃん、おあいそっ!!」
店員の姿も確認せず、咲希は周りの客が驚くほど大きな声で店に清算を知らせ、荷物をまとめた。
エレナは驚き、亜子はゲラゲラと笑い転げた。
「あははははっ、『姉ちゃん、おあいそ!!』だって!!
咲希がオヤジ化したわよっ!めちゃくちゃウケるんだけどっ!」
瞳をギラギラと光らせた咲希は、亜子とエレナのビールまで突っ立ったままグビグビと飲み干した。
それを見た亜子が更に笑う。
「あー、ウケる、もーお腹痛い!」
エレナは慌てて立ち上がると咲希の眼を見つめた。
「ちょっと、あんた大丈夫!?一体どーしたのよっ!?」
すると咲希は、エレナを見てバシッと言い放った。
「言っとくけど酔っ払ってる訳でもヤバい薬でイカれてる訳でもないわよ」
まじ!?それじゃ余計心配なんだけど。だって突然こんな……。
咲希はエレナを正面から見据えた。
「ケイレブに会ったんでしょ?ちゃんと自分の過去に決着をつけて、心の傷の手当て、したんだよね?」
エレナはコクンと頷いた。
「まだ神谷颯太が好きなんだよね?!」
エレナはもう一度頷いた。
「あんた、明後日にはアメリカ帰るんでしょ!?今会いに行かないでどーすんの?」
「でも私、別れ際に酷い事言っちゃったし」
『まさか本気にしてないでしょうね?私は女優よ?』
『私はね、男になんか期待しないの。自分にしか期待しないの!!』
『あなたの事なんて、好きでもなんでもなかった』
エレナは別れ際に言った自分の言葉を思い返して、胸が潰れそうになった。
「なら会って謝れ!」
どんどん男化していく咲希を目の前に、さっきまで笑い転げていた亜子が口を開いた。
「そうだよ、会いに行こう!咲希が性転換する前にね!」
◇◇◇◇
「ちょっと咲希、神谷颯太はどこにいるのよ」
「それは知らん!店でしょ、店!」
「いい加減なんだから!出張とかでいなかったらどーすんのっ」
「店攻めて、いなかったらそれから考える」
「攻めるって!走り屋かっ!」
咲希と亜子のやり取りをタクシーの中で聞きながら、エレナはドキドキする心臓に手をやった。
颯太くんに会って、どうなるんだろう。
彼は私を許してくれるんだろうか。
本当に恋人はいないの?
顔が見たい。会いたい。
エレナはギュッと眼を閉じた。
三人が飲んでいた東京タワーの近くの外国人客の多いパブから、六本木の『Sou』までは、タクシーなら大して時間はかからない。
運よく渋滞もなく、エレナたち三人は『Sou』の近くでタクシーを降りた。
「行くわよ」
辛うじてまだ女の咲希がエレナの眼を見た。
エレナが小さく頷くと、咲希は大きなドアをそっと押した。
途端に柔らかな光と賑やかな店内の様子が眼の前にひろがる。
咲希は大股でカウンターを目指した。
「神谷社長はいらっしゃいますか?」
「失礼ですがどちら様でいらっしゃいますか?」
咲希は澄ました顔で答えた。
「城田エレナです」
げっ!
バーテンダーがバックヤードに引っ込むや否や、やっと咲希に追い付いたエレナは思わず彼女を睨んだ。
「何で言うのよ」
「名乗らない気?!無礼者」
「だって」
口喧嘩の最中、先程のバーテンダーが戻ってきた。
「お待たせいたしました。申し訳ございません。社長はただ今、会議中のようでして……」
エレナは咲希と亜子の顔を見た。
「残念!せっかくだから飲んで帰ろ」
「だね。会議終わったら来るかもしれないし」
良く考えたら……やっぱり無理だ。
今再び顔を会わせても二人の仲は進展しない。何も生まれない。
なら、会わない方がお互いの為だ。
「ごめん、私、やっぱり颯太くんには会えない。咲希、亜子、本当にごめん!私、ホテルに戻る」
エレナはそこから立ち去ろうと身を翻した。
颯太を待っていられない。
だって、あんな別れ方して……気まずい。
それに何を話していいのかも分からない。怖すぎる。
踵を反して駆け出そうとしたとき、エレナは誰かにぶつかった。
「きゃっ!!」
「うわっ!!」
衝撃が体に ガツンと響き、エレナは思わずギュッと眼を閉じた。
逞しい腕が、エレナの体をフワリと抱く。
けれどそれはほんの一瞬で、エレナはすぐに離れると眼を上げ、自分がぶつかった人物を見た。
「隆也?!」
それは木佐隆也だった。
濃紺のシャツにダメージジーンズ。
「エレナ!やっぱエレナだ!そうじゃないかと思って声をかけようとしたんだ」
エレナはこの嬉しい驚きに眼を見開き、それから隆也にハグした。
「隆也!会えて凄く嬉しい!」
隆也はエレナとハグしたまま、エレナの顔を見つめた。
「テレビ見たよ。『Agrippina』俺も見に行くわ」
「ほんと?!ありがと!」
「なあ」
「なに?」
「ショットガン飲もうぜ。テキーラはダメだけど」
エレナは悪戯っぽく笑った。
「大丈夫?」
「俺に二言はねえ!」
その時である。
「いつまで抱き合ってんの!誰、この人」
咲希の鋭い声にエレナは我に返った。
「あっ、彼は木佐隆也君。颯太君と同じ野球チームのピッチャーなの」
隆也が慌てて咲希と亜子に頭を下げた。
「隆也、咲希と亜子。私の親友」
「初めまして!さあ飲むわよ、ショットガン!」
咲希は皆を促しながらカウンターからさほど離れていないテーブルへと移動すると、店員にショットガンを4つ注文した。
程なくしてショットガンが運ばれてきたのを見ると、全員が一瞬黙ってグラスを指で引き寄せた。
「ここはエレナよね」
「オッケ。いくわよ」
エレナは全員を見回して、ニヤッと笑った。
「Let's shotgun!!」
エレナの掛け声と共に全員がショットグラスに片手で蓋をし、テーブルにグラスの底を勢い良く打ちつけた。
カツンと良い音が響き、ショットグラスが泡立つ。
それをゆっくり眺める間もなく、全員がグラスを豪快に煽った。
「うわーっ!」
「あれ以来!久々だわ、この感じ」
「やっぱ、ジンジャーエールがいいわ!」
「ヤバい、時差ボケ忘れてた」
四人で一通り笑ったあと、エレナが隆也を見た。
「そーいや、隆也はひとり?」
隆也は軽く頷いた。
「会社の奴らと飲んでたんだ。で、解散したときにエレナがここに入っていくのが見えたから」
咲希と亜子は、ふんふんと頷いて隆也の話を聞いていたが、エレナだけは意味ありげにニヤリと笑った。
「大して飲めないクセに、飲み会に参加したんだ」
「え、隆也君、飲めないの?!見かけによらず可愛いんだね」
「そのギャップがいいわ」
亜子と咲希にからかわれて、隆也は慌てた。
「いや、全く飲めないんじゃなくて、ビールなら」
「必死~!はははは」
エレナが更にからかい、隆也は顔を赤くした。
「こいつ!!」
隆也が隣のエレナに腕を伸ばし、彼女の首に腕を絡めて引き寄せた。
「きゃあ、ごめんごめん!デコピンはやめて!」
「バカだな!げんこつだっつーの!」
「痛ーっ」
「あははははは」
「ウケるー!エレナがげんこつされるなんて」
一時間が過ぎようとしたところで、咲希が立ち上がった。
「ごめん、私、そろそろ帰るわ。エレナ、また電話して」
「私も旦那から電話だし。帰ってこいコールだわ。エレナ、隆也君、またね!」
エレナは慌てて二人を止めた。
「じゃあ、私もそろそろホテルに帰るよ。隆也はどうする?」
隆也は腕時計に眼をやりながら答えた。
「俺も帰るよ。仕事だし」
「じゃあ、帰ろっか」
四人は席をたった。
帰る方向が同じの咲希と亜子が一緒にタクシーに乗り込むのを見届け、エレナは隆也と歩き出した。
「ホテルどこ?送ろうか?」
「大丈夫。ミッドタウンだから。タクシーですぐだよ」
「じゃあ……少しあるかないか?」
「うん」
◇◇◇◇
「城田、エレナ?」
会議が終わり、秘書の青山奏からショットバー『Sou』の伝言を受け取った神谷颯太は、思わず息を飲んだ。
渡されたメモを、食い入るように見つめる。
「ありがとう、青山さん。また明日」
颯太は青山奏にそう言うと、足早で車に向かった。
向かいながら『Sou』に電話を入れるが、エレナはたった今、店を出たという。
バーテンダーの話では三人で来店し、その後一人の男性が交ざり、4人で飲んでいたらしい。
……ひとりの男性って、誰だ。
彼女からの伝言はなかった。
エレナ。
颯太は運転席に乗ると、腕をハンドルにかけてしばらく考えた。
今朝、テレビでエレナを見た。
何でも、ハリウッド映画のジャパンプレミアでキャストとしてシェリル・シーマとインタビューに答えていた。
実に1年半以上もの間、颯太はエレナと連絡を取っていない。
彼女に恋人がいるのか、結婚しているのかも分からないでいた。
ただあの頃と同じで、エレナは美しかった。
数秒だけ流れた映画の中のエレナは、まるで知らない女だった。
衣装とメイクで飾り立てた美しいエレナはどこからどう見ても一流の女優で、颯太はエレナが遠いところへ行ってしまった気分だった。
エレナは、インタビューには全て英語で答えていた。
流暢な日本語を話して、話題が自分に向いたりしないように、彼女なりの気配りを見せた結果だと、颯太は確信していた。
何処に泊まってるんだろう。
たった今店を出たと言うことは、まだ六本木にいるかもしれない。
颯太はシートベルトをしめるとエンジンをかけた。
……会いたい、エレナに。
◇◇◇◇◇
「俺、野球チーム止めるんだ」
街の喧騒を意識し、隆也は少し大きめの声でエレナにそう言った。
エレナは驚いて隆也を見上げた。
「どうして?!」
「4月から、海外勤務が決まったんだ。勤務先はアメリカ」
「アメリカのどこ?」
「バークレー」
「そうなんだ。てことは、もしかして」
隆也は気恥ずかしそうに微笑んだ。
「来週、結婚式なんだ」
「きゃー!」
「ばか!叫ぶな」
「だって!嬉しくて!あ、ねえスマホ、ムービーモードにして!新婦にメッセージ贈るわ!」
隆也は信じられないといった風に眼を見開いた。
「いいのか!?仮にもハリウッド女優だろ」
「仮にもは、余分だっつーの!!早く」
「あ、うん。なあ、結婚式でそのメッセージ、流してもいいか?」
「もちろん!新婦の名前は?」
「優姫」
「オッケ!ユウキね!」
エレナは小さく咳払いすると、スマホを構えた隆也の正面に立った。
◇◇◇
楠木健斗は思わず両目を細めた。
いくら夜の六本木が明るくとも、ここからじゃ顔はよく見えない。
けど……。
一人の男性に軽くハグすると手を振って別れ、その女は信号待ちをしている健斗の乗ったタクシーの方に向かって歩いてきた。
あ……!
やはりエレナだ!!
「運転手さん、降ります!」
健斗は慌てて清算するとタクシーを降り、そのすぐ脇を通りすぎたエレナを背後から見つめた。
エレナ……相変わらずなんて綺麗なんだ。
ハリウッド映画『Agrippina』の日本公開PRの為、エレナが来日しているのを知ったのは、健斗が今朝、テレビをつけた時であった。
英語で映画の見所を生き生きと語るエレナを見た時、健斗は自分の胸の中に湧き起こる、言葉にしがたい感情に目眩がした。
俺がイマイチ女に本気になれないのは、エレナの存在があるからだ。
エレナほどイイ女はそういない。
姿形が美しい女なんて、山ほど出逢ってきた。
そんな女に言い寄られた事だって、数えきれない程ある。
健斗は、自他ともに認める『仕事の出来る男』だ。
見た目も悪くない。けれど。
エレナだけは、なびかなかった。
健斗に好意を寄せていたのは最初だけで、みるみる彼女の眼からはトキメキや憧れといった、恋に必須な項目が消え失せていった。
健斗はそんなエレナに苛立った。
俺のどこが不服なんだ。
仕事も出来るし、見た目も悪くない。
確かに神谷颯太には敵わない面もある。
けれど、先に出逢ったのは俺だ!!
俺に惚れて俺だけを見ていれば、神谷颯太になど眼がいかなかった筈だ。
健斗の心に憎しみが生まれた。
いや、前からそれを抱えていた。
その感情の名称を、認めたくなかっただけだ。
……許せない。
俺から神谷颯太に乗り換えたエレナが。
許せない!!許せるわけがない!!
……もう、付き合えなくてもいい。
結婚できなくてもいい。
俺を、エレナの心に刻み付けさえ出来れば。
健斗はエレナの均整の取れた後ろ姿を追いながら唇を引き上げた。
そうだ。エレナの心に。
健斗はフラフラと歩いて、エレナの後をゆっくりと追いかけた。
◇◇◇◇
エレナはタクシーに乗るのをやめ、 徒歩でミッドタウンを目指した。
良く考えるとそんなに飲んでないし、充分歩ける距離だ。
独りで歩いていると、つい颯太の事を考える。
もしかしたら会えるかもと思っていた。
けれど今日は空振り。
明後日には帰国。
エレナは、首をブンブンと振った。
……矛盾してる、私!
会いたいと言ってみたり、それを聞いた咲希や亜子を振り回したくせに、やっぱり会えないだなんて逃げようとしたり。
けど私ったら今また、来日中に颯太くんに会えるんじゃないかと期待している。
なんなの、グジグジして嫌になる。
時計を見ると午後十時。
エレナは六本木交差点を渡りきってから立ち止まった。
まだ早い。どうしよう。もう一杯飲んで帰ろっかな。
◇◇◇◇
あっ……!
高宮理恵は、六本木交差点で見知った顔とすれ違った気がした。
……城田エレナだ。
理恵は慌てて振り返ったが、エレナはまるで気づいていないようで、ゆっくりとした足取りで横断歩道を渡っている。
どうしよう、追いかけようか。
咄嗟に理恵はそう思った。
けれど。
あの激しい女の戦いに見事に敗北したというのに、何を今更という思いと、また別の思い。
理恵は公開初日の今日、映画『Agrippina』を観た。
見なければならないと思ったのだ。
映画の中のエレナは、誰がなんと言おうが最高だった。
その後、社内にあったアメリカのゴシップ雑誌にエレナの記事を見つけて、夢中で読んだ。
そこにはエレナが女優を志したきっかけがシェリル・シーマで、苦労しながらオーディションを受け続け、やっと彼女との共演を果たしたという記事が載っていた。
エレナは、二流役者などではなかったのだ。
愛する男と離れ、見事に夢をつかんだ城田エレナ。
きっと、簡単じゃなかったはずだ。
誰だって、愛する人と離れたくはないのだから。
高宮理恵はエレナに追い付こうと身を翻した。
その時である。
「エレナさん!」
エレナはビクッとして、弾かれたように顔をあげると辺りを見回した。
颯太くん?!
この国に自分をそう呼ぶのは彼しかいない。
エレナは夢中で視線を動かした。どこ?!どこ?!
「エレナさん!!」
声のした方向を夢中で見つめると、交差点のすぐ脇に一台の車が停車してあり、そのドアから一人の男性が姿を現すと、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
エレナは眼を見開くと口に手をあてがい、硬直した。
「エレナさん!」
ああ、颯太くん……!
それは、スーツ姿の颯太だった。
相変わらず背が高く、精悍な顔立ち。
「そう、た、くん……」
「会いたかった!」
颯太は僅かに眉を寄せてそう言うと、エレナを乱暴に引き寄せた。
ギュッと抱き締められて、エレナは颯太の匂いと温もりに心がじんわりと温かくなるのを感じた。
颯太は少し身を起こすと、エレナを見つめた。
「車に乗ってください。話がしたい」
エレナの返事も聞かず、颯太は彼女の腕を掴んで歩き出そうとした。
「あの、でも、」
「ダメです。来てください」
短く言うと、颯太はエレナを抱き上げた。
「きゃあっ、颯太くんっ」
「……」
エレナを抱き上げたまま大股で車に戻ると、颯太はエレナを助手席に押し込むように乗せた。
「きゃっ」
「ははは。すみません、急いでるんで。ここ、駐禁だし」
颯太はそう言うと、運転席からエレナを見つめて悪戯っぽく笑った。
◇◇◇◇
楠木健斗は、六本木交差点で呆然と立ち尽くした。
エレナを追い掛けてここまで来たが、交差点を渡りきってから声をかけようとした矢先に、神谷颯太が現れたのである。
ち……きしょう……。
けれど、どこか心の中でホッとした。
健斗は、雑踏に染まらぬ颯太の凛とした声を聞いて、冷静さを取り戻せたのだ。
闇に飛び込もうとしていた自分が、今更ながらに怖くなり、たまらず拳を握りしめた。
……俺の相手は、エレナじゃなかったんだ。
健斗は横断歩道を渡りきってから、大きめの声ではっきりと口に出した。
もう止めなければならないと思い、それを決心するために。
「さよなら、城田エレナ」
……え?
その声に、弾かれたように高宮理恵は真横の男を見つめた。
『さよなら、城田エレナ』
理恵は、神谷颯太と去っていくエレナを見つめていたのが、自分だけではなかった事に大変驚いたのだ。
穴の開くほど、そう呟いた綺麗な男の横顔を見つめる。
「どうして……?」
思わず口を突いて出た理恵の言葉に、フッと男がこちらを見た。
「……え……?」
「だって今、城田エレナって……私もあの、彼女を追い掛けてここまで……」
ふたりは暫くの間見つめ合った。
やがて、健斗がフワリと微笑んだ。
寂しそうで、けれど、どこかサッパリした潔い笑顔。
理恵は、そんな健斗の笑顔に言葉をなくして、ただ彼を見つめた。




