屈服の沈黙
「あり得ないですよぉ、先輩~!」
「仕方ないでしょ!神谷颯太自身がダメだって言ってるんだから!」
高宮理恵は丸の内のオフィス街を闊歩しながら、後輩の山瀬柚希に食って掛かった。
「何なんでしょう~?先日の接待、失敗だったんですかあ?」
「知らないわよっ」
理恵はイライラしていた。
神谷颯太の酒蔵、神谷酒造が上半期一番の出来だった酒を海外の日本酒品評会にエントリーすることが決まり、その密着取材を取り付けた矢先に断られたのだ。
口約束の段階で正式な契約を交わしたわけではなかったが、その一歩手前であった事は確かだ。
「あの超イケメン社長、神谷颯太はどうして心変わりしたんですかねぇ!?」
「どうでもいい!エナミコーポレーションの江波社長にアホ取ってるでしょうね!?」
「はい!抜かりはないですよぉっ!」
……心変わり。そんな理由、ひとつしかない。……城田エレナだ。
代官山の、ヴィンテージものを取り扱った服屋で城田エレナと話した次の日、理恵の携帯に神谷颯太自らが、取材を断ると電話してきたのだ。
柔らかいフワリとした漆黒の長い髪。品のいいカーブを描いた輪郭。通った鼻筋にアーモンド型の魅力的で大きな眼。
理恵は『Sou』で見たエレナと颯太を思い出すと、吐き気がした。
……許せない。
恵まれた姿形で、恵まれた男を自分のものにしようとしている傲慢で欲張りな女。
高宮理恵は街の騒々しさに紛れて、胸に芽生えていた気持ちを口に出した。
「あんたに神谷颯太は渡さないわよ」
身体にまとわり付く湿気の多い空気を蹴散らすように、理恵は尚も歩き続けた。
◇◇◇◇
「楠木先輩、本当にいいんですか?」
「……何がだよ」
楠木健斗は自主事業統括部の後輩、笹田をチラッと見ながら答えた。
誰もいなくなった広い売り場は、思いの外声が響く。
笹田は、日本酒フェア仕様にすっかり様変わりした売り場を眺めながら、健斗に眼を向けた。
「明日のゲストの二人ですよ。神谷酒造の社長、神谷颯太と、雅酒造の社長、雅丈一郎ですよ」
「それがなんだよ」
「ゲストとしてお招きしたいとしか、俺言ってないっすよ。
先輩ってば、今になって二人の対談を目玉にするなんて言うんですから!」
健斗は高い天井を仰いでニヤリと笑った。
「いいじゃないか。ジイサンの方はさておき、客は今をときめくイケメン社長、神谷颯太が目的なんだから。奴さえ会場で喋らせりゃ大成功なんだよ」
笹田は眉を寄せて首をかしげた。
「じゃあ、なんで雅丈一郎を呼んだんです?神谷颯太だけで良かったんじゃないすか?」
「いいからお前はもう上がれよ。日本酒フェアは、明日から2日間だ。気合い入れろよ」
……神谷颯太だけじゃ、ダメなんだよ。ヤツだけじゃ、ダメなんだ。
健斗は明日を思いながら唇を引き上げて笑った。
***
日曜日、午前8時。
千代田区にある星霜百貨店の東京店は、朝から長蛇の列であった。
若き実業家、神谷颯太を一目見ようと、20代から30代を中心とした女性が、日本酒フェアに詰めかけたのだ。
オフィス街からそう遠くない距離であったが、大きな混雑はなかった。
12時前、エレナは颯太に誘われ、タクシーに乗った。
「私、一緒に行っていいの?」
仕事なのに、私がいたら邪魔だと思うけど……。
エレナは戸惑いながら問いかけたが、颯太は口角をあげて口を開いた。
「今日は、百貨店の日本酒フェアに15分だけ出演したら、あとはフリーなんです。終わったら一緒に過ごしたい。会場で待っててください」
タクシーの中で手をしっかりと握られ、エレナは颯太を見上げた。
「インタビュー?」
「そうかも知れません。打ち合わせは無かったので。まあ、質問に答えるだけなんじゃないでしょうか」
「分かった。じゃあ、会場で見てるね」
タクシーを降り、東京店の前まで歩いていくと、
「神谷社長、本日はありがとうございます」
凛とした声で誰かが颯太を呼んだ。
「こちらでございます」
その時、颯太がエレナを振り返った。
「エレナさん、僕の出番が終わったら、ここで待っていてください」
エレナは軽く頷いた。
「分かった。じゃあ私、このままフェアの会場に行ってるね。頑張ってね」
颯太は係の女性と共に従業員通用口へと消えていき、エレナは百貨店の入り口に掲げてある『日本酒フェア6F』の文字を見つけてエスカレーターへ足を進めた。
◇◇◇◇
「対談ですか?」
颯太は僅かに眉をあげ、販売促進部の今岡と、営業1部のサブマネージャーを見つめた。
「急なことで申し訳ありませんが、この度の日本酒フェアは神谷酒造様と雅酒造様をツートップとして展開させていただいておりまして、雅酒造の雅丈一郎社長にもお越しいただいております」
颯太は今岡から視線を外すと、控え室の白い壁を見つめた。
……雅酒造の、雅丈一郎……。
颯太は、雅丈一郎の顔を思い出しながら考えた。
雅酒造は、都内の老舗蔵元だ。
彼は日本酒造組合の役員を務めていて……。
そう言えば確か書家としても大変有名で、自社の酒の銘柄は必ず雅丈一郎本人が筆を執ってラベルにすると聞いている。
雅丈一郎にとって颯太は、孫ほどの歳である。
「あの神谷社長…対談の件、よろしいでしょうか?」
良いも何も、この期に及んで断れない。
颯太はスッと立ち上がると、爽やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「僕は構いません。雅社長がいらっしゃるのなら、対談前にご挨拶をさせていただきたい。雅社長はどちらでしょう」
「あ……、はい、こちらです!」
今岡は、颯太の切り替えの早さ、無駄のない判断力を心の中で称揚しながらドアに近寄ると、彼を促した。
◇◇◇◇
「きゃーっ!やっぱめちゃくちゃ素敵っ!!」
「みて、あのスラッとした身体!魅力的よねー!」
会場が急にざわめき出して、エレナは夢中で背伸びをした。
するとエレナから20メートルほど離れた位置に、颯太と和装した年配の男性が現れ、特設ステージに上がると用意されていた椅子に腰掛けた。
二人の間の少し後ろに、司会役の女性が腰掛け、会場の客に向かって感謝の意を述べると、早速、二人の紹介から始めた。
「都内の有名老舗蔵元、雅酒造から、雅丈一郎社長がお越しくださいました!雅社長、本日はよろしくお願いいたします」
会場から割れんばかりの拍手が起こったが、雅丈一郎は唇を引き結び、会場をゆっくりと一瞥すると、言葉を発することなく押し黙っていた。
「そして、もう一方。こちらも他県ではありますが老舗蔵元、神谷酒造の若きプリンス、神谷颯太社長です!」
司会の女性がそう言い終わるや否や、
「きゃー!」
「素敵ー!」
などと言う女性の声が響き、エレナは驚いて辺りを見回した。
どの女性客もスマホを高く掲げ、颯太を撮影しようと必死である。
なに、アイドルみたいじゃん!
颯太は柔らかな微笑みを浮かべて立ち上がると、会場に向かって会釈し、その後、雅丈一郎に黙礼し、再び腰掛けた。
司会者は、雅酒造の蔵元としての揺るぎない人気ぶりを称賛し、質問を投げ掛けた。
「どう思われますか、雅社長。言わば雅酒造のお酒とはいい意味で真逆の商品を打ち出した神谷社長のご活躍を。わたくし個人といたしましては、日本酒というものを身近に感じることが出来たのですが」
柔らかで優しい司会者の声の後、重厚で威厳のある声が響いた。
「わたしは奇をてらうのが、何よりも好まん。そちらの酒瓶はまるで洋酒か海外のイベントごとに使う、飾り物のようだ。日本酒独特の伝統も文化も、なにもない」
会場が静まり返った。
雅丈一郎の眼は真っ直ぐに前を向いていて、隣の颯太を見てはいなかったが、その言葉は明らかに颯太の打ち出した商戦も新しい酒造りも、否定していた。
「なんでもそちらは、杜氏が女性ばかりとか」
雅丈一郎の言葉を聞いて、颯太はゆっくりと口を開いた。
「酒の種類によっては全て男杜氏です。ですが、特に女性に飲んで欲しい日本酒造りを任せているのは、女杜氏の皆さんです」
雅丈一郎は失笑した。
「女人禁制の蔵に女杜氏とは。全国にそのような蔵元があることは存じておるが、海外の日本酒品評会で賞をとった酒が、女が作ったものとは……日本酒も、落ちたものよ」
女性司会者は言葉を失い、硬直した。
颯太はそんな司会者に視線を向けると、まるで『大丈夫』というように優しく微笑んだ。
「失礼。青山さん」
颯太がステージの裾に視線を送ると、秘書の青山奏が、琉球ガラスのぐい飲みを乗せた盆を颯太に手渡した。
「雅社長。これはうちの女杜氏の皆さんが丹精込めて作った酒です。是非飲んでください」
雅丈一郎は、颯太の差し出したぐい飲みをチラリと見た。
「結構。先ほども申し上げた通り、わたしは奇をてらうのを好まん」
エレナは、無意識に両手をギュッと胸の前で握り締めた。
颯太が心配でならなかった。
颯太は、自分と雅丈一郎との間に置かれた小さな丸いテーブルに持っていた盆を置くと、柔かな口調で話し出した。
「奇をてらっては、良い酒など出来ません。それは雅社長と全く同感です。ですが僕は幼い頃から不思議だったんです。どうして杜氏は男だけで、蔵は女人禁制なのかと。はっきり言って僕は、根強く残る日本酒は男の飲み物だという雰囲気を壊したい。
……ある日、コンビニで一人の女性に出会いました。
彼女はしばらく日本酒を眺めていましたが、結局ワインを買って店から出た。僕は思わず追いかけて、日本酒を見つめていたのにそれを買わず、ワインを買った理由を尋ねました。すると彼女は言いました」
颯太はここまでいうと一旦言葉を切り、会場を見つめたが、再び口を開いた。
「彼女は、『飲んでみたいけど日本酒を買うのが恥ずかしい』そう言ったんです」
颯太は尚も続けた。
「ワインなら躊躇いなく買えるのに、日本酒は、恥ずかしい。買っている姿を見られたくない」
会場は、颯太の話を聞き逃すまいとでも言うように、静まり返ったままであった。
「僕はショックでしたが何も言えませんでした。なんとなく彼女の気持ちが分かったからです。ワインならお洒落な感じがしても、日本酒を飲むと言うと酒豪だとか、女らしくないと思われる。一升瓶は重いし、小さな瓶でもデザインが女性に好まれにくい」
会場にいる女性達の多くが、うんうんというように頷いていた。
「その内に思ったんです。女性達に是非とも日本酒の良さをわかってもらいたい。女性の視点から日本酒を見直したいと」
颯太がそこまで言ったとき、跳ね返すように雅丈一郎の声が響いた。
「昔からの伝統ある日本酒作りを壊すなどありえん」
「伝統を壊したいのではなく、新しい伝統の始まりにしたいのです」
颯太は真っ直ぐに雅丈一郎を見つめて続けた。
「僕は母親から生まれました。 母親の料理で育ちました。
杜氏だって、女性から生まれた。酒だって同じです。
母なる大地から水が生まれ、母なる大地で酒米が育つ。なら、女性が杜氏で何が悪い、そう思ったんです。
僕は、女性にも日本酒の良さを分かっていただきたい。女性にも日本酒を思いきり楽しんでもらいたいんです。
賛否両論あると思いますが、これが僕の率直な思いです」
颯太がここまで言うと、パチンと会場から拍手が聞こえた。
それがみるみる大きくなり、拍手に女性の黄色い声が混ざる。
「なに、外見も素敵だけど、中身もめちゃくちゃかっこいーんだけど」
「だめ、もう痺れるー!」
またしてもスマホを掲げて、皆が颯太を撮影し始めた。
その時、雅丈一郎がゆっくりと立ち上がった。
会場が再び静まり、雅丈一郎の威厳に満ちた声が響く。
「神谷社長、あなたはおいくつかな?」
「前月、24歳になりました」
颯太がそう答えると、雅丈一郎は鋭い眼差しを向けて暫く黙りこんだままであったが、やがて深い溜め息をついた。
「……わたしがあなたの年の頃を思い返してみたが、恥ずかしい思い出ばかりだ」
それから小さく息をついた後、眼差しを柔かなものに変えて僅かに笑った。
「羨ましいと思うわたしの気持ちが、少しあなたに意地悪をしてしまったが、あなたが飾ることなく素直な思いを口にしているのがとても眩しくもあり、また、非常に嬉しく思った。
是非、新しい伝統を作ってもらいたい。わたしの若い頃には絶対にできなかった事を」
颯太は雅丈一郎に深々と頭を下げた。
雅丈一郎は、続けた。
「先程、あなたの酒をお断りしてしまったが、実は、控え室で既に頂いたんだよ。こんなに甘く、果実のような味わいの日本酒は初めてでね。美味くて美味くて、飲み過ぎたものだから遠慮したんだが、やっぱりもう一杯、いただこうか」
雅丈一郎が、威厳のある表情を崩し、いたずらっぽい眼差しを会場に向けると、柔らかい笑い声が室内に溢れた。
颯太は感動を隠せない表情で雅丈一郎にぐい飲みを差し出した。
「うん、美味い。わたしの無礼を許していただけるかな?」
「無礼などとは……とんでもございません。
雅社長。……実は、僕が最初に飲んだ日本酒は、雅酒造の『雅』なんです。反抗ばかりしていた出来損ないの僕は、実家の酒を素直に飲めなかったんです。けれど『雅』を飲まなかったら、僕は稼業を継いでなかったかもしれません。日本酒の美味さに気付けたのは雅酒造様のお陰です」
雅丈一郎は驚いていたが、その後に満面の笑みで颯太を見た。
「嬉しい事を言ってくださる。
では、そのお返しといってはなんだが……サインをいただけるかな?実は孫娘があなたのファンなんだ。
今日も本当は『神谷さんに意地悪をしたら嫌だからね』と釘を刺されていたんだが……あなたの心意を聞きたいがゆえに少々いきすぎてしまって申し訳ない。孫娘にも怒られてしまうかもな」
会場が一気に和み、笑い声に包まれた。
そして、あっという間に15分が過ぎたが、誰もそれに気づいてはいなかった。
◇◇◇◇◇
「先輩、大成功っすね!
いやあ、さすが楠木先輩っす!俺、最初はどうなることかとハラハラしたんっすよ!だって、雅丈一郎はお堅い杜氏上がりの老舗蔵元だし、神谷社長は今風イケメン社長だし。水と油って感じの二人だから、正直俺、対談なんて上手くいきっこないと思ってたんっすよ。それがどうですか!俺、感動しました。俺も、楠木先輩みたいなカリスマバイヤー目指して頑張ります!」
「……誉めても何も出ねーかんな。……もう行け。後で神谷酒造と交渉しとけよ。お前に任せるから」
「はいっ!」
嬉しそうに身を翻した笹田の背中を見つめながら、健斗は唇を噛み締めて立ち尽くした。
ちきしょう!!!
日本酒界のドンといわれる雅丈一郎を神谷颯太に引き会わせ、あいつを雅丈一郎に批判させて恥をかかせ、完膚なきまでに叩きのめす筈だったのに!
俺からエレナを奪った報いを受けさせるつもりだったのに!
それがどうだ。
会場の客はおろか、雅丈一郎本人をあれよあれよという間に魅了し、結局は、神谷酒造だけでなく神谷颯太本人の株を更にあげるという結果に終わってしまった。
健斗は、会場での颯太の姿を思い返した。
満員の会場でテレビカメラを前にし、動じることなく周りの人間の心を一瞬で鷲掴みにし、懐柔してしまう24歳の若き社長、神谷颯太。
その時である。
「楠木先輩!神谷社長がお帰りなんですが、この度の出演および新たな契約について、一言先輩にお礼をと」
健斗は、弾かれたようにオフィスの出入り口を振り返った。
自主事業統括部は全ての人間が出払い健斗ひとりであったが、笹田が顔を輝かせて声を響かせたあと、神谷颯太が姿を現した。
颯太は健斗に眼を止め、切れ長の眼を一瞬見開いた。
笹田が続ける。
「神谷社長、今回のフェアはこの、楠木健斗の発案なんです。僕は契約を任されただけで」
健斗を静かに見ていた颯太が、白い歯を見せて笑った。
「そうでしたか。
……楠木さん、この度は大変有意義な時間を有り難うございました。これからも神谷酒造をよろしくお願いします」
健斗は、自分に笑いかけながら頭を下げた颯太をただ見つめた。
……この眼は、全て解ってる眼だ。
こいつはきっと、あの日ショットバー『Sou』で、エレナに悪態をついたのが俺だと覚えている。
そしてきっとこの男は、俺の計画を解ってる。
なのに。
健斗は悟った。
違うのだ、俺とは器が。
健斗は唇を引き結んでいたが、やがて深々と頭を下げた。何も言えなかった。
無言で頭を下げ、彼に屈服するしかなかった。




