愛してる
エレナは柔らかくて固くて、それでいて温かいものに包まれて目覚めた。
ゆっくりと眼を開けると、目線より少しだけ上に颯太の寝顔があった。
閉じた眼と、軽く結ばれた唇。そこから聞こえる穏やかな寝息。自分に回された逞しい腕。
嬉しくてフワリと浮くような感覚。
エレナは颯太にすり寄ると、彼の首筋に口付けた。
……ん……?
颯太は首筋にしっとりと軟らかい感覚がして、眼を開けた。
「エレナさん…おはようございます」
「ごめん、私、昨日話してるうちに眠っちゃったみたいで」
颯太はクスッと笑うとエレナの髪を撫でながら言った。
「…可愛かったから、許します」
そう言った後に、眉を寄せてジッと考え込んだエレナを見て首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「眠っちゃったのがどうして可愛いのかなって」
マジか。そんな事、分からないのか?
……俺の腕の中でクタリとしているだけでも、可愛い。
抱き上げて寝室に運ぶ時に、俺にしがみついたのも。
頬にキスすると、幸せそうに微笑んだ顔。
「エレナさんは分からなくていいことです」
颯太はそう言うと、エレナの頭に手を回して自分の胸にトンと押し付けた。
「もう少しこのままでもいい?」
エレナが颯太の背中に腕を回しながら聞いた。
「……いいですよ。ちょっと拷問みたいですけど……」
「拷問?重い?」
「そうじゃないです」
颯太はエレナを甘く睨んだ。
「好きな女性とこんな風にベッドで密接してるのに、これ以上先に進まないままいるなんて拷問だって意味です」
「……っ」
エレナが咄嗟に離れようと身を離した瞬間、颯太の両腕に力がこもった。
顔を赤くして狼狽えているエレナを見て、颯太は優しく笑った。
「前にも言いましたが、あなたが僕に抱かれたいと思うまで待ちます」
そこまで言ってから、颯太はニヤリと笑った。
「抱いて、颯太くん。……て、こんな感じで甘ったるく言ってくだ」
「ばかっ!似てないし」
エレナは、カアッと赤くなった。
颯太はそんなエレナを見ていたが、
「だめだ、我慢できないのでキスはします」
「……っ」
……また酔う、凄く……。
二人は夢中でキスをした。
◇◇◇
結局その日は激しい雨が一日中降り続き、二人はどこにも出掛けず部屋の中でのんびりと過ごした。
お互いを知るのに丁度よかった。
「私、朝食作ってあげる」
「ほんとですか?!」
「待ってて」
エレナは斜めから颯太を見上げるとニヤッと笑った。
食材はこの間買ったから、大丈夫!
エレナは颯太の頬にキスすると、ベッドから出てキッチンへ向かった。
しばらくベッドの中でエレナの温もりの余韻を感じていたが、颯太は嬉しくて勢いよく体勢を変えた。
……やった。こんなに早く、エレナが俺に料理を作りたいと思うなんて。
颯太はベッドの中で思わず笑みをこぼした。
……でも。馴れてないキッチンだし、手伝うか。
颯太はベッドの脇にひっかけていたシャツを手早く着ると、寝室のノブに手をかけた。
キッチンへ近づくにつれて、エレナの独り言が聞こえてくる。
……独り言は英語なんだな。そりゃそうか。日本語は流暢に話すが、彼女はアメリカ人だ。
そういやこの間店に来たときも、散々英語で悪態をついていた。
……多分エージェントの社員の、ジョーイにだ。
微笑ましく思いながら、ペラペラと英語で話し続けるエレナをみていたが、やがてフライパンから煙が上がり焦げ臭いにおいが広がった。
「エレナさん、焦げてます」
颯太の姿を捉え、エレナは、
「えっ?!……Oh my god!」
エレナが実にアメリカ人らしい言葉とリアクションであったから、颯太はゲラゲラと笑った。
近づいてフライパンの中でカピカピになった目玉焼きを見たら、我慢できなくなって更に笑った。
「目玉焼きは焦げちゃったけど、お味噌汁は成功したわよ」
エレナはそう言うと、フライパンの中の目玉焼きに「bye」といい、味噌汁をひとすくいすると、小さな器に入れて颯太に手渡した。
「味見して!」
「じゃあ」
颯太は渡された器に口をつけるとコクンと飲んだ。
「どう?」
エレナの、自信に溢れた瞳。
………どうしよう、不味い。本当に味噌汁なんだろうか。
颯太は慎重に問いかけた。
「エレナさん……飲んでみましたか?」
「飲んでないけど」
不味い。驚くほど不味い。
颯太は笑いが込み上げるのを必死で押さえながら言った。
「飲んでみてください」
言いながら自分の持っている器に味噌汁を注いで、エレナに渡す。
「…………まずっ!!」
日本語でそう言った後に英語で小さく呟くと、エレナはガックリと項垂れた。
颯太は弾けるように笑った。
「料理、苦手なんですか?」
「お味噌汁を作ったのは、人生で初めて」
「出汁は入れましたか?ここに顆粒の出汁があります。それと味噌はどれくらい入れましたか?なんだかお湯みたいですけど」
「…………」
エレナは眼を閉じて、微動だにしない。まるで修行僧のようだ。
……この様子じゃ出汁は入ってないし味噌もティースプーンに一杯程度か。
颯太はそんなエレナが可笑しくて我慢できず、天井を仰いでゲラゲラと笑った。
「笑いすぎ!」
真っ赤になってこちらを睨むエレナの腰を抱き寄せて、颯太は彼女の眼を覗き込んだ。
「大丈夫です、エレナさん。出汁と味噌を足せば。……目玉焼きは僕が作ります。今度はハムエッグにしましょう」
「フライパンの中、よーく見て」
「なんですか?」
「あの強烈に黒焦げの部分あるでしょ?あそこがハムだったの」
「えっ?!フッ!!」
エレナの真顔が妙におかしくて、颯太は堪えきれずに大爆笑した。
「……そんなに可笑しくない!」
ツンと横を向いたエレナを颯太は思わず抱き締めた。
「もうっ、離して!今度は慎重にやるわよ。
そういやパンもやかないと!」
「待ってください。その前に」
「ちょっとっ…………」
エレナの動きを颯太のキスが止めた。
雨はより激しく降り雷が聞こえ始めたが、気にならなかった。
幸せだと思った。
◇◇◇
「颯太くん、趣味はなに?」
朝食後、エレナは颯太と後片付けをしながら問いかけた。
颯太は食洗機をドライにセットし、スタートボタンを押した後にエレナを見た。
「趣味ですか?野球です。僕、野球チーム作ってるんです」
「へえー!私も野球は好き!昔、ニューヨークに住んでた頃はヤンキースの試合をよく観に行ったよ」
「エレナさんの趣味はなんですか?」
エレナはニヤリと笑った。
「料理」
「フッ!目玉焼きを焦がすのが趣味ですか?」
「……暇なときに勉強するよ」
エレナがチラッと颯太を見た。
「……それは……僕のためですか?」
「…帰国するまでお世話になるし……」
颯太はクスクスと笑った。
「なに!」
エレナは、颯太の意味深な笑いに胸がザワザワし、キッと彼を見つめた。
「何だか少しずつ僕達の距離、縮まってきましたよね」
「……」
そうだね嬉しい。とか、私は言えるタイプじゃないんだからそんな質問しないでよ。
エレナは決まり悪くて横を向いた。
「さあ」
そんなエレナを見て颯太が眉を寄せた。
「どうしよう、興奮してきました」
「なに?」
綺麗な口元を片手で覆いながら、颯太は視線を落とした。
「ツン!としたエレナさんも好きですけど、僕の前でだけ、猫みたいにニャアニャア甘えるエレナさんも見てみ」
「ばかっ!」
「ってっ!」
私、十代みたいじゃん!
颯太は顔を赤くしたエレナを見てしばらく笑っていた。
◇◇◇◇
次の日、エレナが起きると颯太は既に居なかった。
ダイニングテーブルには朝食と書き置きがあった。
それには、夕食を兼ねての打合せがあり帰宅が遅くなる旨が書かれていた。
今日は私も昼間は咲希の店へ行って、その後は亜子も合流してから飲みに行く予定なんだよね。
エレナは運動後シャワーを浴びると、身支度をしてマンションを出た。
「エレナ、これに着替えて店に立ってて」
「えーっ!タダ働き!?」
「当たり前でしょ!法律は守らなきゃ」
なにそれ。
メトロに乗って恵比寿駅で降りると、エレナは代官山の咲希の店まで散歩がてら歩いて行った。
「あんたは立ってるだけでいいのよ、ね」
「はいはい」
「うん、さすがー!あんたが着るとただでさえお洒落なトップスがやたらと素敵に見えるわ。20枚仕入れてるから、今日中に売っちゃおう!」
「ちゃっかりしてるわね!」
エレナは、ガラス張りの店内からふと外に眼をやった。
その時、背の高いスラリとした女性と眼が合い、ガラスの向こうの彼女が立ち止まった。
口をわずかに開き、エレナを凝視している。
耳を見せた、ショートヘアのこの女性は確か……。
女性は僅かに会釈すると店内へ入ってきて、エレナに眼を止めて微笑んだ。
「こんにちは。高宮理恵です」
颯太の店に来た、出版社の女性だ。
「こんにちは」
エレナが小さく頭を下げると、理恵はエレナの全身を素早く一瞥して唇だけを引き上げた。
「こんなに素敵なエレナさんがお店にいると、更に売り上げ上がりそうですね」
「彼女、アメリカで女優をしてるんですよ。今は休暇中なんです」
近寄ってきた咲希が笑顔でそう言うと、理恵は咲希に向き直って即答した。
「存じ上げてます」
……え?
理恵は更に続けた。
「颯太さん……失礼。神谷さんに以前頼まれ事をした際に、伺いましたわ」
……どう言うこと?
エレナの戸惑いを察知し、咲希は微笑みを絶やすことなく理恵を見つめた。
「今エレナが着ているトップスはイタリア製で世界に50枚しかないんです。最近有名ブランドから独立した若きデザイナーのものなんですよ。如何ですか?」
「素敵ですね!……ゆっくり商品を見て回りたいところなんですけど、外回りの途中でして……早く社に戻らないと、夜からの打ち合わせに間に合わなくなるので」
「あら残念!お忙しいんですね」
「まあ、夜の打ち合わせは半分デートみたいなものですけど」
理恵はそう言うと、ニッコリと笑った。
「いいですね、デート!今晩、私達は女子会です」
「女子会も私は好きですよ。……では、そろそろ失礼します」
理恵は頭を下げるとエレナを真っ直ぐ見つめ、踵を返した。
「……なーに、あの女狐タイプの女は」
エレナはホッと息をついて、咲希を見た。
「文芸清輝の高宮理恵さん。 このあいだ『Sou』で会ったの。颯太くんに会いに来てた」
「あー、NEEDの出版社ね。けどさ」
咲希は眉を寄せて空を睨んだ。
「計算高い女よ、あれ!わざわざ『颯太さん』なんて。言い直すところも演技っぽい!」
演技。だとすれば、なんと安っぽい演技なんだろう。
「店長ー、お電話ですー」
「はーい、すぐ行きます!エレナ、しっかり売るのよ」
「なによ、全くっ」
◇◇◇
『かんぱーいっ』
赤坂にある咲希お薦めの全席完全個室の居酒屋で、咲希とエレナ、亜子はそれぞれのグラスを高く持ち上げ、グイッと傾けてから笑い合った。
「あー、うまいっ!今日は飲むぞ~!」
亜子が声高に宣言し、エレナは眉をあげた。
「飲んでいいの!?母乳でしょ?」
亜子は眉を寄せて首を振りながら答えた。
「母乳、半年で出なくなっちゃった」
「じゃ、旦那がみてるの?」
「ううん、実家に預けてる。旦那は出張。だから私も今日は実家に泊まる」
「双子も大変ねー」
「まあね。けど、一度にすむし。子供は二人でいいし」
「そっかあ」
「それよりさ、咲希から聞いたわよ!エレナ、神谷颯太の家に住んでるんだって?!」
亜子がキラキラした眼でエレナを見つめた。
「もう寝たの!?」
「キスはしたけど、セックスはしてない」
「なんでしないのよ?彼、素敵じゃない!」
「けど年下なんだよね」
「エレナ……」
咲希が思いきり溜め息をついた。
「アタシ、ケイレブが憎い。エレナにこんな傷を残したケイレブが憎くてたまらない」
エレナはちょっと笑った。
「お互いに若かったんだよね、多分。けど、もう怖くて。男が怖いと言うよりは、年下が、怖いの」
「けどさ、年下が全員ケイレブみたいな訳じゃないよ」
「それも頭では分かってるの。でも信用できなくなっちゃって……。常に疑ったり不安になっちゃう自分が嫌なの。撮影中イライラしてたら仕事にならないし」
「……会いに行きなよ!」
亜子が真っ直ぐにエレナを見た。
「誰に?」
「ケイレブよ!ケイレブと話して自分の気持ちに決着をつけない限り、エレナの心の傷は消えないと思う」
何度もそうしようと思った。けど、やっぱり怖かった。
一緒に暮らしていた部屋に憎しみを置いて立ち去った相手に、エレナは怯えているのだ。
恋人だったのに。愛し合っていたのに。
いや、愛し合っていたと思っていたのは自分だけだったのか。
だとしたら、どんなに恐ろしい事だろう。
ある日突然捨てられたら。
あの苦しみを、もう味わいたくない。
今度捨てられたら、私はもう耐えられない。
「暗い話はここまで!さあ、飲むわよ!」
「ほんとほんと!私の話よりさ、二人はどうなのよ?」
エレナは咲希と亜子を交互に見ると、グイッと生ビールを飲んで笑った。
◇◇◇◇
二時間後、店を出て通りをフラフラと三人で歩きながら、
「飲み足らないー!」
「次行こ、次!」
「テキーラ飲まない?!久しぶりに」
「明日仕事だから、一杯だけ!けどストレートはダメ」
「Ok! Let's shotgun!!」
「取り敢えずタクシー拾って六本木に移動する?
あ!例の店行く?久しぶりに」
「じゃあ、東京タワー方面攻めるわよ!」
「六本木でストップ」
あー、もう全員出来上がりつつあるんだけど。
結局三人は六本木のバーでショットガンを三杯ずつ飲み、店を出た。
「ちょっと、あれ見て!」
店からしばらく歩いた時、咲希が声を潜めてエレナの腕を掴んだ。
「なによ、びっくりするじゃない!」
「え、なになに?イケメンでも見つけた!?」
亜子がグイッと背伸びをして、人混みを避けるようにしながら咲希の指す方向を見つめた。
「神谷颯太が、昼間店に来た出版社の女といるわよ」
え?
エレナはドキンとし、僅かに眼を細めて集中した。
あ……!
咲希の人差し指の先を必死で追い、颯太の良く目立つスラリとした身体を見つけた。
颯太と向かい合う形で立っていたのは紛れもなく高宮理恵で、エレナは早鐘のような心臓に思わず手を当てた。
反射的に腕時計を見て時間を確認する。午前零時五分。
歩道の端で向かい合い、背の高い颯太を一心に見上げて何か話している高宮理恵は、まるで颯太に愛を告げているみたいだった。
颯太はそんな理恵を見つめながら頷き、優しく微笑んでいる。
その時、通りすぎようとした男性の肩が理恵に当たり、理恵は颯太の胸にヨロリともたれ掛かかった。
颯太がそんな理恵を覗き込みながら、彼女の肩に両腕を置くのが見えた。
「やだ、なにあれ!?抱きついてんの!?わざとらしいーっ!」
亜子が叫んだ。
「あーゆー女、大嫌いっ!踏ん張れないならヒールなんかでウロウロすんじゃねぇ!」
「エレナ行くよ!ああいうのは見ない見ない!」
「もう見ちゃったわよ」
言いながらエレナは踵を返した。
口調は軽かったが、胸の中に泥を詰められたような感覚に恐怖を覚えた。
密接した二人は、それからどうしたのだろう。
抱き合ったの?キスしたの?
「……ごめん、私、今日はもう帰るわ」
エレナがそう言うと、亜子と咲希が眉を寄せた。
「ちょっと、大丈夫?!」
「私の家、来る?」
エレナは笑った。
「平気。部屋帰ったらすぐ寝ちゃいそうなほど眠いし」
咲希がエレナにハグしながら言った。
「きっと何もないって!あの女が舞い上がってるだけだよ」
「アタシもそう思う!」
「ありがと。明日連絡するわ」
「わかった……じゃあね」
信じようとした矢先に、これはへこむ。
昨日の颯太との会話の数々や、キスを思い出すと胸が苦しくて苦しくて、エレナは自分の回りの酸素が無くなったんじゃないかと思うくらいであった。
……やめよう。
どうせ一ヶ月でアメリカに帰る。
離ればなれの恋愛なんて絶対ダメになるし、それなら最初からしない方がいい。
エレナはクッと顔をあげると一度立ち止まった。
この足を踏み出したら、振り向かないと決心しよう。
エレナは胸を張ると大きく一歩踏み出した。
私には夢がある。ドラマのメインキャストに選ばれる事。いつか映画でシェリル・シーマと共演する事。
恋愛なんてどうでもいい。
エレナは星の分からない空を仰いだ。
◇◇◇◇
「……エレナさん?」
颯太は帰宅して手早くシャワーを浴びた後、エレナの部屋のドアの前で小さく名前を呼んだ。
……今日は朝から話してないし、顔が一目見たかった。
出来れば話したいし抱き締めてキスだってしたい。
「エレナさん……?」
コンシェルジュの話ではエレナが帰宅したのは颯太が帰る15分ほど前だと言うし、まだ寝てない可能性もある。
颯太はそっとドアを開けた。
途端、ベッドの上で両膝を抱えるようにして座っているエレナを見つけた。
エレナは部屋着で濡れた髪を束ねもせず、テレビの画面を食い入るように見つめている。
「……すみません、お疲れのところを」
「……颯太くんこそ遅くまでご苦労様。疲れてるんじゃない?」
「いえ、僕は」
言いかけた颯太の横をすり抜け、エレナは部屋から出ていった。
……なんだ?
「エレナさん?」
「…………」
エレナは唇を噛み締めた。何食わぬ顔で私と話すの?
それとも、高宮理恵さんとは本当に何もないの?
追いかけてきてくれたのが嬉しい。
けど上手く言いくるめる為だとしたら?
ああ!こうなる自分がたまらなく嫌なのよ!
誰か助けて!もうダメだ。恐い。裏切られるのは、もう嫌!!
この気持ちを胸に留めておけるほど、私は大人じゃない。
「待ってください、エレナさん」
リビングのドアを開けたところで颯太に腕を掴まれ、エレナは立ち止まった。
持たれた腕が熱く、鼓動が跳ねる。
「こっちを向いてください」
「……」
声が掠れたのは、帰り際に三杯飲んだショットガンのせいか、今から颯太に問わなければならないせいなのか。
「何があったんですか?」
「別になんにもないよ」
声が上ずって眉を寄せると、エレナの眼から涙がこぼれた。
勢い良く振り向いたエレナの顔を見て颯太は息を飲み、すぐにエレナを胸に抱いた。
「……離して」
乾ききっていないエレナの髪に頬を寄せて、颯太は切な気な声で言った。
「嫌です。好きな女性が泣いてるのに、抱き締めないなんて男じゃない」
エレナは頬に颯太の固い胸を感じて、胸が軋んだ。
抱き締められているのに、それは幸せな行為の筈なのに、苦しい。
問い詰めないと、これ以上深入りしないと決心したのに、どうやらそれを守れそうにない。
ああ!なんて私は弱いのだろう!
「……今日、代官山の咲希のショップに高宮理恵さんが来たわ」
「エレナさん」
「夜から打ち合わせがあるって言ってた」
「エレナさん」
颯太が首を振りながらエレナの名を呼んだ。
「半分デートみたいなものだって。彼女、颯太くんが好きなんだね」
「聞いてくださいエレナさん。彼女とはそんなんじゃないです」
「……六本木で見たよ。彼女とすごく……」
颯太は体を少し離し、エレナの瞳を覗き込んだ。
「あなたは誤解してる」
「いいの」
「僕が好きなのはあなただけです」
「……離して、颯太くん」
「嫌です、離さない」
「私、ダメなの。年下の男の子とは、やっぱり無理。
……ああいうところを見ただけで不安になるし、恐い。裏切られてるのかと疑っちゃう。そんな自分が嫌なの」
エレナは、ポツポツと続けた。
「……颯太くんは凄く素敵。私ね、再会してから颯太くんの事、好きになりかけてた。最初は見た目がタイプなだけだと思ってたけど多分そうじゃなくて、颯太くんの中身も含めて好きになっていったんだと思う」
エレナがそこまで言った時、颯太が再び彼女をきつく抱き締めた。
「不安にさせてすみませんでした」
「颯太く……」
「高宮さんとは次の対談の打ち合わせをしただけです。海外で開かれる日本酒の品評会の密着取材を申し込まれて……。六本木の歩道で彼女といたのは、もう一人の編集者さんが会計をし終わるのを待ってたんです。その時に彼女がよろけたのを抱き止めただけで、他の理由はありません」
「……」
「エレナさん、本当です」
身をよじって見上げると、エレナは颯太の真っ直ぐな眼差しを見つけた。
……多分嘘じゃない。
エレナは眼を閉じて颯太の体に身を預けた。
「ごめん」
エレナはかすれた声で呟くように言った。
「今、嬉しかったです」
「え?」
「僕の見た目が好きですか?」
「……」
「僕の中身も好きですか?」
「……うん」
消え入りそうな声でエレナが答えた時、颯太の大きな手がエレナの頬を包んだ。
「あなたを泣かせてしまったのは本意ではありませんが、あなたの気持ちを聞けたのは凄く嬉しいです。エレナさん愛してる、心から」
「心から……?」
「六年前、雑居ビルで出会った時、僕はあなたに惚れました。
あんな風に言ってくれたのはあなただけです。
反抗ばかりしていた僕に親に感謝する気持ちを諭してくれたのも、人はちゃんとしなくちゃならないとハッキリ叱ってくれたのも、あなただけです」
「……恥ずかしい……」
颯太は首を振りながらエレナをしっかり見つめた。
「今の僕がいるのは、あなたのお陰です」
エレナはちょっと笑った。
「あの時の颯太くんは、凄く生意気だった」
颯太は、白い歯を見せて笑った。
「あの時のあなたは今と変わらない。とても素敵です」
「ちっとも素敵じゃないよ。まだ何も成し遂げてない」
「僕には分かります。あなたは絶対今よりも凄い女優になる。僕は信じてます。一ヶ月したらあなたはアメリカに帰る。エージェントからいい話が入るともっと早く帰ってしまうかも知れない。けどそれまで僕はあなたといたい」
ああ、私は。
心の中に陽が射しこみ、固く閉じていた蕾が花開くような感覚に、エレナは力が抜けていくのを感じた。
「私も、颯太くんといたい」
お互いに見つめ合っていたが先に眼をそらしたのはエレナで、彼女は颯太の首に両腕を絡めて彼の耳に唇を寄せた。
「颯太くん…抱いて」
「エレナ」
◇◇◇◇
颯太は穏やかな波のように動いた。
何度も名を呼び合い、互いに愛を告げながら二人は融け合うように抱き合った。
「エレナ、エレナ」
自分の上で息を乱した颯太の身体が大きくて熱く、エレナはその存在を頼もしく思いながら彼の瞳を見つめた。
「颯太くん」
筋肉の張った逞しい腕。
「私の事、離さないで」
「離さない、愛してるエレナ」
時間が止まればいいと、互いに強く思った。




