恋の味
午後七時にエレナは『Sou』に着いた。
開店したばかりだったが、すでに客が入っていた。
店には颯太から連絡が入っていた為、エレナはカウンターの端に案内されコーヒーを出された。
「いらっしゃいませ」
暫く経った頃、カツカツとヒールを鳴らし一人の女性がカウンターテーブルに近付いてきて、
「神谷颯太さんは今晩、ここにおいでになるのかしら?」
……颯太くん……?
エレナは思わずその女性を見た。
エレナとは対称的な、耳を見せたショートヘア。
きびきびとした口調で黒のスーツを格好良く着こなしている、細身の女性。
「社長なら多分もうすぐ」
バーテンダーが答えかけた時、
「エレナさん」
スタッフ専用の入り口からバックヤードをつっきり、フロアに入った颯太の声が響いた。
颯太は軽く頭を下げながらショートヘアの女性の後ろを通りすぎ、エレナの隣に立つと白い歯を見せた。
「お待たせしましたエレナさん。食べたいものは決まりましたか?」
エレナは立ち上がって颯太を見たが、彼の背後に見えるショートヘアの女性に気を取られた。
彼女の、見開かれた眼。小さく開いた口。
「あの、」
「神谷さん!」
女性がエレナの声を遮り、颯太が反射的に振り向いた。
「あ……高宮さん!すみません、気付かなくて。いらっしゃいませ」
高宮と呼ばれた女性は、数歩歩いて颯太とエレナの傍に立った。
「エレナさん、こちらは高宮さんです。以前お世話になった出版社の方です」
颯太が紹介すると、
「初めまして。わたくし、文芸清輝の高宮理恵と申します」
彼女は会釈してから品良く微笑んだ。
「城田エレナです」
エレナがペコリと頭を下げると、理恵は颯太に向き直り彼を見上げた。
「神谷さん。先日のお話なんですが、何とかよいお返事をいただきたくて。アポなしですみません」
颯太は一瞬唇を引き結んだが、すぐに儀礼的に微笑んで理恵を見た。
「すみません高宮さん。また日を改めてお話ししましょう」
「ごめんなさい、突然きてしまって。ではまた近いうちに」
「行きましょうエレナさん。高宮さん、失礼します」
「ええ。ではまた近々」
颯太はエレナの手を握り、店の外へ出た。
「何が食べたいですか?」
エレナは颯太を見上げて言った。
「食べ物は颯太くんに任せる。私は颯太くんのご実家のお酒が飲みたい。今日は冷酒がいいな」
颯太は眉をあげて身を屈めると、エレナの瞳を覗き込んだ。
「では食材を買って、料理しながら家で飲みますか?冷蔵庫に酒が冷えてますから」
エレナは微笑んだ。
◇◇◇
「エレナさんにはマネージャーさんはいないんですか?」
颯太がキッチンに立ちながら、隣のエレナをチラリと見た。
颯太の問いに、エレナは首を振った。
「マネージャー契約はしてないの。そんなに忙しくないし。私はエージェントと契約してるだけ。もし合う仕事の話が来たらエージェントから連絡が入るの。オーディションを受けて出演が決まれば、出演料から決められたパーセンテージのお金をエージェントに支払う仕組み。つまりエージェントとマネージメント会社は別なの」
「日本にいる間にオーディションの話が来たらどうするんですか?」
「ははは。急いで帰る。……出来るだけ早めに連絡してもらうように頼んでるんだけどね」
「日本にはいつも一ヶ月間の滞在なんですか?」
「うん。私、日本が好きなの。母の母国だし。前回は母と来たのよ」
颯太は生ハムを皿に取りながら、さりげなく聞いた。
「あの、健斗という男性とは……その」
エレナは颯太を見上げた。
「……気になる?」
「付き合ってたんですか?」
「……いいなと思ったのは確か。でも、付き合うまでいってない」
颯太は、胸が焦げる思いがした。
初めて店に来たエレナを見たのは確か半年前だった。
六年ぶりに見たエレナは相変わらず美しく、すぐに分かった。
エレナは、健斗という男に肩を抱かれながら店の中央のテーブルについていた。
健斗は、美しいエレナといるのがよほど誇らしかったのか、しきりと辺りを見回して他の客の反応を見ていた。
それからあと一度、ふたりで来たのを最後に、エレナは来なくなった。
ただ健斗だけが度々来ては、カウンターのバーテンダーにエレナが来店したかどうかを確認していた。
エレナが来たらすぐに連絡がほしいと、健斗が携帯番号をバーテンダーに渡したという報告が颯太の耳に入っていた。
勿論、エレナが来店してもバーテンダーが健斗に連絡することはなかったが。
また颯太も、あれ以来エレナとは会えずにいた。
エレナは物憂げな眼差しで呟くように言った。
「彼は……私の中身なんかどうでもいい感じで……私もなんか彼とは合わないなって」
エレナは俯いた。
落ちた視線の先には、琉球硝子の酒器がライトを反射して光っていて、エレナはそれを手に取ると唇に運んだ。
「美味しい」
「よかったです」
「颯太くんの、彼女いない歴は?」
アーモンド型の綺麗な眼が颯太を捉える。
颯太は一瞬躊躇した。
「……あの時からいません。六年前から」
「……そう」
もしかして、それって……。いや、よそう。
彼は年下だ。期待できない。
「さあ、もっと飲んでください」
「うん、ありがと」
二人はそれ以上、その話に触れなかった。
***
「いやーん、運命感じちゃうー!」
ヨーロッパから帰国した咲希は、カフェの賑わいに乗じて叫んだ。
六年前オープンした咲希の服屋は瞬く間に急成長し、今や代官山に広々とした店を構えている。
ヴィンテージものを主とした服を揃え、雑貨にもこだわっていて客が絶えない。
テラス席に座りけやき坂の街並みを眺めていたエレナは、焦って咲希を睨んだ。
「声がでかい!」
「時差ボケでテンション高いの」
咲希は悪びれるようすもなくスフレを頬張った。
「神谷颯太ってさ、雑誌に出てたよ。半年前位かな?もう少し前だったかなあ?前にあんたが日本に来て、アタシと遊んだ時にはあの雑誌もう出てたから、半年以上前だね」
「そうなんだ」
だから出版社の人と接する機会があったんだ。
「NEEDって雑誌なんだけどさ、アタシも読んだわ。これでも一応『女実業家カリスマバイヤー咲希』だからね!
神谷颯太が『老舗造り酒屋の若き社長』って、対談形式の特集記事で出ててさ、あまりにもイケメンだから表紙も彼だったんだよね。で、結果バカ売れしたんだってよ。
そんな雑誌今まで興味なかった主婦層まで買っちゃってさ。
うちの旦那が言ってた」
「ふーん……知らなかった」
咲希は眉をあげた。
「彼から聞いてないの?」
「聞いてない」
「やっだー!自慢しないところが素敵ーっ」
それから咲希はエレナを見つめて、
「しかし、あの神谷颯太が不良少年でその時にあんたと出会ってたなんて……アタシに感謝しなよね!アタシの店手伝いに来てなかったら出会ってなかったんだからね!」
「感謝……」
「だって彼、めちゃくちゃイケメンだし経済的にも文句ないしおまけにあんたと付き合いたいんでしょ?」
「……」
咲希はニヤリと笑った。
「あんた今、なに食べても恋の味するでしょ」
「はあっ?!恋の味?!」
エレナは眉を寄せた。
「絶対運命の相手だね。あんただって神谷颯太に惹かれてるから一緒にいるんでしょ?」
惹かれてる……。確かにそうだ。
彼の、いつでも真っ直ぐな眼差しや洗礼された仕草、くったくのない笑顔。
エレナは、颯太の男らしく端正な顔を思い浮かべた。
「でも、年下なんだよね」
咲希は真顔でエレナを見た。
「……年下が全員アイツみたいな訳じゃないよ。もう忘れな」
「怖いんだよね、正直。年下だから裏切るんじゃないかって」
咲希は苦しそうな顔をしてエレナを見た。
「あんたがすごく傷付いたのは分かるけど、神谷颯太はあのクソ男じゃないのよ」
「うん……」
「アタシはこの再会、大事にすべきだと思うよ。一歩踏み出してみな!ね!」
……咲希はいつもそうだ。前向きで、何事にも挑戦する。
どんな困難にも立ち向かう強い精神。
エレナは咲希が眩しかった。
「……うん、踏み出してみる……」
……恋の味かあ……。太陽のような咲希が、親友でよかった。
***
颯太は午後十時を過ぎて帰宅した。
他県にある実家の造り酒屋で新作の試飲、ボトルのデザイン選考、海外で夏に開かれる日本酒品評会の出品会議。
それらをこなした後、六本木のショットバーと麻布の日本酒専門バーに顔を出し、店の得意客と挨拶がてら酒を飲むと、あっという間にこの時間であった。
コンシェルジュと短い会話を済ませて部屋へと帰ると、エレナの靴がなかった。
スーツの上着を脱ぎながら、リビングを見たが姿がない。
ゲストルームにもいない。
確か、服屋の友人に会うとか言ってたな。
颯太はコンシェルジュに電話し、エレナがいつ出掛けたかを尋ねた。
昼前。伝言はなし。
何処かで飲んでる可能性が高い。
『Sou』にいるかもしれない。電話で聞くか?いや、やめておこう。
颯太は上着を脱ぐとバスルームへと向かった。
◇◇◇
二時間後。
エレナは颯太のマンションに着き、借りていたキーで玄関を開けた。
途端にゴツンとドアで頭を打ち、手で押さえる。
いったあ…酔っちゃった。……靴。靴は脱がなきゃね。
ふらつきながらも何とか靴を脱いで揃えると、エレナは長い廊下を歩いて借りている部屋へと入った。
シャワーを浴び、ルームウェアに着替えるとキッチンへと向かい、水を一口飲む。
そこからリビングを見つめると、薄明かりの中に少しだけ颯太の頭が見えた。
エレナはソファに座る颯太を見つめながらそっと正面に回ると、身を屈めて颯太の寝顔を覗き込んだ。
先程から雨が降りだし、肌寒い。
「風邪引くわよ」
その声が異様に大きくて、エレナは自分で発したのにも関わらずギョッとし、何だか妙に可笑しくて、声をあげて笑った。
颯太はぐっすり眠っているのか瞼ひとつ動かなかったから、エレナはそっと近付いて至近距離から颯太を見つめた。
中高で整った顔。この男は…違うのだろうか。
私を手厳しく裏切ったあの男と。
年下はみんな子供っぽくて、何かあるとすぐ逃げるんじゃないの?
エレナは小さな声で呟いた。
「颯太くん…あなたを好きになってもいいのかな」
この男を好きになって私は幸せを感じるの?不安と猜疑心に苛まれるんじゃない?
分からない。怖い。
「いいですよ」
「きゃああっ!」
眠っていると思っていた颯太が急に口を開き、彼にかける物を取りに行こうとしたエレナの腕をグイッと掴んだ。
引き寄せたエレナを素早く抱き締めると体を反転させ、颯太はエレナをソファの上に組み敷いた。
エレナの驚いた瞳が何とも可愛らしく、颯太は大きく笑いながら彼女を見つめた。
「ビックリしましたか?」
悪戯っぽい颯太の眼がキラリと光る。……やられた!
「もうっ!心臓が止まるかと思った!バカッ!」
キッと睨むと颯太は笑うのをやめ、微笑みを残したまま口を閉じた。
「離して」
片方をエレナの後頭部に回し、もう片方の手でエレナの両手首を束ねて掴み、颯太は甘くエレナを見つめた。
颯太の大きな身体を感じて、エレナは目眩がしそうだった。
「離しません」
バクバクと瞬く間に音をたてる心臓がうるさくて、エレナは焦った。
「離さないなら、また蹴るわよ」
「この状態でですか?」
完全に上に乗られて脚さえも動かない。は、恥ずかしい…!
「可愛い」
はっ!?
「生意気!」
「年下のクセにって言うんですか?」
甘やかな眼差しと、熱い彼の身体。
エレナは言葉が出ずにただ颯太を見つめた。
「いいですよ。僕を好きになっても」
ドキンと跳ねる鼓動に、思わず息を飲む。
「僕を好きになったら、あなたを思いきり甘やかせてあげます。この腕の中から出たくないと思うくらいに。過去の痛みも思い出せないくらい愛してあげます」
エレナは眼を見開いた。
「過去の痛みも…?」
颯太はしっかりと頷いた。
ゆるゆると胸の中に何か温かいものが溢れ、やがてそれが身体中に広がっていくのを感じて、エレナはただただ颯太の眼を見つめた。
鼻がツンとして、エレナが思わず眉を寄せた時、颯太の唇が優しく頬に触れた。
「エレナさん、僕とお付き合いしてくださいますか?」
頬がこそばい。
「うん」
「やったあっ!」
「急に叫ばないでっ」
「ははっ、すみません。
僕、明日…ていうか、日付変わってるんで今日なんですけど、休みなんです。僕とデートしてくれませんか」
「デート?」
颯太はエレナを抱き起こしながら爽やかに笑った。
「はい。デートです」
「…うん」
「じゃあ、決まりです」
それから二人はソファに腰掛け、語り合った。
**
「…エレナさん?」
返事が返ってこなくなり、自分の腕の中で眠ってしまったエレナを見て、颯太は彼女の髪を撫でた。
やはり欧米人の血が入っているからか、日本人と比べると彫りが深い。
……外見は華やかで綺麗なのに、中身は地味としか言いようがない。
真っ直ぐで真面目で、全然あの頃の志がブレてなくて。
綺麗なのにその外見を俺に対して武器にしないところが、寂しいようでもあるが、媚びてなくてグッと来る。
颯太は学生時代、非常にモテた。
スラリとした長身に端正な男らしい顔立ちが、女子を虜にした。
社会人になってからはそこに経済力がプラスされ、常に女性から声がかかる日々。
颯太はそれも楽しかった。
割りきった関係は後腐れがなく、一晩の相手と思いきり肌を重ねるのは刺激的だったからだ。
颯太はエレナの寝顔を見つめながら、六年前を思い出した。
『お前、歳いくつ?』
『二十歳』
『君は?』
『もうすぐ18』
『エレナ!』
『なに』
『お前に惚れた!俺と付き合ってくれ』
『何で自分より頼りない、学校サボるような不良と私が付き合わなきゃなんないの?私があんたみたいなガキっぽい男を好きになる訳ないでしょ』
ピシャリと断られた六年前。
颯太は肩を揺すった。
「エレナ」
懐かしく、眠るエレナを小さく呼んだ。




