出逢いは突然に
ー六年後ー
「あの野郎っ!」
城田エレナは都内にあるショットバー『Sou』にいた。
広い店内は柔らかなオレンジ色のライトで照らされ、それが暗すぎず明るすぎず、程よい。
カウンターテーブルは元より、他のテーブルも全て艶のある美しい木材で作られていて、店内のディスプレイは実にシンプル。
静まり返って飲むタイプのバーとは違い、仲間でも独りでも気軽に入れて食事も出来ると言った点では、アメリカのパブにも似ていた。
ただ様々な酒の瓶と宝石のように美しく輝く多種類のグラスだけが、強く存在を主張していて、エレナはこの店が好きなのだ。
「ほんっと、使えない奴っ!」
エレナはそう言うと、指をトントンとテーブルに打ち付けて鳴らした。
実際は室内の喧騒で、テーブルを叩く音など聞こえはしない。
それどころかエレナの口から出た最高に汚い言葉も、誰の耳にも届いていない。
ええい、今日は我慢しない!言ってやる、アイツの悪口!
どうしても、憎い相手への悪態を飲みながら思い付く限り口に出して言いたかったのだ。
「クソ男っ!お前のせいで、ひとつチャンスを逃したじゃない!」
そう。城田エレナ職業女優@アメリカ、今猛烈にキレてます!
何十種類もの暴言を吐きたかったのに、結局エレナの口をついて出てきた言葉はほんの数種類だけだった。
エレナは幅の広いカウンターテーブルの向こうにズラリと並ぶ、様々なボトルをボケッと眺めた。
数人いるバーテンダーは、誰もがエレナから離れた場所で接客中である。
「くたばれ!」
最後に何か言ってやれと思い、出た言葉がそれであった。
そして、残り少ないキールロワイヤルを飲み干そうと顎を上げた瞬間……。
エレナの眼の前に、スッと人が現れた。
「……っ!!」
エレナはもう少しで悲鳴を上げそうになったが、楽しげな店内の雰囲気に救われた。
嘘でしょっ?恐いんだけどっ!
どう考えても歩いて近づいて来たのではなく、最初からカウンターテーブルの下……エレナからは死角になる場所にしゃがみこんでいて、突然立ち上がったような感じであった。
私の目の錯覚でなければ。
……なに、この人!…不気味。
唇につけたシャンパングラスをそれ以上傾ける事が出来ずに、エレナは目の前の男の顔を凝視した。
この20分前……。
◇◇◇◇
あ……!
神谷颯太は店の入り口に眼を止め、小さく息を飲んだ。
あれは…。
颯太は瞬きを忘れて、食い入るように城田エレナを見つめた。
緩やかなカーブを描く漆黒の長い髪、小さく形のよい輪郭にアーモンド型のゾクッとするくらい美しい眼。
颯太は思わずエレナの後ろを見た。
……今日は、独りか?それとも、待ち合わせか?
エレナは華奢な身体を他の客に当たらないように斜めにしながら、カウンターに近づいてきた。
エレナに気づいた客達は、その美しい顔に見惚れ、それから舐めるように全身を眺めた。
エレナは、そんな客達の眼差しなど何処吹く風で辺りを見回し、ゆっくりとこちらに歩を進める。
真っ直ぐ、俺の方に来る。
颯太は、思わずテーブルの下にしゃがみ込んで身を隠した。
しばらくするとガタンと音がして、誰かがすぐ前のテーブルに座る気配がした。
途端にバーテンダーが近寄ってきて、身を隠している颯太を見るなり首をかしげる。
……変だとは思うが……スルーしてくれ。
思わず人差し指を唇に押し当ててバーテンダーの眼を見つめると、バーテンダーは何もなかったように接客を始めた。
「ご注文は」
「キールロワイヤル」
「かしこまりました」
…彼女だ。
以前、男性と来店した際も、確かキールロワイヤルを飲んでいた。
颯太は後悔した。
……俺、なんで隠れたんだ。
◇◇◇◇
そして、現在。
颯太は意を決して立ち上がった。
途端に、シャンパングラスを傾けたままの城田エレナと視線がぶつかる。
エレナの大きく形のよい眼が颯太を捉えた。
白い肌にキールロワイヤルの赤がよく映えていてドキッとしたが、颯太はエレナを見つめて微笑みながら口を開いた。
「いらっしゃいませ」
「……」
店員?
突如として現れた人物はバーテンダーの制服ではなく、スーツに身を包んだ青年であった。
「こんばんは」
気を取り直したエレナは、斜めにしたままのシャンパングラスを更に傾けて、赤い酒を飲み干すと小さく頭を下げた。
それから眼の前の男を静かに見つめる。
彼の短い髪は品のよいブラウンで肩幅は広く、がっしりとした体格である。
顔つきは男らしく精悍で、切り込んだような二重瞼の眼はとても魅力的であった。
その時である。
「エレナ」
声がした瞬間、エレナは両眼を閉じた。
颯太はエレナのその態度で、彼女にとって声の主が招かれざる相手だと知った。
……この男は……以前、エレナと来店していた男性客だ。
「エレナ」
二度目の呼びかけの後、エレナはゆっくりと両眼を開いて声の主を振り返った。
「健斗」
三メートル程の距離をあけて、健斗は苛立たしげにエレナを見下ろした。
「帰国してたなら、どうして連絡してこない?!」
……帰国?
人の話聞いてないのね。来日と言って欲しいわ。
もうやめてくれない?その『お前は俺の女だろ』みたいな顔。
エレナは控えめに笑った。
「ごめんなさい、忙しくて」
くっ。
健斗は、胸に湧いた焦げ付くような痛みに顔をしかめた。
お前は、俺から去るのか。
こんなに俺が愛しているのに。
わざとらしい嘘だと、健斗には分かっていた。
「終わりにするつもりか?」
颯太の存在などお構い無しに、健斗はエレナとの距離を詰めた。
「俺を散々利用して、捨てるのか!?」
利用?勘弁してよ、全く。
エレナは、げんなりしながら健斗を見上げて静かに言った。
「あなたとは、合わないのよ」
瞬間、健斗は苛立たしげに叫んだ。
「お前みたいな女とは、どんな男だって合わない!」
健斗の声は喧騒に馴染まず、辺りが一瞬で静まり返った。
その静まりと注目を感じ、健斗はニヤリと笑った。
そうだ、みんなに聞かせてやれ!この女のバカな夢を。
「 オーディションは受けたのか? ……どうせまた、ダメだったんだろう?イメージ外れとか言われて、落とされたんだろ!」
!!
エレナは全身の血が逆流するような気がしたが、それとは裏腹に、凍りついたよう動けなかった。
「なにが女優だ!端役しかとれないお前が!お前なんか無理に決まってる。日本に家がなくて、手当たり次第に男をひっかけて転がり込んでる薄汚い女なんかに」
健斗がそこまで言った時である。
いつの間にか颯太がエレナの傍らに寄り添い、彼女の腕をとって立ち上がらせた。
「行きましょう、エレナさん」
「え?」
「ま、待て!」
健斗の声に、エレナの肩を抱いて踵を返したばかりの颯太が、ゆっくりと振り返った。
「エレナさんは今現在、僕の恋人です。失礼な発言は控えてくださいますか」
丁寧な口調とは裏腹に、迫った眉の下の眼が健斗を捉えて不敵に光る。
一方健斗は颯太の迫力に押されて息を飲んだ。
「くっ!そんな女……こっちから願い下げだ!」
健斗はふたりを睨むと荒々しく身を翻し、店から出ていった。
エレナは好奇の眼にさらされている空気を感じて俯いたが、すぐにクッと顔をあげるとフワリと笑い、周りに頭を下げた。
「ごめんなさい、お騒がせしてしまって」
なんて微笑みなんだ。
颯太には、周りの客たちがエレナの微笑みに見惚れたのが分かった。
「では、行きましょう」
言いながらエレナの腰に腕を絡め、彼女を守るように歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って」
エレナは自分に触れている背の高い男を見上げた。
颯太はチラリとエレナを見てから直ぐに視線をそらし、前を向いた。
「何ですか?」
……何ですか?って。
どう考えても変でしょ。
私とあなたはたった今、初めて逢ったのよ?
いくら男から声をかけられるのに馴れていたとしても、女に声をかけ馴れているにしても、変だ。
「助けてくださってどうもありがとう。もうここで結構です」
もう少しで店の出入口というところで、エレナは男の歩調に合わさず足を止めようとした。
するとそれに気付いた颯太は、エレナの腰に回した腕一本に力を込めた。
「しばらく僕に付き合ってください」
は?乗っかりナンパ?
「どうして?」
エレナは顔を傾けた。
「あの男性から助けた礼とキールロワイヤルの代金を、あなたの時間でいただきたい」
「代金ならお支払いしますけど?現金で」
男はクスリと笑った。
「僕の、あなたといたいという気持ちを察してください」
店から出ると颯太は、エレナの腰から手をほどいて向き合い、今度はその腕をとった。
それから清潔そうな形のよい唇をふっと引き上げ、白い歯を見せる。
「僕は神谷颯太と言います」
男らしい精悍な顔で真っ直ぐにこちらを見て、神谷颯太は笑った。
「あなたは?」
エレナは少し息をついて、小さな声で答えた。
「城田エレナ」
父親が日系のアメリカ人で母親が日本人であるエレナの本名は、エレナ・リーダス・城田だが、日本へ来た時は簡単に城田エレナと名乗っている。
「では城田エレナさん、今から僕と食事をしてくださいますか?」
エレナは考えた。
……この男性は、私を知ってるの?
エレナは代表作こそまだないが、日本でも放送された、いわゆる海外ドラマと称される作品に幾度となく出演している。
二年前には、全米で大人気をはくした潜入捜査官の活躍を描くドラマにも出演した。
これは日本でも度々放送されているから、エレナを知っている可能性はゼロではないだろう。
でも私が出演したのは、シーズン4の第一話から第三話までだし。
この人、私に名前を聞いてきたし……。
「エレナさん?」
エレナは颯太を見上げたまま、口を開いた。
「あの私達……以前にお会いしましたか?」
颯太は一瞬真顔でエレナを見つめたが、暫くした後白い歯を見せた。
それから広い店内を見回して口を開いた。
「このショットバーは僕が経営しています。
……以前、あなたがあの男性客とご来店されたのを覚えていました」
ああ……そういうことか。
「それで、助けてくれたんですか」
「困っていらっしゃったみたいなので」
確かに困ってはいた。けど、疑問もある。
エレナは、上品な微笑みを浮かべてこっちを見ている颯太に質問を投げかけた。
「あなたはどうしてカウンターテーブルに隠れていたんですか?」
瞬間、颯太の微笑みはかき消え、代わりに慌てたように腕を上げて両の掌をエレナに向けた。
「待ってください。確かに僕は隠れてしまいましたが決して……」
「……」
無言で見つめるエレナの瞳を見て、颯太は観念した。
ホッと息をついてから諦めたように天を仰ぎ、颯太は話し出した。
「偶然店に入ってくるあなたを見て驚いたんです。しかもあなたは店内を見回しながら真っ直ぐ僕の方に近付いてきて……」
は?
それのどこに隠れる理由があるわけ?
私、危険人物?
「意味分かんないんだけど、要は私のせいってこと?」
そう言ってエレナは唇を引き結んだ。
「そうです、あなたのせいです」
「なんでそうなるの?」
「それは……食事をしながらお話します」
颯太が照れたようにエレナを斜めから見下ろした。
「僕と食事、してくださいますか?」
男らしく精悍な顔立ちで、がっしりとした体格なのに……こんなに照れちゃって。
……参った。私、そういうのに弱い。
エレナは少し笑って頷いた。
「分かった。私も颯太くんと食事がしたい」
瞬間、颯太が大きく眼を見開いてエレナを見つめた。
「ほんとですか?!ほんとに僕と食事……やったあ!!」
小さくガッツポーズをしてから、颯太はエレナの腰に両手を回して引き寄せた。
「きゃあっ」
勢いよく引き寄せられ、颯太の胸に頬が当たる。
エレナは慌てて身を起こすと、至近距離からこちらを覗き込む颯太を見上げた。
男らしい眉の下の、切れ長の綺麗な眼。
自分を包み込んだ颯太にドキンとして、エレナは思わず口を開いた。
「あの、凄くみんなが見てる」
「見せ付けたいくらい嬉しいです!行きましょうエレナさん」
フワリと身を離すと颯太はエレナの手を取り、店の外に出た。
それから手を繋いだまま、エレナを見つめてニコッと笑う。
「何が食べたいですか?」
やだ、なにこれ。
エレナはドキドキとうるさい心臓に思わず片手を押し当てた。
エレナは美しい。
その美しい容姿から、男性に声をかけられることも愛を告げられる事にも慣れっこである。
だから今回のように食事に誘われても動じることなどまずない。
なのに。なんでこんなにドキドキするの?
体がフワリと浮くような、何か柔らかくて温かいものに包まれているような気持ち。
それでいて胸はキュッと軋むようで。
ずっとずっと忘れていた気持ち。
エレナは今まで必死だった。
演劇学校を卒業し、女優になるために必死で働きながらオーディションを受けまくった。
今のエージェントは大きくはないが、社長は女性で何かとエレナを気にかけてくれる。
ただ、人種という壁をなかなか越えることができず何度も泣いた。
エレナはれっきとしたアメリカ人だが、生粋の白人ではない。
父親は日系アメリカ人で、母親は日本人である。
白人から見れば、エレナはアジア人なのだ。
だからこそそれを逆手にとって、歯を食い縛って頑張ってきた。
正直、恋をしている時間はなかった。
一度だけいた恋人はエレナよりも二歳年下の白人男性だったが、甘えたがりで寂しがり屋だった彼は、初めて端役を貰ったと告げたその日に姿を消した。
恐ろしい仕打ちと、エレナが必死で働いて稼いできた5千ドルを持って。
エレナはその恋人を愛していた。
次の恋に進んで忘れるなど、到底出来なかった。
だからあの時の別れは、エレナの心を深くえぐったままである。
エレナは、こちらを向いて柔らかく微笑む颯太を見つめた。
「エレナさん?」
エレナは少し首を振ると、フワリと笑った。
……深入りはしないでおこう。
そうしたら、傷付かなくてすむ。
「私、お刺身が食べたい。それと日本酒が飲みたいな」
颯太は頷いた。
「では、僕の行きつけの和食の店が近くにあります。行きましょう」
颯太はそう言うと、エレナの手をガシッと握り直した。
「きゃ……!」
「すみません!痛かったですか!?」
颯太が焦ってエレナの瞳を覗き込んだ。
ああ……。
エレナは、颯太に惹かれていく自分を感じながら、大丈夫と告げた。
夜の東京の風は、エレナの心を切なく揺らした。
◇◇◇◇◇
「ちきしょう!」
楠木健斗は火酒をあおった。
『あなたとは、合わないのよ』
そう言ってうんざりしたエレナの眼差しが忘れられない。
『そんな女、こっちから願い下げだ!』
健斗は後悔していた。
会えないもどかしさ、想われない切なさからエレナに吐いた数々の暴言を、無かったことにしたかった。
「うっ!」
火酒とはよく言ったものだ。
一気に流し込んだストレートのウォッカが、焼け付くように痛い。
「エレナ……」
健斗は力なく自宅のテーブルに突っ伏すと、エレナの笑顔を思い出しながらその名を呼んだ。
グルグルと回る視界が煩わしく、思わず眼を閉じたとき、ふとあのスーツの男を思い出した。
『 エレナさんは今現在、僕の恋人です。失礼な発言は控えてくださいますか』
辺りを払うような華やかな雰囲気を持った、整った姿。
あれは、確か……。
数ヵ月前、雑誌『NEED』に載っていた、あいつなんじゃ……?
雑誌『NEED』とは、数ヵ月に一度の割合で発行される、実業家を特集した雑誌である。
健斗はヨロヨロと立ち上がると、コンポの隣のマガジンラックをあさった。
あった。やっぱり。
表紙を飾るこの男こそ、まさにアイツだ。
……てことはあのショットバー『sou』も、麻布の日本酒バー『檜』も、あいつのものって事か。
健斗は薄い雑誌を握り締めると捻って歪め、ゴミ箱に投げ捨てた。
それから雑誌の中の神谷颯太を睨み据えた。
何もかもを手に出来ると思うな。
覚えてろよ。
◇◇◇◇
颯太はエレナの手を繋いだまま数分歩き、和食処『旬彩・響』の暖簾を潜った。
「いらっしゃい!……あら、颯太くん!」
割烹着を着た可愛らしい女性が、颯太を見てにっこりと笑った。
「瞳さん、こんばんは。響は?」
「もちろんいるわよ。響さん!颯太くんがおみえよ!」
「颯太!」
奥の生け簀から鯛をすくいあげた響が、颯太を見てニヤリと笑った。
「仕事は上がりか?来いよ!今日は良い鱧が入ってる」
颯太は弾けるように笑った。
「手に持ってんのは鯛なのに、お薦めは鱧かよ!」
すると響は大きな声で笑いながら颯太を睨んだ。
「しょーがねーだろ、今から鯛をおろすんだから」
「個室空いてるか?今日は連れがいるんだ」
連れ?
響は鯛を持ったまま、体を斜めにして颯太の後ろを見た。
「……こんばんは」
あ……!
響は、ハッと息を飲んだ。
颯太の体で顔の半分しか見えないが、あれは……。
綺麗な輪郭に、形のよい大きな眼。
響は無言のまま数秒間、颯太と視線を合わせた。
「こちらは城田エレナさん。エレナさん、こいつはこの店の大将で僕の親友です」
店内に入り颯太の隣に立ったエレナを見て、響は慌てて頭を下げた。
「お久し振り……いや、違う!は……は、は、初めましてっ!大将といっても名ばかりでお恥ずかしいです!ほんとの大将はこっちにいる、俺の師匠の村瀬さんで……」
エレナはそんな響を見て声を出して笑った。
途端に颯太に瞳と呼ばれた女性が頭を下げた。
「ごめんなさい、エレナさん。響さんたら、あなたがあまりにも美人だから舞い上がっちゃって」
「よせって!」
「そうですよ、瞳さん。響は瞳さんにベタ惚れですから」
エレナは響と瞳を代わる代わる見つめた。
とてもお似合いだ。
「さあ、颯太君、エレナさん。こちらへどうぞ」
「響、とりあえず、刺身!」
「あいよ!」
響は鯛をまな板に置きながら、眼だけを上げて颯太を見た。
なんだよ?
別にぃ!
それからニヤリと笑い、響は再び手元に視線を落とした。
◇◇◇◇
瞳に案内された個室に、エレナと颯太は向かい合って座った。
それから互いに見つめあう。
「……」
「…隠れていた件ですが」
先に口を開いたのは颯太であった。
「うん」
颯太は小さく咳払いすると一瞬だけ眼を閉じて、思いきったように言った。
「こちらに歩いてくるあなたを見て、思わず隠れてしまったのは……」
「うん。私のせいなんだよね」
そう言ってエレナは笑った。
「僕は初めてお会いした時から、あなたを素敵な人だと思っていたんです」
エレナは驚いて眼を見張った。
「は?」
この人が初めて私を見たのは、私が『Sou』に行くようになって何度目なんだろう。
「本当です。だから緊張して、思わず隠れてしまいました」
エレナは笑った。
「あはははは!……でも、ありがとう」
これ以上に何も言葉が見つからなかった。
なぜなら知らない相手から愛を告げられるなんて、エレナにはよくあることだからだ。
颯太はエレナの笑顔を見つめた。
彼女は女優だしとても魅力的で、言い寄る男なんて沢山いるに違いない。
エレナは、颯太の素直な態度を嬉しく思った。
ただ軽く誘ってきた訳ではない気がした。
どうしてそう思うのかと問われると難しいが、何だか違うように思うのだ。
それって……私が、彼にときめいているから?
わからない。
姿形が好みなだけかも。
だって、凄くかっこいいもの。
でも。
以前の恋人が脳裏をよぎる。
深入りはしない。
エレナは熱い手拭きを取ると、交互に手を包み込んだ。
それを見た颯太は静かに息をはくと、
「エレナさん、お酒は熱燗がいいですか?それとも、冷酒がいいですか?」
「うーん、温かいお酒にしようかな」
「分かりました」
絶妙なタイミングで声がかかり、瞳がそっと襖を開けた。
「瞳さん、『慕情』を熱燗でお願いします」
「かしこまりました。本日のお薦めは『鱧のミニコース』ですが、いかがですか?」
それを聞いた颯太が、エレナに視線を向けた。
「エレナさん、鱧は好きですか?」
鱧……。どんなだっけ?
エレナは申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、鱧って私、知らなくて」
「僕も数えるほどしか食べたことありません。では、食べてみましょう!ここの料理は最高級の味ですし、きっと美味しいと思います」
「はい、じゃあ、いただきます」
はい、と言って頷いたエレナの表情は硬く、颯太は眉を上げて口を開いた。
「もしかして、緊張しているんですか?」
「だって、見たことないから。もし食べられなかったら……残したら、申し訳ないし……」
日本人は繊細だ。
こんなに立派なお店で最高級の料理を残すなんて、失礼に決まっている。
エレナは日本が好きであった。
大好きな母の母国である事に加え、日本人にしかない、本能からくる細やかな心遣いを愛しているのだ。
その時、颯太の優しい声が響いた。
「大丈夫です、エレナさん。もしエレナさんが食べられなかったら、僕がいただきますから」
真っ直ぐこちらを見て言った颯太を見て、エレナは俯いた。
「では、少々お待ちください」
瞳が二人を見て微笑み、襖を閉めた。
「ありがとう……」
「僕こそ、ありがとうございます。エレナさんと一緒に食事が出来るなんて嬉しいです」
程なくして、付出と熱燗が運ばれてきて、エレナはその酒器の美しさに眼を見張った。
「綺麗」
颯太は嬉しそうに笑った。
「日本の酒器は、酒の種類によって形状や材質が様々なんです」
そう言って、エレナが手にした有田焼の御猪口に酒を注いだ。
「飲んでみてください」
「いただきます」
エレナは御猪口に口を付けるとコクンと一口飲んでみた。
「……美味しい…香りもいいし…ほんのり甘くて」
そう言いながら付出の高野豆腐を口に運ぶ。
「良かった!めちゃくちゃ嬉しいです!エレナさんに美味しいって言ってもらえるなんて……この酒は僕の実家の酒なんです」
エレナは眉を上げて颯太を見つめた。
「ご実家はお酒屋さんなの?」
「はい、造り酒屋です」
「そうなんだ。ほんとに美味しいよ。私ね、日本酒大好きなんです」
「ほんとですか?!この『慕情』は、熱燗で飲むのが一番なんですが他にも美味い酒がいっぱいあるんです。もしよろしかったら今度一緒に」
エレナは、控えめだが嬉しそうに話す颯太を見て思わず胸がキュッとした。
やだ、グッとくる。
中高で男らしい顔なのに、まるで気取らない笑顔。
キリリとした眉の下の切れ長の眼。通った鼻筋と豪快に笑う清潔そうな口元。
ヤバい。
エレナは颯太に見惚れた。
一方颯太は、一心に自分を見つめるエレナがあまりにも可愛らしくて思わず口ごもった。
「あっ……すみません、僕……」
「ううん、嬉しい。色んなお酒を飲んでみたいです」
「マジですか!?やったあ!じゃあ、今度一緒に飲みましょう!」
「はい、是非」
◇◇◇
初めて食べた鱧は、雪のように白い身で美しかった。
それから鱧の出汁の味の深さに驚き、エレナはひとつひとつの鱧料理にじっと見入った。
「御馳走様でした」
鱧料理はどれも美味しかった。
二人は、置かれた湯飲みを両手で包み込んだ。
「……」
「……」
……そろそろ、ホテルを探さないと。
そう。バカな弟、玲哉のせいでエレナは今晩泊まるはずだった部屋がなくなってしまったのだった。
弟の玲哉は、とんでもない不良であった。
散々家族に迷惑をかけてきたけど、ここ何年かの間にようやく落ち着いてきたところだ。
ただエレナとは仲が良かった。
現在はアメリカでダンスの道へ進み、様々な有名アーティストとのコラボを大成功させている。
『ねーちゃん、日本行くなら俺のアパート使いなよ!まだそのままにしてるんだ。つっても、ベッドくらいしかないけどな。ほら、カギ!』
その言葉を鵜呑みにした私もバカだけど……。
口座が空っぽで家賃の引き落としが出来ない上に本人と連絡がつかなかったという理由で、強制退去されてるじゃないのっ!!
お陰で私は恥かいたわよ、あの、バカ!!
それでも老夫婦の大家さんは『城田くん元気でやってるんだね、良かった』と穏やかな微笑みを浮かべていた。
「後日、玲哉からお電話させます」
再び謝罪した後、エレナは深々と老夫婦に頭を下げた。
思い出したら、どんどんムカつくじゃないっ!
バカな弟にメラメラと再び怒りが込み上げて、エレナは眉を寄せた。
……後で玲哉に電話してやる!
もう一回、ブツブツ言ってやる!!
その時、
「エレナさん?大丈夫ですか?」
あ……!
我に返ると、心配そうにこちらを見つめる颯太と目が合う。
エレナは決まりが悪くなって小さく咳払いをした。
それからホッと息をついて、こう切り出した。
「今夜は本当にありがとう。御馳走様でした。……私、そろそろ行かなきゃ」
エレナは日本の小学校を卒業した。
それから渡米したが、小学時代の親友二人とは今も仲がいい。
ずっと連絡を取り合い、会えるときは必ず会い、咲希に関しては語学留学の際、一年間エレナの家にホームステイしていた。
そんな咲希は、ヨーロッパに服の買い付けに出掛けていて日本にいない。
亜子の家にも、生後七ヶ月の双子の赤ちゃんがいて、泊めてもらうのは気がひける。
つまりエレナは、誰の家にも泊まれないのだ。
ホテルを探さなきゃ。
その時、颯太がこう切り出した。
少し姿勢を正すと、真っ直ぐにエレナを見つめる。
「……先程の男性の家に泊まるんですか?」
エレナは眼を丸くして首を横に振った。
「まさか!本当は弟が借りっぱなしにしていたアパートに1ヶ月住むつもりだったんですけど、ちょっとアクシデントがあったものだから」
「エレナさん」
エレナがそこまで言った時、颯太がエレナの名を呼んだ。
「はい?」
「僕の家に来ませんか?」
「……はっ?」
胸がドキンとした。
「……もし宿泊先が決まってないのなら、僕の余っている部屋をお貸しします」
エレナは驚いて颯太の瞳を見つめた。
その瞳は真っ直ぐにエレナを捉えていて、真剣だった。
「どうして?もしかして、誘拐……」
「違います」
「じゃあ、レイプ……」
「僕、犯罪を犯して女性を抱くほど不自由してません」
でしょうね。
「あなたといたいからです。あなたがアメリカに帰るまで」
精悍な顔をわずかに傾け、颯太は眩しそうにエレナを見つめた。
「……取り敢えず今晩だけでも。食事に誘ったのは僕ですし、このままあなたを放り出す形になるのは嫌なんです」
「……」
エレナは思案した。
思案していた最中に、自分の意思とは関係なくフワッと頭が揺れた。
わ、ヤバい。飲みすぎたかも。
……時差ボケなのに、普段以上にのんじゃったから。
それを颯太は見逃さなかった。
「エレナさん、どうか今夜は僕の家に来てください。すぐ近くですし」
「ふっ」
エレナは思わず笑い声を漏らした。
……二人とも大人だ。
一晩の出逢いがいけない訳じゃない。
……飲みすぎたかもだけど。
「ご迷惑じゃないですか?」
「寧ろ嬉しいです」
「……」
……もう、泊まっちゃえ。
頭がフワフワするし眠いし、彼はイケメンで私は彼に惹かれてるし、彼も私を気に入ってくれてるし。
いいや、泊まっちゃえ。
明日になったら宿泊先を探そう。
エレナはコクンと頷いた。
「じゃあ……今晩お世話になります」




