第二話
不毛の砂礫にかわって、山査子などの低木が目立ちはじめ、轍が見分けられるようになった。雪が踏み固められた泥濘の道であっても、道は道だ。
曠野を進むうちに、沙漠に入っていらい絶えていた人煙が点在する集落からあがるようになり、キャラバンをひとめ見ようと沿道に人が群がるようになっていた。
「あと二日で都に着くそうですわ」
侍女のひとりが弾んだ声で云った。長い旅がやっと終わるのだという実感が、疲弊した一行の気持ちを盛り上げている。そのなかで公主だけは、旅が終わることを怖れていた。
夫となる男は、どんな顔をしているのだろう。豚みたいに肉に埋もれた顔のなかで小さい目をぎらつかせ、卑しくよだれをたらして、何層にもたれさがる腹を揺らしている、そんな男だったら……おお嫌だ! 肌を合わせるなんて耐えられない。
まだ見ぬ結婚相手を想像して憂鬱になっていた公主は、体の揺れに我に返った。地面が揺れている。数百の連打する太鼓の音にも似た、怒濤となって押し寄せる馬蹄の音。雪を蹴散らして数百騎のウイグルの騎馬が、こちらに向かって駆けてくる。
キャラバンの前で一糸乱れず数百の騎兵が停止し、使者の旗をもった兵が進みでると、朗々とした声で、可汗の希望を伝えた。挙式前に間道からひそかに公主と会いたいというのである。
「そのような非常識な申し出を承諾するわけにはいかん!」
使節団の長である左金吾衛大将軍の怒りに震える銅鑼声がキャラバン中に響き渡った。
「以前に咸安公主が降嫁されたときは、公主は可汗と合流するため先に出発しました。それなのにどうして今回は拒否するのですか」と使者は譲らない。
「わが国の天子は、わしに公主を無事に送って可汗に授けるよう詔をくだしたのだ。まだわしは可汗に会っておらん。どうして公主だけを先に行かせることができようか」
公主は馬腹をかるく蹴ると、会合の場へと走らせた。慌てて侍女たちもその後につづく。
「輦車にお乗りください、みだりに玉顔をあらわにすべきではありません」と苦言を呈されても、公主は見渡すかぎりの平原を馬で駆ける方を好んだ。まさか馬の牽く輦車に乗らずに、公主が胡服を着て馬にまたがっているとは思わないだろう。侍女のひとりとして素知らぬ顔で、見届けよう。自分のことについて話し合っているのに当の本人が除け者にされて、ことが決められるのは我慢ならない。
案の定、将軍は渋い顔をしたが、公主は澄ました顔で背後にひかえた。
使者は後ろにひかえている侍女たちの中から一瞥しただけで公主を見いだすと、漢人の礼法にならい、悠々と彼女の前で叩頭してみせたのだ。
瞬時に見破られたことに動揺してすぐには言葉がでてこない。彼女の許しを待たずにこの男は不遜にも面を上げると、鷲が炯々と獲物を狙うがごとく彼女を凝視した。全身が火に包まれたように熱くなる。これは怒りなのか、羞恥なのか。今まで、ぶしつけに彼女を見る者などいなかった。清らかな睡蓮を穢すことを怖れるように、憧憬のともった眸は伏せられた。だが、この男は。狼の燎原のごとき燃える双眸で彼女を射貫く。
「将軍は反対されたが、太和公主のお気持ちはいかが」
決定権を持っているのは公主なのだといわんばかりに訊ねられ、彼女は締め切った部屋に風が吹き込んだような感覚に眩暈をおぼえた。この男の手を取りたいという強い衝動にかられた、そのとき。
「許しを得ずに話しかけるとは無礼であろう! 公主を行かせることはできぬ。何度も云わせるな!」
怒髪天を衝いた将軍の怒声に公主は我に返った。外交儀礼を守ろうとする将軍の意見も無視できぬ。唐帝国の体面をつぶすわけにはいかないのだ。そうおのれに言い聞かせても、男から目が離せない。
「今日のところは頑固爺の顔をたてることにしよう」
剽悍な片笑みをひらめかせ、
「では、公主。近いうちにまた会おう」
颯爽と騎乗した男は、待機していた騎兵隊に号令をかけると、草原を吹き渡る風のように駆け去っていった。
——あの男のあとを追いかけたい。
将軍の説教を聞き流しながら、公主はこみあげてくる熱い想いを必死でこらえていた。
彼女はウイグルとの和親のために降嫁する唐国の公主である。おのれの心に従うわけにはいかぬ。
黒い城壁が雪原に屹立している。
ようやくウイグル帝国の都オルド・バリクがオルホン川の対岸に見えてきたのだ。集落らしきものといえば羊毛製の天幕ばかりだったため、都が城壁に囲まれていることに公主は安堵した。大都市長安を見慣れた目には辺境の城市の規模ではあったが。それでも、城壁に守られた都市は公主がなじんできた文明のものだった。
とはいえ、唐の城市と違うのは、城内にも天幕が林立していることだ。可汗の座所さえもが黄金に輝く巨大な天幕である。それが宮殿の平な屋根の上にそびえているのだ。どれほど大きいのかとウイグル人の使者に訊いたところ、なんと天幕のなかに広い中庭があり、百人を収容できるという。
婚礼をあげるまで過ごすことになる天幕も、可汗の天幕よりは小さいとはいえ十分に大きかった。中に入ると、唐の宮廷で豪華絢爛を見慣れている公主でさえ、感嘆するほど室内の調度は贅をこらしている。
芳香をはなつ灯りに照らされた部屋は、たしかに遊牧民の暮らしをうたった詩の通り、壁と床は羊毛の毛氈で覆われてはいた。だがその上に虹の七色で刺繍された絹の絨毯、さらにその上に黒貂、白鼬、駱駝、鹿などの色艶のよい毛皮が敷かれ、五色の色で染められた大きな綾絹の座布団が壁際にずらりと並べられている。
黄金と象牙で飾られた黒檀の榻に腰を沈めると、ウイグルの召使いがしずしずと、葡萄と蔓の模様が見事な紫の硝子杯を運んできた。
馬乳酒を覚悟していたが、中身は葡萄酒だった。旅の途上で立ち寄った葡萄の名産地、太原で飲んだ葡萄酒を思い出させる芳醇な味わい。
大皿には甘く熟れた果物が盛られ、驚いたことに寒冷の地で育つはずがない甜瓜や葡萄まである。
ウイグルは羊や馬を放牧して生計をたてている蛮族の国だと云われていた。しかし、それは偏見だったのだ。唐帝国から馬と交換した大量の絹を西域の国々に売りさばき、この天幕内の贅沢品を欲しいだけ手に入れることができるほど、ウイグル帝国は交易で繁栄している。
怖れていたここでの暮らしは惨めではないのだろう。そう思いはしても、心は泥沼に沈んでいく。
今日から唐帝国の公主ではなく、ウイグル帝国の可敦(王妃)として生きなければならない。髪型も衣装も言葉も習慣もなじんでいたすべてを捨てて。
贅をこらした広い部屋の中で公主は、豪華な鳥籠の中の鸚鵡におのれを重ねて、寄る辺なき身を嘆くのだった。
婚儀の開始をつげる銅鑼の音が響きわたる。
楼閣の下の天幕から、ウイグルの可敦の衣装をまとった太和公主が進み出た。燃える暁の色をはおり、黄金の飾冠をかぶった公主は太陽の化身のようであった。
彼女は楼閣の階をのぼっていく。ようやく、夫となる男と顔を合わすことになるのだ。足が一段あがるたびに心は重く沈んだ。あのとき、あの男の手をとっていれば。だが、もう逃げられない。
楼上に出ると、整列した大臣たちが迎えた。朱色の絹の道が玉座へとのびている。その先に可汗の象徴である天空の色をまといし、威風辺りをはらう男がいた。
あの雪原で出会った時とおなじ、草原の狼の眸が彼女をまっすぐにとらえて離さない。
ぬけぬけと使者の振りをして公主を連れだそうと計った男を毅然と見返せば、男の眸に会心の笑みがひらめく。
可汗の隣に並んだ彼女の耳を低い声がかすめた。
「本当はあの時、掠っていくつもりだった。だが、公主の気持ちを踏みにじって嫌われたくない、そんなふうに思ったのは初めてだ」
頬を染めた彼女は答えるかわりに、さしだされた浅黒い武骨な手に雪白の華奢な手をかさねた。
今度は、もう迷わなかった。




