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第一話

 睡蓮のように清らかな佳人は白檀の牀《しょう》に横たわり、微睡んでいる。

 その後ろに屏風絵がある。白蓮が咲きみだれる池の中に亭があり、純金に翡翠が象眼された鳥籠の中に雪白の鸚鵡がいる。

 またその後ろに屏風絵がある。青金石をくだいた顔料で刷かれた空の下、色鮮やかな花嫁行列は長蛇がうねるようにゆるゆると草原を進んでいく——



 晩夏であった。

 斜日の燃える空のごとき大唐帝国の都、傾国の美女のごとき長安は、いまだ盛夏の名残をとどめていた。

 東城壁楼台の瑠璃瓦が陽差しにきらめく。通化門の楼上には皇帝が臨御し、沿道に文武百官が並び、押しよせた民が見物するなか、城を傾けんばかりの盛大な送別の儀式がおこなわれた。

 ふりそそぐ祝福の歓声、天上の楽の音、馥郁と香る花吹雪。バクトリア産の駱駝に揺られて、遠い異国ウイグルにとつぐ花嫁は地上に舞いおりた天女のごとく麗しかった。高く結い上げた髪をとめる半透明の白い羊脂玉の釵子《さいし》、黄褐色に血のような斑点がうかぶ鼈甲《べっこう》のかんざし、星がまたたく夜空を思わせる青金石の耳飾り、蜜色の涙がこぼれた琥珀の数珠。沈香と麝香の混じりし吐息は夜明けの夢のごとし。絲綢之路《シルクロード》の交易で帝国が手に入れた栄華を身にまとうは、皇帝の妹である太和《タイヘ》公主であった。

 ウイグルの騎馬隊が勇ましく先頭をきり、つづいて高貴な花たる公主と騎乗した侍女たち、唐国の使節団、最後をウイグルの可汗《かがん》(王)への贈り物を積んだ駱駝隊がうねる長蛇のように進んでいく。それは帝国の威信をかけた豪勢な花嫁行列であり、すべてが門道をぬけるまでに日が暮れそうなほどである。

 ウイグルの都まではいくつもの山を越え、果てしなく広がる沙漠を渡っていかねばならぬ万里の道のり、たどりつくのは冬の最中になろう。

 とどろく鼓の音にあわせて、先をゆく隊列が土埃をあげて門道に入っていく。

 ついに公主はこらえきれず、振り返った。最後に、眼に焼き付けておきたかった。だが、絢爛と咲き誇る大輪の牡丹のごとき都が、雨にけむるようににじんでしまう。頬をつたう涙の熱さ。

 ——さらば、我が故郷よ。



 太和公主が異国に降嫁する運命を告げられたのは、旅立ちのわずか一ヶ月前のことであった。


 けたたましい鳴き声が静寂《しじま》を破った。宝石より貴重な南国の貢ぎ物、人の声をまねるという鸚鵡が純金に翡翠が象眼された鳥籠の中でわめいている。それは彼女の代わりに、ままならぬ運命に抗議しているようだった。

 陽射しをうけて格子窓の影が床におちる午后、池の中の亭は熱帯の花の薫りで蒸せんばかりである。

 彼女は清らかな睡蓮のごとき顔をあげた。

 卓子を挟んで座っている帝の顔は前に会った時よりもやつれていた。目には苦渋がにじんでいる。妹の幸せを願う兄であることより、この大帝国の皇帝としての責任を果たさねばならないからだ。

 古来より、公主は国境をおびやかす異民族の王への最も高貴な贈りものであった。ウイグルは、その異民族国家のひとつであり、今までにも三人の公主が送り出されていた。そして四人目となる公主は、彼女の姉——永安公主のはずであった。

 嘆く姉を不憫に思っていたが、運命とはわからぬもの。長安を発つ前に婚約をしていたウイグルの可汗が死去したのだ。これで白紙に戻ったかに思えた。しかし、一年後にウイグルの使節団が長安にやってきたのである。新しい可汗の花嫁として永安公主を迎えるために。だが、ふたたび遊牧民の野蛮な国に嫁がされることを怖れた永安公主は、すでに道教の道師となって世俗を捨てた後であった。

 残された皇帝の姉妹のうち、独身の結婚できる年頃の公主は彼女しかいなかった。

 駱駝の毛で織ったやわらかな布地、金襴織り、黒貂の毛皮、翡翠の帯、駱駝千頭、馬二万頭。それが唐の公主を購うためにウイグルの可汗が差しだしたものであり、皇帝は同盟を結ぶためにすでに受け取ってしまっていた。

 どうして断れようか。重圧に耐えている兄をこれ以上、苦しませたくはない。それに拒絶すれば、まだ幼い妹に異郷に嫁ぐ運命を負わせることになる。

 だからこそ、彼女は毅然として答えた。

「兄上、ウイグルには妾《わたくし》が参ります。祖国の安寧のために尽くすことは公主の務めであれば、異郷の地に果てようとも恨みはございません」

 一転して、朗らかな声をだす。

「妾は宮城に閉じこもっていることを好みません。ウイグルは名馬の産地。妾を乗せて天に駆け上る天馬もおりましょう。草原を風となって駆ける楽しみに勝るものがあるでしょうか。ですから、兄上。ご安心ください」

 兄は彼女の手を握りしめ、涙ぐんだ。

「ウイグルは昔日のような強国ではない。時機がくれば、お前を連れ戻そう。いつか、いつか、必ず」

 鸚鵡の甲高い声が、昼下がりのけだるく微睡む空気を切り裂いた。彼女の代わりに嘆くように。沙漠の蜃気楼のごとき約束よ、と。

 彼女は黙して答えず、ただ、ほの白いかんばせに微笑を浮かべるのみであった。



 公主は避暑で宮城を離れる以外は、都を出たことがなかった。旅は書物と絵画のなかにあった。たとえば、しらじらと明けゆく稜線の優美さ、夕暮れ時の竹藪のざわめき、月に照らされた松林の閑けさ。それらはすべて季節によって移り変わる花鳥風月の美を言祝いでいた。

 旅が絵で見た通りだったのは、北の地平にそびえる隠山山脈を越えるまでだった。晩夏に長安を旅立った公主のキャラバンが、ウイグルの領土であるゴビ砂漠に入ったときにはすでに秋は過ぎ去っていた。

 乾いた風が砂塵を巻き上げ、吹きあれる。木は一本も生えてはいない。川や泉を探しても無駄だ。ここには水が出る場所はない。ただ轟轟と泣き叫ぶ風にうねる沙《すな》の海と墓標のごとき赤茶けた岩石があるばかり。故国の面影はどこにもない。

 それでも最初の二ヶ月はまだ天候は穏やかであり、景色を見る余裕もあった。初めて目にした沙漠の壮絶な落日には、息が止まりそうになったものだ。

 だが次第に乾いた空気が凍てついていき、分厚い布で顔を覆わなければならなくなった。起きて寝るまでの間、目にするものは白く覆いつくす吼え猛る吹雪のみ。

 毎朝、侍女の手で衣服を着せられ運ばれてきた朝餉をとり、従者が用意した駱駝に揺られて長い一日がはじまる。毎夕、朦朧として野営地に着く頃にはすでに天幕は張られている。絨毯を踏みしめ、椅子に座って一息つくと同時に手を洗うための水が運ばれ、卓上に湯気をあげるお茶と宮廷で食べていた数々の点心、果物の砂糖漬け、そしてウイグル兵士が狩った羚羊《カモシカ》の焼肉が並ぶ。次の日もまた同じことのくりかえし。いつしか旅の情景を詩に詠むことも、長安の都を想いながら月を見上げ、琴を弾くこともなくなった。

 いつ終わるとも知れぬ旅は、霜焼けの手とおなじく、公主の感覚を奪っていく。それでも消せないものがあった。胸を刺す一つの詩があった。肌を刺す凍てついた風よりも痛切に。


 家族が妾を追いやった

  天の彼方の地の果てに

 遙か異国の王のもとへ嫁がせるため

 毛氈の丸い天幕を住まいとし

  食べ物といえば獣の肉と酸っぱい乳ばかり

 日々募る望郷の念は深く

  涙でも埋められぬ

 願わくば白鳥となり故郷に帰らん


 遙か昔にこの詩を詠んだ、草原の王に嫁がされた漢の公主のように渡り鳥に想いを託したくとも、公主が見上げる空には鳥も飛ばぬ。

 沙漠を渡る風が慟哭するばかり。


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