第三話
草原に夏がやってきた。草花がいっせいに芽吹き、短い命を燃やす季節が。
彼女は馬と一体となって走っていた。重くよどんでいた悲しみが風にふきとばされ、草原をおおう蒼穹にむかって鳥と化して飛翔するよう。気がつけば彼女は声をあげて笑っていた。
昨日は可敦の帳舎にて帰国する使者を招いて盛大な宴をひらいた。将軍をはじめ三人の使者と別れる辛さに大声をあげて泣いた。また一つ、祖国の縁と切り離される痛みに一晩中、泣き明かした。そのせいで目は今も腫れている。
翌朝、長安に旅立つ使節団を見送った後、魂魄が抜けたように立ち尽くしている彼女を可汗が遠乗りに誘った。少しでも悲しみをまぎらわせようと気遣ってくれる、夫の優しさが胸にしみる。
馬から下りた彼女は、雲雀のように歓びの声をあげた。白の鈴蘭、黄色の母子草、紅紫の風露草、青紫の竜胆、薄紫の松虫草、緑野を彩る花の波が風にそよいでいる。
可汗はおもむろに鈴蘭を手折り、彼女の黒髪にそっと挿した。微笑む彼女を抱き寄せて。
「——太和は独りではない。おれがいる。だから悲しいときはおれの腕のなかで泣け」
夫の腕のなかで流した涙は、彼女の空洞を満たしていく。彼がいるかぎり、この異郷の地で生きていける。草原を故郷として、母のように慈しもう、と——だが、夏は去っていった。夫は彼女を残して、この世から去っていった。
二年にも満たない結婚生活だった。
夏が再びめぐってきた。南から渡り鳥が帰ってくるように、新しく即位した可汗を祝うために唐の使節団がウイグルの都を訪れた。公主が心待ちにしていた故郷の便りをたずさえて。
だが、ひさしぶりに太陽のように明るく輝いた顔は、故郷の知らせを聞いた途端に曇った。彼女の夫が亡くなった年に兄である皇帝も崩御したというのである。
——あのときの約束は、やはり沙漠の蜃気楼だった。
守られぬ約束だと知りながら、それでも兄だけが頼りだった。きっといつかは帰ることができると思えば、寄る辺なき悲しみを耐えることができた。その故郷とのつながりが絶たれてしまった。
渡り鳥が南に旅立つように、使節団は長安の都へと戻っていく。その隊列のなかに太和公主の姿はなかった。新しく皇帝になった彼女の甥は、ウイグルとの同盟を維持することを望んでいたのだ。公主をふたたび贈るには、国庫を逼迫させるほどの大金がかかるのだから。彼女が帰国すれば、今度は妹たちが犠牲になるのだから。それになにより、夫が彼女に残してくれた息子がいる。どうして我が子を残して帰ることができるだろう。喪が明ければ、新しい可汗に嫁がねばならないとしても。
息子を育て上げるまでは、この地で強く生きなければならぬ。
それからも唐からの使節は、数年ごとにやってきた。
そしてその度に、彼女は故郷へ帰っていく隊列を見送るのだった。
短い夏が終わり、水鳥の群れが南へと向かうとき、天に到らんと馬を走らせる。されど天馬にあらず、地を駆けるのみ。独り残され、紺青の穹廬となって四方の茫々たる草原を籠蓋する蒼穹の下。
郷愁にかられるたびにくり返す詩が、白い息となってのぼりゆく。
——願わくば白鳥となり故郷に帰らん。
公主のかんばせは、睡蓮のように清らかな白であった。
故郷を離れて、二年の歳月が流れ、夫は戦で命を落とした。公主は自らの手に小刀を握り、顔に傷をつけた。それがウイグルの服喪の儀式であったから。
——睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に一つの傷。
最初の夫の弟に嫁がされ、故郷を離れて八年の歳月が流れた。
二番目の夫は、暗殺で命を落とした。
——睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に二つの傷。
二番目の夫の甥に嫁がされ、故郷を離れて十七年の歳月が流れた。
三番目の夫は、臣下に裏切られ自ら命を絶った。
——睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に三つの傷。
四番目の夫は、どうなった。嫁ぐ前に侵略者の手にかかって血祭りに。
——睡蓮は白いまま。血の海のなかで、清らかに咲いていた。
ウイグル帝国の都オルド・バリクが燃えている。
内乱、飢饉、伝染病の流行、大雪で国の財産である羊馬が多く死ぬなど、災難があいついでウイグルを襲った。とどめをさしたのは、侵略であった。政変で国を追われた臣下が隣国のキルギスと手を組み、十万の騎兵がウイグルの都城を攻め、可汗を殺し、火を放った。ウイグル帝国は崩壊した。
こうして太和公主の三年におよぶ放浪の旅がはじまった。
都が落ちた日、彼女はキルギス軍に捕らえられた。恐怖する彼女に、キルギスの王は云った。我の姓は唐朝とおなじ李姓である、部下に守らせて唐国へ帰国できるようにしよう。しかし、その約束は守られなかった。
ウイグルの諸部族は各地に散じたが、そのうちの十三氏族は新しい可汗を奉じ、公主を奪回するべく、キルギスの部隊に襲いかかったのだ。
血の海の中、呆然と立ち尽くしていた公主を奪回したウイグル軍は、南の大沙漠を渡った。同盟国である唐をめざして。
ようやく夢見てきた故郷に帰ることができる。だが、十七年前にたどった道を行きながら、公主は悲劇を予感していた。飢えた狼の群れにひとしい十万以上のウイグル人の大群を祖国が歓迎するわけがない。
唐帝国の国境に到着した年、政府は太和公主の要請にこたえ、ウイグルの民に食糧を与えて、暴徒と化さないよう彼らを慰撫した。
明くる年、公主が怖れていた通りになった。
彼女の制止もむなしく、太和公主を奉じたウイグル軍は、唐帝国の領土に襲いかかり、略奪と殺戮の限りをつくした。唐朝は討伐する大義を得て、雲霞のごとき大軍でウイグル軍を駆逐していった。
彼女は唐王朝の公主であるよりも長くウイグルの可敦として生きてきた。民は彼女を母と慕い、彼女は民を子どものように慈しんできた。それでも彼女は唐朝の公主である。祖国の民を殺し、略奪する彼らを止められないおのれの無力さに絶望した。両国の平和のために尽くしてきた二十年の歳月が無残に踏みにじられていく。
戦に負け続け、追い散らされたウイグル軍は、後に殺胡山と名づけられた場所で最期をむかえた。彼女の民は虐殺された。この世の唯一の希望だった息子も戦場で命を落とした。
血の海の中、呆然と立ちつくしていた彼女は、唐帝国の将軍によって助け出された。
死者のうつろな眼窩が、彼女を責めている。
可敦よ、あなただけが助かるのか。我らを見捨てるのか——
けたたましい鳴き声が、熱に浮かされた浅い睡りを破った。
——ああ、夢だったのか。
死の間際に一生を夢見るという。
——では、やっと妾の命が尽きようとしているのか。
けだるく、牀から身を起こし、窓辺の鳥籠を見る。三年にわたる放浪生活に心身を打ちのめされ、帰郷を果たしてまもなく発熱し寝込んでしまった公主のために、帝から見舞いとして贈られた鸚鵡は雪の白さ。遠い南国の密林から連れてこられた鳥は宮廷で珍重されていた。遙か彼方の北国から帰還を果たした公主もまた。
「妾もお前と同じ、宮廷で飼われている珍しい鳥」
ほろ苦く笑う。すると鸚鵡はうなずくように首を振りながら、太和公主帰還の詩を詠いだした。
異郷に嫁いだ公主は戦塵にまみれ
転戦の末に物悲しく帰還する
匈奴にさらわれた蔡姫の笛の音には愁嘆が宿り
明妃も漢の宮廷から匈奴に嫁ぐ悲運を嘆いた
豪奢な宮殿から夷狄の天幕に住まい
絹の衣をぬいで獣毛の衣をまとう
兵車に乗って戦場から
宮殿に入城し祖廟を拝謁した
封じた記憶を流そうと髪を洗おうとも
殺胡山での悲劇をくりかえし夢見る
雁が北に向かえば微笑みながら見守り
鵲が南に向けて飛べば詩を吟じる声がやむ
流行の宮風に結った髪で溜息をついて
庭の草木に草原をかさねて懐かしむ
共に旅立った侍女の多数が還ること叶わず
今では家内を良く知る者に事欠く有様だ
鳳凰は夜に閉じられた楼門を去ったが
鸞鳥は蓋を閉めた小箱の中で輝いている
柳苑で哀れんではいけない
風にそよぐ柳のように名残惜しくなるばかりだから
公主は息が尽きるまで長々と嘆息した。
「どうして人は失われたときに気づくのだろう。妾はもう還るところはないが、お前だけは故郷へお帰り」
鳥籠を開け、鸚鵡を放つ。鸚鵡は雪片のごとき羽根を残し、丸窓を越えたとたんに忽然と消えてしまった。まるで空に吸いこまれたかのように。
どこに行ってしまったのか。不思議に思い、窓から首をだして覗いた。その見開かれた、潤んだ眸から一粒の涙がこぼれた。
そして窓枠に手をかけ、羽衣をまとったように公主は軽やかに彼方へと飛んだ。
青金石をくだいた顔料で刷かれた空の下、白鸚鵡に導かれ、花嫁は花婿とともに比翼の鳥のごとく草原を駆けていく。
その絵の中に屏風絵がある。白蓮が咲きみだれる池の中に亭があり、純金に翡翠が象眼された鳥籠の中には白い羽根が残るのみ。
またその絵の中に屏風絵がある。白檀の牀に横たわり微睡んでいた、睡蓮のように清らかな佳人の姿は、消えていた。
開けはなたれた窓から、梨花のはなびらがはらはらと、太和公主と題された屏風にふりそそいでいる。
18年前の作品です。
2008年度の覆面作家企画に参加したものにロマンスを追加し、入れ子構造にしたものです。
昔書いたものを読み返していたら、今の集中力が持たない私が読んでも、一万字近くあったのに一気読みできたので、このまま誰にも読まれないのはなぁと思って公開しました。




