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第四章 成りきれない幸福











「海、ちょっといいか?」


教室でぼんやりと外を見ていた海に声をかける。

 海は隈がひどくて、少しやつれているように見えた。


 本当は海が声をかけてくるまで何もしないつもりだった。私からかけられる言葉なんて存在しないと思っていたから。けれど、マリアと話して考えが変わった。


 今この時に腹を割って見るべきだ。心が整理しきれない今ならきっと飾らない本音が話せる。私も海も。

 互いに汚い気持ちごと明け渡そうじゃないか。


「み、こと……?」


海は目の前に私が立っていることが信じられないようで迷い子のように途方に暮れた顔をしている。


「ちょっと来い」


動かない海の手首を掴み、無理矢理立たせて手を引く。海は触れた瞬間、体をこわばらせたけれど、引かれるがままについてくる。

 黙って歩き続けた私と海は適当な教室に入った。そして、鍵をかける。

 教室は埃っぽくて、周りには人気もなかった。ここは使われていない教室なのだろう。

 私は机の埃を払って腰掛けた。そして、突っ立っている海を見上げる。

 海はこちらを見ない。恐れるように足元を見ている。


「なあ、海」


名前を呼ぶと海はバッと顔を上げた。そして、小さく、名前……と呟いた。


 そう言われて、初めて海の名前を呼んだことがないことに気がついた。

 私たちは魔女に名前を呼ばれると呪われると言われていた時代に生きていた。実際、本当に呪われるのかと言われれば少し違うのだけれど、面倒で私は呼ばないようにしていた。だから、名を呼んだのは約束をしたあの日に一度だけ。


 海がそんな細かいことを覚えていることに驚いた。名前なんて呼ばれても呼ばれなくても同じだろうに。


「ちゃんと話をしようか」


海は衝撃から抜けられないようで反応しない。呆然と私を見ている。

 それに構わず、続ける。


「元々な。私は海が覚えていようがいまいがどっちでも良かったんだ。お前が幸せになるならそれで。そんな気持ちで約束したからこうなったのかな……」


遠くを見る。

 マリアと話してから少し過去を振り返った。そして、思い出した。

 いつの間にか海に忘れられていることが辛くなっていたけれど、初めはそうでもなかったのだ。いや、海が幸せになれるなら、と心を誤魔化せた。

 その気持ちも嘘ではなかったから。


「すまない。私の落ち度だ。だから、気にしなくていい」


そこまで言って一度言葉を止める。そして、海が口を開こうとするのを手で制して続ける。


「ここまでが建前だ。嘘はないけどな。続きを聞きたくなかったら帰っていいぞ」


手で扉を指す。

 きっと帰らないだろう。けれど、少し手が震える。海がここから消えたなら、きっともうこれっきりになってしまうのだから。

 震える手を隠すように私は腕を組んだ。


「俺はここにいるよ」


強く目を向ける姿に、その言葉がまるで私の隣にいるという宣言のように聞こえた。きっと気のせいだけれど。


「そう……。私はな。ずっと死んでしまいたかったんだよ」


海の反応が怖くて私は目を逸らした。目があえば言葉が止まってしまうと思ったから。


「お前が私の前を通り過ぎていく度、他の人と生きる度、消えたかった。だって約束なんて意味なかったじゃないか。私だけが巡ってお前は覚えていなくて。なら、私はどうしてここにいる」


一息に言い切って、泣いてしまいそうだとどこか他人事のように思った。


「けど、もしかしてが捨てられなかったんだ」


浅ましく期待して、裏切られて。

 いや、きっと裏切りではなかった。約束の不備だというなら自業自得だし、そもそも分不相応な気持ちだったのだ。

 乞われて、舞い上がって……。けれど、海のことを疑ってはいなくとも、信じ切ってはいなかったのだから、この呪いは私の心がそのまま反映されていただけなのかもしれない。


 けれど、それでも、私が海の幸せを祈ったことも、再会を願ったことも嘘じゃない。


「笑えるだろ。その癖お前が覚えていたら逃げるんだ。覚えていたら覚えていたで落差が怖くて仕方ない。いやになるよ、全く」


茶化すように肩をすくめて、海を見る。

 海は口を引き結んでこちらを見ている。表情は抜け落ちていた。


「俺、みことに嫌われたんじゃなかったの…」


「嫌いにはならないよ。もう今更なれないな」


「そっか。ごめんねみこと。俺何も知らなくて……」


海は少し安堵を滲ませた息を吐いて、眉を寄せた。


俺命みことと初めて会った時、もう何もかもが嫌になってたんだ。それでフラフラ地下牢に降りたらみことがいて目を奪われた。怖い癖にそれを隠して朗々と話す姿がかっこいいと思ったし、意志の強い目が好きだった。魔女って美しい生き物なんだなって……。その後、それは魔女全体じゃなくてみことがそうなだけだって知った」


一度目を閉じた海は懐かしそうに目元を緩めた。それはとても幸せそうに見えた。


「あの時、魔女は人を喰うものだって言われてたから、食べてほしいと思ってたんだ。全て捧げたら俺はきっとすごく幸せだろうって」


海は私をしっかりと見つめた。そして、強く言う。


「だからね、俺は幸せじゃなかったよ」


何を言い出すのだろう。

 なんだかとても苦しくなって奥歯を噛み締める。


「実際のところなんてわかならないし、言い訳に聞こえるかもしれない。けど、これだけは言える。みことに会えない俺は不幸だった。きっとじゃなくて絶対不幸だったんだ」


力いっぱい言われてなんだか力が抜けてしまった。少し笑いが漏れる。


「ほんとだよ!嘘じゃない!みことがいない俺なんて死んでるのと同じだ!今回だってみことに会うまで能面みたいな顔して生きてたよ!」


信じていないと思ったのか、身振り手振りを交えて話し出した海に、遂に笑いが止まらなくなった。

 そんな私に慌てて海はわたわたと忙しなく手を動かし困っている。


「そっか……そっかぁ……」


今の言葉が私を宥めるための嘘でもいいと思った。もうこうして言ってくれただけで嬉しいから、嬉しいと思えたから、私はきっと満足なんだ。


 なんだか晴れやかな気持ちになって、一粒溢れた涙を拭う。









「ところで、お前誕生日いつだ?」











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