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第三章 赦しの一端











 蝉の声がうるさい季節になってきた。

 湿度の高い熱が体に汗を滲ませる。

 私は火傷しそうなほど熱されたアスファルトの上を歩いていた。そして、海の幼馴染の彼女に手首を掴まれ引かれている。

 今日は目が痛くなりそうなほど青が広がる晴天だった。まるで海のようだと思った。

 いつだって海を頭に浮かべてしまう自分に苦笑する。


「どこに行くんだ」


「黙ってついてきなさい」


「できれば、体育倉庫はやめてほしいんだが」


「はあ?そんなとこ行くわけないでしょ」


馬鹿にしたような声が返ってきて、笑いそうになったのを手で押さえる。

 彼女は思ったよりも善良な人間だった。殺意のこもった視線は感じるものの、初め以降直接何かをしてくることはない。今だって私を痛めつける意図は無いようだった。


 可愛らしい彼女を後ろから眺める。庇護欲そそるような相貌の彼女がなんとなく微笑ましいように思えた。




 逆らわずについていくと、彼女が立ち止まったのは可愛らしい外観の家の前だった。

 それは優しいクリーム色の家だった。彼女はその色と違わぬ、柔らかな雰囲気の家庭で育ったのだろう。少し彼女の善良さに納得いった。

 そんな風に家を見ていると、彼女は呆れたように私を睨んでいた。私が苦笑を返すと、彼女は無言で中に入っていってしまった。私は少し躊躇してから、彼女の後を追った。

 案内されたのは彼女の部屋だった。机に教科書があるから多分そうだ。それにパステルカラーで統一されたこの部屋は彼女のイメージにピッタリだった。

 そんなことを思いながら、鋭い表情の彼女の向かいに私は座っている。


「あなた一体海に何をしたの!あんな海見てられない!」


彼女の言葉にしばらく話していない海を思う。

 今の海はまるで抜け殻のようだった。四六時中ぼんやりとしていて、私が近くにいても気づかない。

 私の姿が見えていない海に過去の記憶が刺激される。込み上げてきそうな感情を無理矢理飲み下して、彼女の目を見つめた。


「あれは海の中の問題で外野が何か言った所で意味ないんだ」


「はあ?」


訝しげにこちらを見ている彼女に無理矢理口角を上げる。

 今からするのは馬鹿みたいな与太話だ。


「……自分が絶対だと信じていた世界がひっくり返ったらどうする?」


「新しい世界でまた一から始めるわよ。じゃないと生きていけないじゃない」


彼女は当然だというようにそんなことを言う。

 海とは違った意味で眩しいと思った。真っ直ぐで清廉な人間だ、と。

 

「強いな」


そう言葉を落とすと、眉を寄せられる。


「あなたはどうなの?」


「私は……諦めて閉じたんだ。そして、死んだ」


私の二回目について思い出す。


 目の前を通り過ぎていく海を私はどんな気持ちで見ていたのだろうか。摩耗した私では思い出せないけれど、ただ胸が痛い。思わず胸元を握りしめる。そうしたからって痛みがマシになることなんてないのだけれど。


「何怖いこと言ってんの?意味わかんない」


全く怖がった様子ではない彼女を見る。

 きっと何かの比喩だと思っているのだろう。それでよかった。

 こうして吐き出してはいるけれど、理解されたいわけでない。わかったように何かを言われたのなら私は何をしでかすかわからない。


「だって死んだらもう会えないんだ。彼がいないと世界なんて意味がないんだ。なら、自分がそこにいる理由なんてないだろう?だから、全部捨てて追いかけたんだ」


そうだ。追いかけた。

 彼が覚えていない時点で死ななかったのは意地だった。

 彼の幸せを祈っているのは嘘じゃなくて、もしかしたら幸せそうな姿が見られるのではないかと、その場にいた。もしかしたら思い出すのではないかという気持ちも少しあったけれど、きっと彼が死にさえしなければ私は最期まで祈れたんだ。


「ほんっと何が言いたいのかわかんないけど、そんなに愛してるなら追いかければいいんじゃない?倫理的にはよくないだろうけどさ」


適当な調子で返されたその言葉に、何故だか少し救われてしまった。自分が赦された気がして胸が詰まる。

 けれど、私は。


「愛してる……」


そんな言葉とうの昔に無くしてしまった。


 いつの間にか海のことだけを祈れなくなっている自分に愛なんてそんなもの。

 海が私を見つけない世界に愛なんてそんなもの。


 あるわけがない。


「愛してんでしょ。何、違うの?」


けれど、彼女の言葉に違うとは言えなかった。言いたくなかった。

 崩れそうに感じるこの心がそれでも愛という存在を捨て去りたくないと泣く。それを見たくなくて平静を装って答える。


「いや、愛してたよ。けど、今はわからない」


誤魔化すような言葉だったのだけれど、彼女はつまらなさそうな顔で、興味なさげに言った。


「なら確かめればいいだけじゃん」


「確かめる?」


どういう意味かわからなくてじっと彼女を見つめる。

 それに気づいた彼女は少し考えてから口を開く。


「例えば!会いに行って抱きしめて愛を囁く。嘘なら罪悪感が湧くだろうし、心がないなら拒否感がある。愛してるなら心がギュッてなる。はい終了!」


手を叩いた彼女はとても嫌そうな顔になっていた。今にも舌打ちしそうだ。


「どういう話か興味ないし、てか詳しく聞きたくないからその話禁止。海との話だとか言いだしたらぶっ殺すから!」


思わず笑ってしまった。

 色々思うことはあったはずなのに一瞬で飛んでしまった。

 そして、さっきのわけわからない話が海との話だとわかっている癖にそんな風に言う彼女に懺悔したくなった。

 これほどまでに海のことを大切に思っている人の前で逃げ続けている自分が情けない。


「あなた性格悪そうなのにこんなポンコツだったとか。実は天然ですとか言わないわよね。そんな媚び売るような女大っ嫌い」


彼女は私の嫌なところをあげつらっているけれど、私は全然嫌な気持ちにならなかった。

 むしろ彼女の素直な感情が美しくて、少し羨ましく思ってしまったくらいだ。


「優しいんだな」


「はあ?あなた目はついてる?耳聞こえてる?」


気持ち悪いものを見る目を向けられて、嬉しく感じた私はもうダメなのかもしれない。


「名前教えてくれないか?」


会話をしない私に彼女は大きく溜息をついた。それでも答えてくれる彼女とは海がいなければ仲良くなれたに違いない。

 欲をいえば魔女の時に彼女に会いたかった。


「……マリアよ」


「ぴったりだな」


「はあ!?馬鹿にしてるの?どう考えても似合わないでしょ!」


怒鳴るマリアに首を傾げる。これほど慈悲深い人間もいないと思うのだけれど。

 私が不思議そうにしているのがわかったのか、マリアはガックリと力を抜いた。


「あなたと話すと疲れるわ……。もう帰って。あなたと話すだけ無駄だったわよ」


マリアは顔を顰めて追い出すように手を振る。

 もう少し話してみたかったと思いながら、家の外に出た。私が玄関から出た途端、勢いよく扉が閉められて、彼女の一貫性に笑う。

 ここまでくるといっそ清々しい。


 私は家へと歩きながら、海に心を馳せる。

 今度はもう少しちゃんと向かいあえる気がした。











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