第九章 ああ、やっと
何故だか最近、世界がいやに明るい気がする。眩しくて、優しくて、温かい、そんな世界。
今の私は心がとても軽かった。生きるとはもっと重いものだと思っていたはずなのに、不思議だ。
私は私のまま何も変わってなんかいないのに、感覚だけが変わっている。それが少し気味が悪い。けれど、今が幸せなことはわかった。
海とずっと一緒にいるのだからそれ以上に幸せなことなんてない。だから、私の胸はもうずっと跳ねている。
今日だって、海と過ごす予定だ。
十一月一日、私の誕生日。海の家でパーティをするらしい。二人でパーティなんてと思うけれど、海の気持ちが嬉しかった。
私は鏡の前で今日着る服をあれでもないこれでもないと選んでいた。
楽しみだからだろうか、今日はいつも以上に胸がはやっている。そんな自分に苦笑しつつ気にせずにいると、段々胸が気持ち悪くなってきた。胸元をさすりながら落ち着けようとしたけれど治らず、急に迫り上がってきたものをその場で吐き出した。慌てて覆った手に水分が付着している。
ポタリと一滴何かが垂れた。足元を見ると、それは鮮やかな赤色だった。恐る恐る手を見る。地面に落ちたものと同じ鮮烈な赤がべったりとついている。血の甘い香りがする。
キーンと耳鳴りがした。
どうしたらいいのかわからなくて固まっていると、もう一度吐き気がして、今度は手で押さえても防ぎきれないくらいの量が吐き出される。
体の力が抜けていく。私はその場に倒れた。
視界は変な色で彩られていてそれが気持ち悪くて目を閉じる。そこにはあの夢の世界が──。
いや、違う。これは夢なんかじゃない。私の記憶だ。私が絶対に忘れたくなかったものだ。
奇跡が起こって思い出せた、なんて甘いことは思わない。最近の動悸とこの現状が理由を物語っている。
私は死ぬのだ。だから、全てを思いだした。
悪趣味な話だ。忘れたままでいれば、もっと楽だったろうに、思い出した私は海に会いたくて仕方がない。
涙が溢れる。
さっきから止まらず吐き出される血液が逆流して、息が苦しくて窒息しそうだ。喘ぐようにしてどうにか息をして世界を繋ぎ止める。
さっきから耳鳴りは酷くなるばかりだし、視界は相変わらず原色の光が明滅している。息だってきっともうすぐできなくなる。
ああ、海に会いたい。
死ぬ間際に思うことがそれだなんて、少し笑える。どれだけ海のことばかりなんだって。
笑おうとして咽せて咳をしていた時に、聞こえないはずの声が聞こえた。
「命ー?鍵開けっぱなしなんて不用心だよ」
幻聴だろうか。海の声がする。
これだけで、とても満足だ。幻聴でも海の声が聞こえたならそれで。
「命!?」
悲鳴のような声が聞こえる。薄く目を開けると、相変わらず変な色の視界に海が映っている。
今度は幻覚か。けれど、手を伸ばした。その手を海がギュッと捕まえる。
「う、み?」
「そうだよ、命!しっかりして!」
「これで、呪いは……おわ、りだ」
焦点を結べるうちに海のことを焼き付けておきたかった。
「み、こと……?」
「もうあえない、のはさみしいけど、お前の死ぬすがたを見なくて、いいのはいいな」
涙を抑えて笑顔を作る。
「いやだよ!俺と生きるって言ったでしょ!」
「なくな、うみ」
涙を拭ってやりたくてももうそこまで動けない。震える手で海の手を握るのが精一杯だ。
「俺ついて行くから!置いていくなんて許さないから!」
「いうとおもった」
吹き出しそうになって咽せて咳をして、血を吐き出す。
「すきにすれ、ばいい。うみがしあわせに…なれる、ならいい、よ。ゆるして、やる」
「今度はずっと一緒だから!だから、待っててね!」
海は顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら笑っている。
ふふ、かわいいな。
「やっぱり、おまえを」
──あいしてるよ
今とても安らかな気持ちだ。
私の人生はとても幸せだった。海が生きているだけできっと私は満足なのだ。
その上、こうして泣きながら看取ってもらえるのだから、これ以上の幸せはない。
これからの海に幸多からんことを。




