黒
ザンディアはクーシャの言葉に息を呑んだ。視線を落とし、ゆっくりとクーシャの顔を覗き込むと疲弊し切って目に濃いクマを刻み込んでいた。
「そうか...悪いこと聞いちまったな。クーシャもなんか持ってけよ。話を聞かせてもらった礼だ」
「...ありがとう」
クーシャは一粒の滴をカウンターに落とし、急いで目を拭った。紙袋に入れられたパンを受け取るとクーシャはカンタレラを呼ぶ。
「行きましょうお嬢様。遅くなってしまい申し訳ありません」
「謝ることじゃないよ。それより聞いて!このカップケーキ中がひんやりしてて美味しいの!一口食べて!」
相変わらずの様子にザンディアは笑う。
「気に入ったようで何よりだよ!またいつでもおいで」
うん!、元気な返事を聞きザンディアは慌てて後ろを向いた。明らかに不自然な動きにクーシャはすぐ察し、伸ばしたてを引っ込めてカンタレラを呼ぶ。
「お屋敷の方で味見させてください。行きましょうお嬢様。ありがとうザンディア」
「クーシャ」
帰ろうとしていたクーシャはザンディアの声で振り返る。
「できることなら、なんでも手伝ってやる。いつでも言えよ」
一瞬の静寂を裂きクーシャは答える。
「ええ、もちろん」
ザンディアはクーシャの小さく歪んだ口元がクマをより濃く見せたように感じる。それにはザンディアも笑顔を返すことはできなかった。
◇◇◇
二人は屋敷に帰った。豪華な装飾があっても出迎えはない。以前静けさを保ったままだ。クーシャは昔の賑やかだった屋敷をたまに思い出してしまう。メイド長の怒鳴り声、食器を運ぶ音、賑やかな笑い声が屋敷の中には溢れていた。
今では、二人だけだ。
「お嬢様、どこに行くのですか?まだ手を洗っていませんよ。お薬もまだです」
「えーあれ美味しくないしー手も別に汚れてないよー」
カンタレラは靴を放り投げて自室に逃げようとした。クーシャは上品に靴を揃えると長い廊下を走るカンタレラに手を向ける。照準を合わせて魔術を放った。
「幽玄なる引力<グレービアス>」
クーシャの魔術はカンタレラに直撃、瞬く間にカンタレラは洗面台に連れて行かれた。はいはい、とふてくされながら手を洗うカンタレラの背中を見てクーシャはふふっと笑いが溢れる。
「笑わないでよ!ずるいじゃん魔術は!ていうか、いつになったら教えてくれるの?私も強くなりたい!」
「まあ、お嬢様が大人になったらですかね。まだ早いです」
クーシャの言葉にカンタレラはそっぽを向いてしまった。クーシャはエプロンの帯をしめ直し、カンタレラに近づく。
「お嬢様、私が間違っていました。もうお嬢様はほとんど”大人”でしたね。それを考慮していまからとっておきの魔術をお教えします」
ほんと!?、カンタレラは目を輝かせた。
「もちろんです。では目を閉じて口を開けてください。そして上を向いてー...あーって言ってください」
「あー、ねえこれどんなまじゅt...」
うぎゃ!っと断末魔が洗面所に響く。クーシャはカンタレラに水の入ったコップを差し出す。カンタレラは慌てて水を流し込みゼエゼエと荒い息をする。
「ひどいよ!薬無理矢理飲ますなんてえ!!」
「これはお薬をどさくさに紛れて飲ませる魔術です」
呪いの進行を抑えるためにクーシャが独自に配合した粉薬は尋常じゃないほどに苦い。なんでも治すほどの万能薬だが、これが呪いを抑えられているかはクーシャにはわからない。ただ文献を信じることしかできないのだ。
「クーシャなんか嫌い!」
そう言い捨ててカンタレラは洗面所から駆け出してしまった。似たようなやり取りを二人は何百、何千回と繰り返している。
カンタレラはそのまま部屋にこもってしまった。こうなるとクーシャがご機嫌を取らない限りなかなか出てきてくれない。
クッキーを盛り付けた銀のトレイを持ってクーシャはカンタレラの部屋をノックする。3回のノックが廊下に響いた。
「お嬢様先程は申し訳ありませんでした。冗談が過ぎましたね。おやつを持ってきたのですがいかがでしょうか?」
部屋の中から返答はなかった。
いつものカンタレラなら拗ねていようが"おやつ"の一言には逆らえない。明らかな異常とクーシャは冷や汗を垂らす。クーシャはドアに耳を当てて中の様子を伺う。
中では小さな水音、嗚咽が聞こえた。
クーシャは猛然と横蹴りでドアを蹴破った。
「お嬢!...様...!」
ベッドの横で床に伏しカンタレラは途方もなく黒い吐瀉物を撒き散らしていた。カンタレラの目は困惑と恐怖を潰して溶かしたように見える。ふうふうと必死に息を吸うカンタレラにクーシャの手は震える。
「カン...お嬢様!一体何が!」
「ッ待って!だ、め」
カンタレラは駆け寄るクーシャを止めようとしたがクーシャはその静止を無視してカンタレラを抱き抱えようとした。
「ダメ、だって...」
クーシャは地面に手をつく。床を黒く湿らせる吐瀉物がクーシャの手を酷く焼いた。
「ん"っ」
鈍い声がカンタレラに聞こえないよう、クーシャは舌を噛み締める。痛みに声をあげないよう、お嬢様を壊さないよう、クーシャは精一杯の笑みをカンタレラに向ける。
「大丈夫です、お嬢様。私を信じてください」
カンタレラの荒い息は依然変わらず、返答すらままならない。クーシャはカンタレラを抱き抱える。カンタレラの答えを聞かずに。
クーシャの心臓がドクンと鼓動した。全身が危険信号を放つ。血が沸き、空気に体を穿たれるような感覚がした。どっと汗が噴き出る。呼吸も喘鳴のように弱いものだった。
「伝令の鳥<サリュージグ>」
無理やりなどを震わせ魔法を唱える。
ほとんど使われていないカンタレラの机から紙とペンが浮かび上がる。
「宛名はザンディア、お嬢の容体が急変した。クリスの箱、用意を頼む」
クーシャの言葉がスラスラと紙に記され、書き終えると紙は鳥へと姿を変え窓から消えていった。クーシャは重い足を進め自分の部屋に向かう。
一刻も早く、ただその一心だった。




