049 【心理】絶望、【行為】襲名
「本当に出ていくのかね」
玄関で父親に呼び止められた。靴紐を結ぶ手が、一瞬だけ止まった。
「悪いね。出来の悪い息子で」
「……まあ、儂らの期待するような男にならなんだのは、事実じゃがの」
「だろうな」
会話が途切れる。二人分の呼吸音が、冬の冷えた廊下に降り積もる。
沈黙が破られたのは、男が戸に手を掛けた時だった。
「儂は、お前を止めはせんよ。……止めたところで、聞くまいしな」
扉を閉ざす音が、返事代わりとなった。男は鞄を背負い、歩き出した。
まだ外ではない。ここから庭園を横断し、その先の門をくぐらなければ、この家から出たことにはならない。
夜の帳は既に降りている。だが足取りは確かだった。産まれてからずっと過ごしてきた邸宅である。暗夜で道を見失うほどではない。ましてや、家の灯が煌々と照っているとあれば、迷えという方が難しい。
それでも敷地の外に出た後、つい振り返ってしまった。白い塀の向こう側、広く大きな武家屋敷が、さながら壁のように建っている。
奥歯をぎしりと鳴らしてから、背を向けた。脇目も振らずに、歩いていった。
(自由になるんだ。俺は、あの家に縛られるために産まれてきたんじゃない……!)
出奔してから分かったことが、二つある。
一つ目が、世界は広いこと。いろんな考えを持つ人や、見たこともない慣習に遭遇した。見ず知らずの土地や食べ物に触れる度に、目を丸くした。回数は、両手の指では収まるまい。
そして二つ目は、如何に世界が広かろうとも、世間は存外、狭いということ。
会う人の何人かに一人は、顔を見るなり、あっと声を上げた。
「あなた……、もしかして、あの歌舞伎俳優の息子さん?」
違う。そう否定できれば、どれだけ楽だっただろう。だが悲しいかな、左目の下の黒子は隠しようがない。テレビをよく見る人なら、まずもって知っている。
「家出なさっているそうですが、どうされたんですか? 早く戻らないと!」
「……我が家の事情です、放っておいてください」
「お父様が大変なの、知らない筈がないのでしょう?」
気付かれてしまえば、もう逃げるしかなかった。話はもう通じない。
お陰で、収入を得るのにも不自由した。非正規雇用でも、首を縦に振ってくれる所は皆無だった。
「何であのビッグネームの息子さんが、うちみたいな場末に来ているのかは知りませんけれどね。ニュースで見ましたけど、あなたのお父さん、病気でいつぽっくり亡くなってもおかしくないんでしょ? そうとなれば、息子にして一番弟子のあなたが跡を継ぐのでしょう? 申し訳ないけど、そういう人を雇う気には、なれないかな」
ある人は言葉を飾りながら、またある人ははっきりと、言ってきた。その度に、叫び出したくなるのを堪えなければならなかった。
(好きでそうなっているとでも思っているのか。お稽古自体は嫌いじゃないさ。でも、なんでそれを生業にしなきゃいけないんだ。どうして予め決められているんだ。俺に、選択の自由はないのか。絵を描いたり、写真を撮ったり、あるいは会社に勤めたり……そういう生き方をしちゃ、駄目なのか? 俺には、拒否権すらないのか? ええ、どうなんだよ?)
家を出てから一月後。懐が寂しくなってきた頃に、実家から電話が掛かってきた。七コール目で出た。
「……もしもし」
『そろそろ、気は晴れたかね』
父親の声だった。受話器越しのせいか、前よりも嗄れているように聞こえた。
「まあ、な。どうあっても、お家から逃げ出せるわけじゃ、ないみたいだ」
『血は、捨てられぬからの』
「親父が言うのか」
『……儂も、もう長くない。そろそろ、帰ってこい』
「そうだな……。俺も、頃合いなんだろうな」
深い、深い溜息を吐いてから、言った。
「……了解しました。先代」




