043 【作風】ハードボイルド、【場所】泉
霊峰の奥地にある湧水は、古くから宮廷料理人の御用達として知られている。豊富な無機質栄養素を含んでいるからだ。何の変哲もない汁物でも、これを使用するだけで、別物かと舌を疑いたくなるほど美味になるという。ある種の霊水として崇められているほどだ。
故にこそ、誰にでも扱える代物ではない。厳しい試練を突破した者だけが、厨房に持ち帰るのを許されるのである。
今日もまた、この国宝級の水源に挑む料理人が二人、到着した。審判役の老いた総料理長も一緒である。
「諸君への課題は、これだ」
そう言って取り出したのは、鶏卵だった。
「ここの水を用いて、茹で卵を作りたまえ。その出来で、判断させていただくとしよう」
挑戦者達は、神妙な面持ちで受け取った。
しばし、声が途絶えた。調理する二人は言うに及ばず、総料理長も折り畳みの椅子に座って、鍋に湧水を掬ったり携帯焜炉の火を付けたりする様を、ただ黙して見守っている。高高度の空を流れる風が、悲鳴のような音を立てるのみである。
出来あがるまで、十五分も掛らなかっただろう。だが当事者達にとっては、その倍近くに感じられたに違いない。
「……ふむ」
審判の前に、皿が二つ。茹で上がった卵が、一つずつ乗っている。不安と緊張の視線を感じながら、向かって左のものを肉叉ですいっと切り開く。断面から湯気が上がり、また固められた黄身がぽろぽろと零れ出てきた。
次いで左の卵に肉刀を当てる。白身の張力が限界に達し、刃が食い込んだ。そこから、橙色の半液状のものがどろりと流れ出た。総料理長の眉が、顰められた。
「半熟、だと」
顔を上げる。青い顔の料理人を、睨みつけた。
「我が国では、完熟卵以外認められぬ。それすら、忘れたか。未熟者が」
言い終わるなり、肉刀を投げつけた。それは矢のような速さと正確さで、失格者の眉間に突き立った。額から柄を生やした彼は、虚空を見上げて喉を二度三度ひくつかせてから、仰向けに倒れた。
試練は終わった。しかし残された二人に、それを喜ぶ気配はない。死体に視線を注ぎながら、合格者が言う。
「業の深い、ものですね」
「ままならないな、本当に」
黙祷を捧げてから、死者を水の中に沈めた。水面が一瞬どす黒くなったが、すぐさま水流に押し流され、元の透明を取り戻す。沈んでいく遺体も、その底にある大量の人骨も、はっきりと見通すことができた。
「人の命を吸って美味くなる水、か。毎年贄を捧げないと駄目、だとはな。こんなのを有難がる連中も国も、糞ったれだ」
帰りしな、総料理長が呟いた。隣を歩く料理人は、乾いた笑顔と共に言った。
「じゃあ、そういう国と国民を食べさせていたり、食べさせてもらっていたりしている僕らは、何なんでしょうね?」




