第50話 人魚の声が届く場所
『それでは、語里町の皆さんによる演奏を、お楽しみください!』
司会者の声が聞こえた途端、にんちゃんが僕の袖を掴んだ。
「始まった。斗話くん、始まったよ」
「うん。見てる」
「私、変な顔してない?」
「今の顔は、まだ向こうに映ってないから」
団地の一室で、僕たちはパソコンの画面を覗き込んでいた。会場を映すカメラの向こうには、大きなクリスマスツリーと、買い物袋を提げた人たちが見える。その奥のスクリーンに、先日撮った六人の姿が現れた。
にんちゃんは袖を離し、水槽の縁に両手を置いた。隣ではカグヤが、画面と本人を交互に見ている。
『こんにちは。語里町から、お届けします』
録画の中のにんちゃんが、明るく笑った。椅子に座っていた子供が、母親らしい人の腕を引く。通路を横切りかけた男性が足を止め、スクリーンを見上げた。
「あの人、見てくれた」
にんちゃんが、小さく言った。
曲が始まると、男性は驚いたように一歩下がった。にんちゃんも同じだけ肩を引いたが、男性はそのまま、柱の脇に立ち直った。手にしていた買い物袋を、床へ下ろす。
最前列の子供は両耳を押さえていた。母親が何か尋ねると首を横に振り、耳を塞いだまま、金太郎の映る画面をじっと見つめている。
「……音、大きかったかな」
「大きいと思う。でも、見てるね」
カグヤが答えた。通り過ぎていく人も、いた。立ち止まってから時計を確かめ、そのまま歩いていく人もいる。
にんちゃんの指が、水槽の縁をきゅっと握った。
僕は何か言いかけたが、彼女はもう、別の場所を見ていた。会場の端に、白いマフラーを巻いた若い女性が立っている。スクリーンのにんちゃんに合わせて、唇を動かしていた。
「……あの人、歌ってる?」
カグヤが画面へ顔を寄せた。
「ほんとだ。歌詞、知ってるんだ」
女性は隣の友達に何か言い、今度は二人で、サビの始まりに拳を上げた。にんちゃんはそれを見つけると、水槽の中で背筋を伸ばした。
画面の向こうの二人と、こちらの一人が、同じところで口を開く。
会場から届く音に重なって、すぐ隣でも、歌声が聞こえ始めた。
*
演奏が終わると、拍手が聞こえた。
祭りの夜のように、会場じゅうが揺れるほどの大歓声ではなかった。それでも、前の席の人たちは手を叩き、柱の脇の男性も、足元に袋を置いたまま拍手をしていた。
にんちゃんは、息を止めるようにして、その音を聞いていた。
カグヤがそっと肩に触れた。
「にんちゃん。次、出番」
「あ、うん。……うん!」
僕はカメラの横に立ち、担当の佐伯さんから届いた合図に頷いた。画面の端にこちらの映像が現れ、向こうのスクリーンにも、白いTシャツ姿のにんちゃんが大きく映った。
『にんちゃん、こんにちは! こちらの声は聞こえますか?』
「はろー! 聞こえてまーす!」
その声に、会場から「こんにちは」と返事があった。にんちゃんの目が丸くなり、それから、口元がほどけた。
「わ、ほんとに返ってきた」
『生中継ですからね。素晴らしい歌声、ありがとうございました!』
「ありがとうございます。皆、仕事で今ここにいないんですけど、絶対喜びます!」
『皆さん、それぞれお仕事もされているんですね』
「はい。ギターのうらちゃんは、今、とり天を揚げてます」
『とり天!』
「すっごく美味しいです。亀さんとウサギさんはお家直してて、金太郎は木を切って、一寸法師くんは裁縫してます」
『ずいぶん幅広いバンドですねえ』
「町に来てもらえたら、だいたい誰か働いてます!」
カグヤが、声を出さずに笑った。僕は笑いながらも、にんちゃんが自分のことより先に、皆の仕事を紹介したのを聞いていた。
司会者は客席へ向き直り、にんちゃんに聞いてみたいことがある人、と呼びかけた。最前列で、さっき耳を塞いでいた子供の手が上がる。
『ほんものの人魚ですか』
「うん。本物だよー」
にんちゃんは、ためらいなく答えた。司会者が一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに笑顔へ戻る。
『では、しっぽを見せてもらえますか?』
「いいよ! ちょっと待ってね」
僕は慌ててカメラを少し下へ向けた。水面から持ち上がった尾びれが、ひらひらと左右に揺れる。子供は椅子から立ち上がり、口を開けたまま母親を振り返った。
「見えた?」
『見えた! すごい!』
得意になったにんちゃんが、もう一度大きく尾びれを振った。飛んできた水をカグヤがタオルで受け止め、僕はパソコンを抱えて後退した。
『あちらも、なかなか大変そうですね』
「陸は、濡らしちゃいけないもの多くて!」
今度は、客席からはっきりと笑い声が聞こえた。
次に手を挙げたのは、あの白いマフラーの女性だった。マイクを渡されると少し緊張した様子で会釈し、スクリーンを見上げた。
『動画、何回も聴いてます。今日、ここで流れるって知って、友達と来ました』
「……私たちの歌、聴きに?」
『はい。友達には、音大きいよって言って連れてきました』
隣の友達が、笑いながら頷いた。
『聞きたいのは、またライブをやる予定があるか、なんですけど』
にんちゃんが僕を見た。僕は頷きも首振りもせず、彼女の返事を待った。
「まだ、決まってないの。でも、またやりたい」
『語里町で、ですか?』
「うん。私、遠くに行くと具合悪くなっちゃって。今日も、ほんとは、そっちで歌いたかったんだけど」
そこまで言って、にんちゃんは一度、唇を結んだ。誰も急かさなかった。女性も、マイクを持ったまま待っていた。
「……でも、今日、来てくれてありがとう。歌ってくれてたの、こっちから見えたよ」
『えっ、見えてました?』
「見えた! だから、私も一緒に歌ってた」
女性が両手で顔を覆い、隣の友達がその肩を叩いた。にんちゃんはそれを見て笑ったが、次の言葉は、少しだけ掠れた。
「次は、皆で聴くね。今日のことも、ちゃんと話すから」
『はい。楽しみにしてます』
司会者が、そろそろお時間です、と告げた。にんちゃんは慌てて顔を上げ、カメラの方へ両手を振った。
「皆さん、ありがとうございました! 帰り、気をつけてね!」
画面の中で、いくつもの手が上がった。子供も、マフラーの二人も、柱の脇の男性も手を振っている。
その姿が司会者の映像に切り替わるまで、にんちゃんは、ずっと振り返していた。
「……終わった?」
通話を切ると、にんちゃんが尋ねた。
「うん。お疲れさま」
「もう、こっち映ってない?」
「映ってないよ」
にんちゃんは頷くと、両手で顔を覆った。
僕とカグヤは、どちらもすぐには声をかけられなかった。水槽の中で肩が揺れ、指の隙間から、押さえきれなかった声が漏れた。
「……来てくれたんだって」
「うん」
「私たちがいると思って、来てくれたんだよね」
カグヤが水槽のそばへ椅子を寄せた。
「映像での出演って、告知にも書いたよ。それでも来たんだよ、あの子たち」
にんちゃんは指の隙間からカグヤを見て、何度も小さく頷いた。やがて顔を拭おうとして、手が濡れていることに気づき、自分で笑い出した。
「もう、どれが涙かわかんない」
「はい。顔はこっちのタオルね」
差し出された乾いたタオルに、にんちゃんが顔を埋めた。僕は濡れた床を拭きながら、会場で袋を置いた男性や、歌詞を覚えていた女性のことを思い返していた。
三十万という数字のうち、何人かの顔を、今日初めて知った。
にんちゃんがタオルから顔を上げたところで、カグヤのスマホが鳴った。画面を見た彼女が、吹き出す。
「金太郎から。『俺の紹介、木を切る人だけだったッス』だって」
「見てたの!?」
「休憩中に。『次は筋肉もお願いします』」
「はいはい。次ね!」
にんちゃんは笑いながら答えた。その直後、今度は亀から『尻尾振ったとこ、床は大丈夫か』と届き、僕は濡れた雑巾を見下ろした。
さすが、気にするところが本職だった。
夜になると、仕事を終えた仲間たちが、にんちゃんの部屋へやってきた。
うらちゃんは少し遅くなり、一寸法師は店のおばあちゃんに持たされた蜜柑を、ウサギに運んでもらっていた。金太郎は座るなり、今日の自分の紹介について、もう一度不服を申し立てた。
「木こりで間違ってないッスけど。ベースも弾いてたッス」
「そこは映像見たらわかるやろ」
「筋肉も映像でわかりますよ」
ウサギにそう言われると、金太郎は少し考え、納得したように頷いた。
カグヤが撮っておいた中継中のにんちゃんの写真を見せると、皆がスマホの周りへ集まった。僕たちは順番に、客席で起きたことを話した。にんちゃんは白いマフラーの女性のことを、何度も話した。
「歌詞、間違えずに歌ってたんだよ。ウサギさんのとこも!」
「……英語のところもですか?」
「そう!」
ウサギは涼しい顔で頷き、蜜柑を一つ手に取った。ところがしばらくして見ると、皮を剥かないまま、まだ握っていた。
僕は持ってきた箱を、机の端に置いた。近所の菓子店で、カグヤがにんちゃんに写真を送り、選んでもらったケーキだった。
「それ! 私、苺が二つのやつ!」
「わかってる。金太郎、その箱は待って」
「まだ何もしてないッス」
にんちゃんの前に皿を置くと、彼女は嬉しそうにフォークを受け取った。あの日は選べなかったケーキが、今日はちゃんと、彼女の前にあった。苺を先に食べるか、最後まで残すか、真剣に迷っていた。
「今度も、町でやるの?」
僕の隣でケーキを食べていた赤ずきんが聞いた。にんちゃんは顔を上げ、皆を見回した。
「やりたい。でも、いつにするかは、また相談していい?」
「はい。店の予定、聞いておきます」
「わいらもな」
返事が重なるたび、にんちゃんの笑顔が大きくなった。金太郎が何か言おうとしたので、彼女は先に人差し指を立てた。
「筋肉紹介は、三十秒まで!」
「短いッス!」
「歌より長くなるから!」
笑い声の中で、僕は空になった箱を畳んだ。窓の外には、いつもの団地の駐車場と、街灯に照らされた道がある。あの先の山道は、今日も、にんちゃんには越えられない。
「斗話くん、フォーク持ってきて」
呼ばれて振り返ると、にんちゃんが皿を差し出していた。二つあった苺のうち、一つが、切り分けたケーキの上に載っている。
「撮影と編集、ありがと。一口あげる」
「一口でいいの?」
「大きい一口でいいよ。そっちの苺も食べていいから」
僕がフォークを持って戻る間にも、次の歌の話が始まっていた。にんちゃんはあれも歌いたい、これも歌いたいと、口の周りにクリームをつけたまま話し続ける。
「今度は、楽しい歌もいいね」
そう言って彼女は、思いついたメロディを口ずさんだ。亀が膝を叩き、ウサギが顔を上げると、金太郎まで口を開きかけた。
「食べてから!」
カグヤに叱られ、皆が笑った。
にんちゃんも笑って、今度は小さな声で、歌の続きを歌った。




