第49話 カメラのこっち側
撮影の日、楽器店のスタジオに最初に現れたのは、一寸法師だった。
亀の肩から作業台へ飛び移ると、背負っていた包みを下ろし、丁寧に結び目をほどいていく。中から出てきたのは、小さな黒い上着だった。背中に銀色の糸で、何やら文字が刺繍されている。
「新しく作ったの?」
「はい。せっかく、町の外の方にも見ていただけるので」
誇らしげに振り返ったその背中には、『人魚上等』とあった。
「……喧嘩売ってない?」
「応援の気持ちです」
「本人に伝わるといいね」
亀は隣で、金太郎が運んできた撮影用の台を据えていた。一寸法師の姿が隠れないように、わざわざ作ってくれたものだ。僕がカメラ越しに位置を確かめると、彼は満足げに鼻を鳴らした。
「これで、うちの相棒より目立つで」
「目立つための仕事ではないですよ」
少し遅れて入ってきたウサギが、上着を脱ぎながら答えた。その胸元にも『人魚上等』の刺繍があった。
「君も着るんだ」
「作っていただいたので」
落ち着いた口調に反して、鏡の前で襟を直す時間は、いつもより少し長かった。
にんちゃんはすでに、スタジオ用の水槽に入って待っていた。今日は白いTシャツを着て、長い髪を片側だけ編んでいる。カグヤに仕上がりを見せてもらうと、嬉しそうに顔の角度を変えた。
「ね、こっち向いた方が可愛い?」
「どっちでも可愛いけど、歌うときはマイク向いてね」
「そこ、忘れそうだった」
忘れないでほしい。
最後に来たうらちゃんは、ギターと大きな紙袋を抱えていた。袋から立ちのぼる匂いに、金太郎の顔が一瞬で変わる。
「とり天ッスか!」
「はい。店主が、皆さんにって」
「よっしゃ、まず食べてから――」
「撮ってから」
カグヤが袋を取り上げた。金太郎は、伸ばした手の行き場をなくし、そのまま肩を回して準備運動に切り替えた。
僕はカメラの脚を固定し、六人が収まった画面を覗き込んだ。シュンに借りたもう一台は、カグヤが持っている。編集で顔や手元を挟めるようにしておけば、一寸法師が筋肉の陰に消える心配もない。
「じゃあ、最初に挨拶だけ撮ろうか。語里町から来ました、で――」
「来てないよ?」
にんちゃんに指摘され、僕は口を閉じた。
「……語里町から、お届けします」
「はーい。それなら言える!」
一回目は、演奏が始まる前に終わった。
「はろー! 語里町からお届けしまーす! 今日は、私たちの歌を――」
「聴いていってほしいッス!」
金太郎が元気よく声を重ね、にんちゃんは振り返った。
「それ、私の台詞!」
「すまんッス。盛り上がってきたッス」
「早いよ!」
二回目は、全員で頭を下げた瞬間、亀の甲羅が背後の壁に当たった。三回目には誰も失敗しなかったが、最後の最後で、うらちゃんが小さく「これ、もう映ってるんですか」と聞いた。
僕は録画を止め、カメラから顔を上げた。
「皆、祭りのとき、どうやって始めたっけ」
「勝手に始まったッス」
「それが一番向いてるかもしれないね」
にんちゃんが笑った。しかし、マイクの位置を直す手は、何度も同じところを触っていた。
カグヤが飲み物を配り始めたので、僕も水槽のそばへ寄った。
「緊張してる?」
「ちょっと。いや、けっこう」
にんちゃんはカメラを見つめた。小さなレンズには、手を振り返してくれる顔も、声を上げてくれる人もいなかった。
「何回でも撮り直せるって聞いたら、間違えちゃいけない気がしてきた。変だよね」
「間違えたら撮り直せる、って意味だったんだけど」
「うん。わかってるんだけどさ」
彼女は笑って、Tシャツの裾を水槽の外へ引っ張り直した。僕は、先ほどから画面の中のことばかり見ていた自分に気づいた。顔が隠れないか、明るすぎないか。皆が立ち位置を少し変えるたび、戻ってもらっていた。
「一回、普通に聴かせてもらってもいい?」
「普通に?」
「うん。途中で僕が止めたりしないで、最後まで」
にんちゃんが、僕の後ろにあるカメラへ目をやった。
「撮るの?」
「撮る。でも、まず僕が聴く」
「……それなら、ちゃんと顔出しててね」
僕は頷き、カメラを回したあと、その横の椅子に腰を下ろした。にんちゃんは僕の顔を確かめ、続いて仲間たちを見回した。
「皆、いける?」
「腹は減ってるッス」
「終わったら食べようね」
「最高の約束ッス」
亀が笑いながらスティックを上げた。一寸法師の小さな両手が鍵盤に載り、最初の音が流れ出した。
にんちゃんは、今度は挨拶をしなかった。
祭りの夜と同じ歌なのに、こんな声だっただろうかと思った。
あの夜は、目の前の派手さに圧倒されていた。水槽に入った歌い手と、甲羅を揺らすドラマー。金太郎の腕が弦を弾くたび、赤ずきんが僕の肩の上で跳ねた。歌詞を追っていたつもりでも、随分と聞き逃していたらしい。
今は、にんちゃんが息を吸うところまで聞こえた。海の底から空を見上げ、知らない世界に憧れていた頃の歌声は、明るさを残していた。それが、王子を助けた夜を越えると、少しずつ変わっていく。
うらちゃんが目を伏せ、弦の上で指を滑らせた。いつも包丁を握っている手が、今日は、にんちゃんの声のすぐそばにいる。
ウサギのラップが入ると、亀はその呼吸に合わせるように体を揺らした。向かい合って怒鳴っていた二人が、今は目が合うだけで、次へ進んでいく。
やがて、声を捨てた人魚が、王子の目の前に立った。
にんちゃんはマイクを握り直し、まっすぐ前を見た。
「あなたを救ったのは、私なのに」
それまで歌詞だった言葉が、急に、目の前の彼女の言葉になった。
僕は膝の上で組んでいた手をほどいた。何か言いたかったのに、結局何も言えなかった日のことを思い出した。床に落ちた離婚届。荷物の減った部屋。父がまだ生きていた頃、忙しいからと短く切った電話。
にんちゃんの声は、そこで途切れなかった。届かなかった言葉を、今度は喉が痛くなるほどの勢いで吐き出した。
僕は、レンズの向きを確かめることも忘れていた。
最後の音が消えると、スタジオには、しばらく誰の声もなかった。金太郎が弦から手を離し、うらちゃんが小さく息をついた。
にんちゃんは、僕を見ていた。
「……どうだった?」
「よかった」
それだけでは足りず、僕はもう一度口を開いた。
「いや、すごくよかった。あの……」
「斗話くん、鼻赤いよ」
「そこは見なくていい」
カグヤが横で吹き出した。僕が顔を背けると、にんちゃんも笑い、皆の張り詰めていた肩が、ようやく下がった。
拍手をするタイミングを逃した僕の代わりに、廊下からぱちぱちと音が聞こえた。扉を開けると、楽器店の店主が立っていた。
「終わった? いや、今日はよく聞こえたなあ」
「うるさくなかったですか」
「いつもうるさいよ」
にこやかな即答に、六人が揃って頭を下げた。
「でも、いいね。こういううるさいのは」
店主はそう言って、空になった湯呑みを持ち上げた。廊下の椅子で、ずっと聴いていたらしかった。
とり天は、驚くほど早くなくなった。
にんちゃんが感想を言い終わる頃には、金太郎は三つ目を口に入れていたし、一寸法師は一個を前に、どこから食べるか考えていた。ウサギが箸で小さく分けてやると、丁寧に礼を言って、両手で持ち上げた。
僕とカグヤは、その横で撮れた映像を確かめた。音も、姿も、ちゃんと残っていた。歌の途中、一瞬だけ、にんちゃんがカメラの横へ視線を向けるところがある。
「これ、斗話見てるとこだね」
「目線、外れてるから変かな」
「全然。いい顔してるじゃん」
カグヤは迷わず言った。画面の中のにんちゃんは、泣きそうな顔で聴いている僕を見つけた直後、ほんの少し笑っていた。
「挨拶、もう一度だけ撮っていい?」
水槽から声がした。振り返ると、にんちゃんが手を拭いていた。
「今なら、言えそう」
皆がそれぞれの場所に戻った。金太郎の口の中が空になるのを待ってから、僕は録画のボタンを押した。
「こんにちは。語里町から、お届けします」
にんちゃんは、いつもの声で話し始めた。
「今日は、そっちへ行けなくてごめんなさい。でも、皆で演奏してきました。ちょっと大きい音の曲なので、びっくりするかもしれません」
後ろで亀が、神妙に頷いた。
「私は、この歌を歌ってるときが、すごく楽しいです。聴いてくれた人とも、あとでお話できたら嬉しいです。よろしくお願いします!」
六人が頭を下げた。今度は、甲羅の音もしなかった。
僕はカメラを止め、親指を立てた。にんちゃんは両手を上げて喜び、金太郎は真っ先に、残っていないとり天の袋を覗きにいった。
その夜、書斎で映像を仕上げた。
仕事なら見慣れたはずの編集画面に、知っている顔が並んでいる。一寸法師の指先を入れ、ウサギと亀が目を合わせるところを繋ぎ、にんちゃんが歌い終えたあとの息を、少し残した。
最後まで再生したところで、戸が細く開いた。
「……できた?」
赤ずきんだった。もう寝る時間のはずだが、片手には、母に持たされたらしい湯呑みがある。
「できたよ。見る?」
彼女は頷き、僕の隣へ椅子を運んできた。最初は黙っていたが、金太郎が映ると、机の下で足が動き始めた。サビに入った頃には、小さな拳が膝の上で上下していた。
見終わると、赤ずきんは満足そうに頷いた。
「……かっこいい」
「よかった。皆に言っておく」
「斗話は?」
「僕?」
「映ってない」
「僕は撮ってたからね」
赤ずきんは少し考え、画面と僕を交互に見た。それから、膝に置いていた両手を持ち上げて、小さく拍手をした。
「……じゃあ、こっちに」
どう返せばいいかわからず、僕は椅子に座ったまま、少しだけ頭を下げた。赤ずきんはそれで用事が済んだように立ち上がり、「おやすみ」と書斎を出ていった。
湯呑みのお茶は、まだ温かかった。
僕はもう一度だけ全員が映る場面を見てから、完成した動画を送った。




