第48話 画面の向こうで
電話をかける直前、にんちゃんが水槽の縁に両手をついた。
「ねえ、こういうときって、最初になんて言うの?」
「普通に、よろしくお願いします、でいいと思う」
「陸ではお世話になっております、とか?」
「海側の代表として出なくていいから」
カグヤが笑いながら、スマホを机に置いた。スピーカーから呼び出し音が流れると、にんちゃんは急に背筋を伸ばした。尾びれまでぴんと伸び、水槽の端にぶつかって、ごん、と鳴った。
「大丈夫?」
「うん。今ので、ちょっと落ち着いた」
僕の方は、まだ落ち着かなかった。手元には、昨夜まとめた六人分の予定がある。金太郎の『筋肉紹介三十分』は、念のため紙を折って隠しておいた。
電話に出た担当の女性は、佐伯さんと名乗った。僕は挨拶を済ませ、遠出が難しいことと、当日は仕事で全員が揃わないことを伝えた。
「それで、こちらで演奏を撮影して、お送りする形ではどうでしょうか」
『映像でのご出演、ということですね』
「はい。ただ、当初の三十分を埋められるほど、曲がなくて。一曲をきちんとお届けする形になります」
言いながら、少し情けなくなった。せっかく声をかけてもらったのに、できないことばかり並べている。
けれど佐伯さんは、すぐに断りはしなかった。
『三十分の枠をそのまま使うのは難しいですが、短いコーナーとして組み直せるか、相談してみます』
隣で、にんちゃんがそっと手を挙げた。僕が頷くと、彼女はスマホに顔を近づけた。
「あの、歌が終わったあと、お客さんとお話ってできますか?」
『にんちゃんさんですか?』
「はい。にんちゃんです。ちゃんは一個で大丈夫です」
佐伯さんが、小さく笑った。にんちゃんも笑ったが、水槽の縁を掴む指には力が入ったままだった。
「私、あの……動画の数字は見たんですけど、三十万人って、よくわからなくて。今、聴いてくれた人がそこにいるんだって、わかったら嬉しいなって」
佐伯さんは少し考えてから、『当日、通話なら出られますか』と聞いた。
「私は出られます!」
『では、会場から司会者がお話しする時間を作れるか、そちらも確認しますね』
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げたにんちゃんの髪から、机に水が落ちた。カグヤが素早くスマホを避難させ、僕は台拭きを探した。電話の向こうでは、佐伯さんが何も知らずに話を続けている。
『ところで、あの人魚の姿でご出演いただくことは可能でしょうか』
「それは全然、大丈夫です。むしろ、そっちが普段着なので!」
普段着、ではないだろう。
僕が訂正する前に、『ありがとうございます、楽しみにしています』と、明るい返事が返ってきた。
二日後、カグヤから連絡が来た。
演奏映像一曲と、にんちゃんとの短い生中継。合わせて十分ほどのコーナーに変更できるという。当日は会場の様子も、こちらへ映してもらえることになった。
その夜、僕たちは「たいせい」の閉店後に集まった。にんちゃんだけは部屋から、カグヤのスマホ越しに参加している。
「というわけで、向こうはこの形でどうかって」
説明を終えると、亀が腕を組んで頷いた。
「ほな、撮る日に全員揃えばええんやな」
「うん。当日の通話は、にんちゃんが出る」
「僕は、ここでとり天を揚げてます」
うらちゃんが言うと、画面の中でにんちゃんが親指を立てた。
『そっちは任せた!』
「はい。歌の方、よろしくお願いします」
二人が妙に真面目な顔で頷き合ったところへ、金太郎が身を乗り出した。
「十分ってことは、俺の紹介は何分ッスか」
「筋肉の時間はないよ」
「名前の方ッス!」
「ごめん」
先回りしすぎた。金太郎は少し傷ついた顔で胸を押さえ、亀が「胸筋は無事や」と、その腕を叩いた。
流す曲は、ハロウィン祭りで演奏したものに決まった。新しい曲を急いで増やすより、まずは、あの歌をもう一度届けたい。にんちゃんがそう言うと、うらちゃんは安心したように肩を下ろした。
「じゃあ、前よりちゃんと弾けると思います」
「僕も、最後まで映していただければ」
卓上の一寸法師が、静かに申し出た。
カグヤが、あ、と口を開けた。
「あの動画、途中から金太郎の腕しか映ってないとこあったね」
「僕の演奏中です」
「すまんッス。腕が太くて」
「細くしていただきたいわけではありません」
撮影を頼まれた僕は、手帳に『一寸法師を隠さない』と書き込んだ。曲の頭から終わりまで全員が映るだけでも、このバンドは少し工夫がいる。
相談が済むと、皆は順に帰り支度を始めた。金太郎が椅子を片付け、亀が戸口で横を向き、うらちゃんは洗い場に戻っていく。
『斗話くん』
まだ繋がっていたスマホから、にんちゃんが呼んだ。
『撮るの、お願いしていい?』
「もちろん。その日は仕事を入れてないから」
『よかった。私、斗話くんにも、ちゃんと聞いてなかったね』
手帳を閉じかけた指が、止まった。
僕の都合を尋ねるために、皆が帰るまで待っていたのか。画面の中のにんちゃんは、水槽の縁に顎を載せ、返事を待っていた。
「大丈夫。撮りたいんだ、僕も」
そう答えると、にんちゃんはようやく、いつもの大きな笑顔になった。
週末、僕の家で、映像通話を試してみた。
にんちゃんは団地の部屋。こちらはリビングのテレビに画面を映し、赤ずきんと母に座ってもらった。カグヤはカメラの位置を直しながら、二人に説明している。
「今日は、お客さん役ね。普通に見てくれればいいから」
「普通って、どの顔?」
母が顎を引き、斜め上を向いた。
「母さん、撮影会じゃないから」
赤ずきんは両腕を組んで、テレビをじっと睨んでいる。隣で母がポーズを解いた頃、画面が切り替わり、にんちゃんの顔が大きく映った。
『はろー! 聞こえてますかー?』
「……聞こえる」
『赤ずきんちゃん、もうちょっと声大きくできる?』
「聞こえる!」
『わっ、聞こえた!』
にんちゃんが笑い、赤ずきんも少しだけ口元を緩めた。それから、小さく手を振った。
画面の向こうで、にんちゃんの手が止まった。
『……あ、そっか。こうやって見えるんだ』
今度は彼女が手を振る。赤ずきんが同じように振り返すと、にんちゃんは身を乗り出しすぎて、画面から半分はみ出した。
「近い近い。そこまで来なくても見えてるよ」
『だって、なんか嬉しくて』
カグヤが笑いながら声をかけた。その隣で、僕はテレビの音量を少し下げた。向こうの水音まで、よく聞こえていた。
ひと通り確認を終え、僕が終了しようとすると、母が待ったをかけた。
「にんちゃん、今日はもうご飯食べた?」
『まだです。あとで何か食べようかなって』
「今夜、おでんなのよ。持っていってあげるわね」
『ほんとですか! 卵あります?』
「あるわよ。大根も美味しくできたの」
赤ずきんが、すっと立ち上がった。
「……配達する」
「つまみ食いしないでね」
「……護衛するだけ」
鍋の護衛役は、早くも台所へ向かっていた。母がその後を追い、カグヤは「あとであたしも行く」と、スマホを取り上げた。
『じゃあ、またあとでね』
にんちゃんが、こちらに手を振った。僕も振り返してから、通話を切った。
黒くなったテレビには、リモコンを握った僕が映っていた。団地までは、歩いて数分。鍋を持った赤ずきんのために玄関を開けると、冷たい風と一緒に、向こうの部屋の灯りが見えた。
その窓で、誰かが大きく手を振っている。
「見えてるよ」
今度は、声が届かない。
僕は玄関先から、腕を大きく振り返した。




