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第47話 父の地図と予定



 地図を机へ広げると、折り目のところで紙が小さく裂けた。


 僕は慌てて手を止めた。指を離すと、今日、車を止めた場所のそばに、父が赤い鉛筆でつけた丸が残った。


 ほかにも、川沿いの道や山を越える旧道に、同じような丸があった。観光名所でもなければ、釣り場として便利そうな場所でもない。道路の途中の、わざわざ印をつける理由がわからない地点ばかりだった。


「何か、見つかった?」


 母が戸口から覗いた。僕は地図の端を押さえながら、今日のことを話した。


 カグヤとにんちゃんを車に乗せたこと。途中で二人とも気分を悪くして、引き返したこと。そして、その場所の近くに、父の印があること。


 母は眼鏡を取りに戻り、机の横へ椅子を持ってきた。


「これ、随分古いわよ。ほら、ここにまだ橋がないでしょう」


「いつ頃のだろう」


「金太郎さんに聞いてみたら? 昔、うちにいた頃、お父さんとよく出かけてたから」


 僕は顔を上げた。


「よく?」


「軽トラックに乗って。何をしてたかは知らないけど、お昼を過ぎても帰ってこないから、おにぎり持たせたこともあったわね」


「母さん、そういう話、もっとしてよ」


「あんたが聞かないんじゃない」


 言い返せなかった。母は地図を覗き込み、川沿いの印を爪の先で示した。


「ここは覚えてる。帰りにお父さんがお米買ってきてね。家にまだあるって言ったら、『金太郎の分がいるだろ』って」


「そんなに食べてたの」


「一升炊いて、晩ご飯の前になくなったのよ」


 父が米袋を担ぐ姿は想像できた。けれど、その隣を赤い前掛けの男が歩いている光景は、自分の記憶のどこを探しても出てこなかった。


 僕は地図の下にあった手帳を開いた。


     


 金太郎は、三十分ほどで来た。


 連絡すると「ちょうど飯が終わったところッス」と答えたくせに、母が出した饅頭を三つ食べた。四つ目へ手を伸ばしかけたところで地図を見せると、その手が止まった。


「……これ、まだあったんスね」


「覚えてる?」


「ああ。こっちへ来たばっかりの頃、親父さんと走り回ったッス」


「軽トラで?」


「それも乗ったッス。最初は、俺が走れば何とかなると思って」


 金太郎は、昨日の僕たちが通った道を太い指でなぞった。


「ここの坂を越えた辺りで、脚が重くなってな。腹も気持ち悪くなってきて。山育ちが坂道でへばるかって、意地張ったんスよ」


「それで?」


「親父さんに拾われたッス」


 母が台所から「荷台で寝てたわねえ」と言った。


「荷台に収まったんだ」


「今より、ちょっと細かったッスから」


 金太郎は照れたように胸を張った。そこを褒めたわけではなかった。


「そのあと、道を変えてみたり、親父さんも一緒に歩いたりしたんスけど、駄目で。結局、遠くには行くなってことになったッス」


「なんで言わなかったんだよ」


「いや、坊主も知ってるのかと。みんな、この辺で暮らしてるし」


 金太郎は顔をかき、それから饅頭へ伸ばしかけた手を膝に戻した。


「……にんちゃん、行きたがってたんスよね」


「うん」


「悪かったッス。昨日の飯のとき、ちゃんと聞いとけばよかった」


「僕も、水槽のことばかり考えてたから」


 少しの間、三人とも地図を見ていた。台所で、母が湯を沸かす音がした。


 僕は開いていた手帳を、金太郎の前へ置いた。地図と一緒に挟まっていた一枚の紙に、同じ赤鉛筆の線があった。


「ここ、父さんの字なんだけど」


 走り書きの上から、万年筆で二重に線を引いた箇所を示した。


『町の境ではない。道のりでもない。本棚から離れると不調。帰路で軽快』


 その下には、短い記録が並んでいた。


『徒歩でも同じ』『私の同行、変化なし』『本の持参、変化なし』


「……持ったッス、本。走ると邪魔だから、腹に挟んで」


「覚えてるんだ」


「汗でふやかして、叱られたッス」


 僕は思わず笑った。紙の端には、その話まで書かれていた。『本を腹に入れないこと』。どうしてそんな注意が要るのか、読んだだけではわからなかった一文だった。


 金太郎もそれを見て、困ったように鼻の下をこすった。


「親父さん、こんなことまで書いてたんスね」


 僕は、地図の上に自宅の位置を探した。散らばって見えた丸が、家を囲むように並んでいる。きれいな円ではなかったが、町外れのどの道路で具合が悪くなるかを、父は一つずつ確かめていたらしい。


 町から出られないのではない。本棚から、遠くへ離れられない。


 僕がその言葉を口にすると、金太郎はゆっくり頷いた。


「だから、あの辺の山で鍛えるようになったッス。近場なら、何ともなかったんで」


「じゃあ、本棚を動かせば……」


 言いながら、僕は部屋の奥を見た。古い木の扉は、いつも通り閉じていた。


「それは、わかんないッス。俺がいた間は、ずっとここにあったから」


 金太郎が答えた。母も「中の本を出そうとしても、開かなかったのよね」と、湯呑みを置いた。


 手帳の次のページをめくったが、本棚を運んだ記録は見つからなかった。代わりに、畑の草刈りの日と、僕の予防接種の日が、同じ筆跡で書かれていた。


 父にとっては、これも生活の予定だったのだろうか。


 僕はそこへ紙の栞を挟み、机の横に積んだ、まだ読んでいない手帳へ目を向けた。


     


 翌日の夕方、にんちゃんの部屋で地図を広げた。


「本棚からの距離、かあ」


 カグヤは、水槽へ寄せたテーブルを覗き込んだ。その隣で、にんちゃんが父の記録を読んでいる。


「斗話くんのお父さんも、調べてくれてたんだね」


「金太郎が、かなり付き合ったみたい」


「半分は、俺が勝手に走ってっただけッス」


 金太郎が補足した。にんちゃんは小さく笑い、それから『本の持参、変化なし』という行に指を置いた。


「本を持っていけばいいのかなって、ちょっと思ってた」


「僕も」


「持ち主と一緒なら平気、ってわけでもないんだ」


「少なくとも、父さんと金太郎のときはね」


 僕は自分で書き出したメモを、その横へ置いた。父の記録でわかったことと、まだわからないことを分けていた。本棚を動かした場合については、大きな疑問符が残っている。


「本棚ごと会場へ持っていく、というのは?」


 後ろからウサギの声がした。仕事を終えたばかりの彼と亀が、開けておいた戸口に立っていた。


「運搬なら、わいらの出番やな」


 亀は部屋へ入りかけ、甲羅を引っかけて、無言で横を向いた。カグヤが一歩避けた。


「自分を運ぶのもちょっと苦手じゃん」


「幅の問題や。腕の問題ちゃう」


 椅子へ座った亀が、地図を手元に引き寄せた。


「で、本棚運んだら、行けるんか?」


「まだわからない。父さんが試した記録も、今のところ見つかってない」


「ほな、家具のつもりで積んだらあかんな」


 亀はあっさり言った。もう運ぶ算段を始めると思っていたので、僕は少し意外だった。


「慎重なんだな」


「そらそうや。家を支えとる柱か、ただの仕切りかもわからんもん、いきなり抜かへんやろ」


 言われてみれば、僕たちは、何をどこまで支えているものかも知らなかった。もし本棚と一緒に移動できるとして、町に残った皆はどうなるのだろう。


 水槽の縁で、にんちゃんが首を横に振った。


「赤ずきんちゃんまで気持ち悪くなったら、嫌だよ。学校あるし」


「うん。それも確かめないと」


 僕はメモの疑問符の横に、もう一行書き足した。


 そのとき、戸口からうらちゃんが顔を出した。仕事の合間を抜けてきたらしく、前掛けをしたままだった。胸のポケットから、一寸法師が慎重によじ登る。


「こんばんは。お待たせしました」


「おう。おまえ、その運ばれ方でええんか」


「鞄に吊るされるより、ずっと安心できますので」


 一寸法師が答えると、カグヤは何も言わず、うらちゃんのポケットから彼をテーブルへ移してやった。


 これで、バンドの六人が揃った。


     


「会場の方から、詳しい内容が来たよ」


 カグヤがスマホを開いた。


「本棚の方は調べてもらうとして、こっちも皆で見とこう。日付と時間、それから、演奏は三十分くらいお願いしたいって」


「三十分?」


 金太郎が指を折り始めた。


「あの曲、何分だったッスか」


「五分も、なかったね」


「……途中で筋肉紹介してもいいッスか」


「音楽イベントだって言ったでしょ」


 にんちゃんが笑った。金太郎も笑い、それから真面目な顔で画面を覗いた。


 ハロウィンのときは、一曲だけだった。三十分となれば、曲の数を増やさなければならない。楽器店の練習室も、また借りることになるだろう。


「何曲か用意しないとね。まだ日にちはあるし、練習日を増やせれば」


 僕が言うと、うらちゃんが小さく手を挙げた。


「あの、すみません。この日って、夕方からですよね」


「出番は午後四時の予定。でも、音合わせがあるから、お昼前には入ってほしいって」


 カグヤの説明を聞いて、うらちゃんは少し困った顔をした。


「その日、お店の予約がいっぱいなんです。町内会と、林業の人たちの忘年会があって」


「店主に相談すれば、休めるんじゃないかな。せっかく声をかけてもらったんだし」


 口にしてから、うらちゃんが前掛けの端を握ったのに気づいた。


「……僕、その日の揚げ物、任されてるんです」


「そうなんだ」


「はい。人数が多いから、前から段取りを教えてもらってて。店主も、僕ができるなら二組受けようって」


 僕は、次に言おうとした言葉を飲み込んだ。


 休みを頼めば済むと思っていた。その仕事を、うらちゃん自身がどんな気持ちで引き受けたのか、聞いていなかった。


「僕も、歌うのを見るのは楽しみなんですけど……」


「ごめん。先に予定を聞くべきだった」


 謝ると、うらちゃんは慌てて首を振った。


「いえ。僕の方こそ、早く言わなくて」


「今、初めて時間わかったんだから。そこは謝らんでええ」


 亀が口を挟んだ。それから、隣のウサギへ顔を向けた。


「わいらも、その前の週は遅うなるな」


「屋根の現場ですね。天気次第ですけど、毎晩練習は難しいと思います」


 一寸法師も、テーブルの端から声を上げた。


「僕も、年末までのお直しが増えていまして。夜中ならできますが、お店のおばあさんには、遅くまで無理をしないように言われています」


 金太郎が自分の顎を撫でた。


「俺は、仕事終わりなら行けるッス。ただ、曲が増えると、覚えるのに時間かかるッス」


 誰も、出たくないとは言わなかった。だからこそ、僕は返事に困った。


 にんちゃんが、水槽の縁に置いていた手を下ろした。


「……そっか。私、歌うことばっかり考えてた」


「にんちゃんが悪いわけじゃないよ」


「うん。でも、私には嬉しい話だったから、皆もそうだって、思っちゃってた」


 うらちゃんが、彼女の方へ顔を上げた。


「嬉しくないわけじゃ、ないです」


「わかってる。お店も大事だよね」


 にんちゃんが言うと、うらちゃんは口を閉じた。前掛けの端から手が離れ、膝の上へ戻った。


 僕は、地図の上に置いていた予定表を見た。本棚の問題さえ解ければいいと思っていた。解けたら皆を連れていけると、運ぶ車の台数まで考え始めていた。


「今なら、断れるよ」


 カグヤが言った。


「まだ何も約束してないし。今回は難しいですって返すなら、それはそれで大丈夫」


 部屋が静かになった。廊下を歩く足音がして、隣の部屋の扉が閉まった。


 にんちゃんは、しばらく自分のスマホを見ていた。あのステージの写真を開いているのかと思ったが、画面は暗いままだった。


「私だけ、行けても駄目なんだよね」


 彼女は顔を上げ、皆を順番に見た。


「あのとき、皆がいてくれたから楽しかったんだし。仕事休んで、無理して来てもらって、同じふうに歌えるかって言われたら……わかんない」


 亀がゆっくり頷いた。


「せやな」


「でも、断るの、悔しいなあ」


 にんちゃんはそう言い、口を尖らせた。うらちゃんが困った顔をしかけると、彼女はすぐに手を振った。


「違う違う。うらちゃんにじゃなくて。自分で悔しいって言っとかないと、あとで一人でぶつぶつ言いそうだから」


「わい、家でもよう言うで」


「知っています。だいたい僕の隣で」


 ウサギが答えると、にんちゃんが吹き出した。亀も笑って、それから僕の前の紙を指した。


「で。向こうの頼み、全部そのまま引き受けなあかんのか?」


 僕は画面を読み直した。


 三十分程度の演奏を希望。現地での音合わせ。水槽の寸法と使用する水量を事前に連絡。並んでいる条件の最後に、『ご事情に合わせてご相談できれば幸いです』と書いてあった。


「……聞いてみる余地は、あると思う」


 会社員だった頃なら、最初の依頼で全部が決まるとは考えなかったはずだ。なのに今回は、声をかけてもらえたことが嬉しくて、こちらが合わせることばかり考えていた。


 僕は新しい紙を一枚出した。


「ごめん。いったん、本棚の話と分けよう。まず、皆ができることを教えてほしい。できないことも」


 いちばん上に、うらちゃんは当日の夕方、店を離れられない、と書いた。その下へ、練習の回数、曲数、一寸法師の店が忙しくなる時間を続ける。


「俺、筋肉紹介なら、三十分できるッス」


「それは別の紙に書こうか」


「消さんといてやって。どっかで使うかもしれへん」


 亀が言ったので、端の方に小さく残した。


 話を聞いていくと、現地へ全員で行くのは難しくても、町で演奏できる日ならあった。うらちゃんの休みと、一寸法師が早く仕事を終えられる夕方が、一日だけ重なっていた。


 カグヤがその日付を撮影した。


「この日に撮って、会場で流してもらうとか?」


「録画でいいかは、向こうに聞かないと。でも、提案はできる」


 僕が答えると、にんちゃんは少し考えた。


「会場の人たちの顔、見られないのかな」


「顔?」


「うん。映像で歌を届けるだけじゃなくて、終わったあと、お話できたりしたら嬉しい」


 僕は紙に『会場と話せるか』と書き足した。カグヤが横から覗き込み、自分のスマホにも同じことを打った。


「それも相談してみよ。できるって約束はしないけど」


「うん。それでいい」


 にんちゃんが頷いた。


 僕は父の地図を、折り目に沿ってゆっくり畳んだ。今日は、その印を消す方法までは見つからなかった。


 代わりに机の上には、六人の予定が書かれた紙が残った。金太郎が書き足した『三十分、休憩なし』という文字だけ、妙に大きかった。


「カグヤ。担当の人と、一度電話で話せないか聞いてもらえる?」


「いいよ。斗話も一緒に話してね」


「うん。今度は、こっちの事情もちゃんと伝える」


 うらちゃんが立ち上がり、前掛けの紐を結び直した。そろそろ店へ戻らなければならない時間だった。


「にんちゃん。次の歌、決まったら教えてください」


「練習、できそう?」


「少しずつなら。揚げ物してるときは、無理ですけど」


「そこではやらないで」


 にんちゃんが笑った。うらちゃんも笑い、一寸法師を胸のポケットへ迎え入れた。


 僕は二人を見送りながら、紙の『当日の夕方は仕事』という行の横へ、小さく丸をつけた。その下にあった『店主に相談』という走り書きには、線を引いた。



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