第46話 人魚姫に招待状
金太郎が、箸を持ったまま固まっていた。
「……口が、開かないッス」
「昨日まで開いとったやろ。ちょっと小さく切って食えや」
向かいに座る亀が、とり天の皿を自分の方へ引き寄せた。箸で一つを半分に割り、金太郎の皿へ戻してやる。
桃太郎との決闘から数日。勝負が終わっても、顔の腫れまでは片付かなかったらしい。金太郎は慎重にとり天を口へ運び、眉間に皺を寄せながら噛んだ。
「……うまいッス」
「よう味わっとけ。普段、ほとんど飲んどるんやから」
昼の客が引いた「たいせい」で、僕は二人の向かいに座っていた。うらちゃんが運んできた味噌汁を受け取ったところで、引き戸が勢いよく開いた。
「いた! 斗話、ちょっと見て!」
カグヤだった。片手にスマホを持ち、もう片方の手で肩のカメラを押さえている。
「今度は何万再生?」
「違うって。仕事の話!」
「わいらの?」
亀が顔を上げた。カグヤは頷き、僕の隣に腰を下ろした。
「バンドに、出演依頼が来た」
金太郎が驚いて口を開き、すぐに顎を押さえた。
連絡が来たのは、カグヤが管理している動画チャンネルの窓口だった。
県内の商業施設で、年末に音楽イベントを開くらしい。担当者がハロウィン祭りの動画を見て、出演をお願いできないかと問い合わせてきたのだという。
「また、何か買ってくださいってやつじゃなくて?」
「それはもう消した。これはちゃんと会社の名前も、会場も書いてある」
差し出された画面を読む。施設の催し物案内にも同じイベントが載っていて、主催会社の窓口を通して確認も取れたと、カグヤは言った。
「昨日、シュンにも見てもらった。話、聞いてみたらって」
「へえ……本当に、出演依頼か」
文面を下へ送ると、希望する演奏時間と、出演料の相談について書かれていた。僕は指を止め、もう一度上から読み直した。
「お金、もらえるッスか」
「そういう相談もするみたい」
「ほな、ドラムの棒代、出してもらおか」
「スティックね」
「折れるんや、あれ。案外」
うらちゃんが水差しを持ったまま、画面を覗いた。
「にんちゃん、喜ぶでしょうね」
「まだ見せてないの?」
「仕事帰りに寄るつもり。その前に、斗話に相談しとこうと思って」
カグヤは僕の顔を見た。
「水槽、車に積めるかな」
僕は会場の住所を開いた。地図の上で、語里町から細い道が山を越え、大きな道路につながっていく。車で一時間ほどの場所だった。
「空で運んで、向こうで水を入れれば、重さは何とかなると思うけど」
「俺、持つッス」
「先に顎を治せよ」
そう言いながら地図を拡大し、僕は、ようやく気づいた。
「……カグヤ。前に、遠くへ行くと具合悪くなるって言ってなかった?」
彼女の笑顔が、少し引っ込んだ。
「あ。それ、あるんだよね」
「あるんだよね、って」
「でも、この場所が駄目かは、わかんないじゃん。あたし、一回気持ち悪くなってから、遠出してないし」
カグヤは画面をこちらへ寄せた。
「誰が、どこまで行けるとか、ちゃんと調べたことないでしょ」
確かに、なかった。
町から離れにくいらしい。それだけ聞いて、皆が町で暮らしていることに、僕は疑問を持たなくなっていた。仕事も買い物も、この辺りで済んでしまうからだ。
うらちゃんが、水差しをテーブルへ置いた。
「僕、行商の車に乗せてもらったことがあります。仕入れの手伝いで」
「そのときは?」
「途中で気分が悪くなって、戻ってもらいました。でも、車に酔っただけかもしれなくて」
「俺は、伐採所までしか行ってないッス」
「わいらも現場、この辺ばっかりやな」
誰も、はっきりしたことを知らなかった。カグヤのスマホの中には、照明のついた大きなステージの写真があった。水槽くらいなら、置けそうに見えた。
「とりあえず、にんちゃんに話そう。本人が出たいかどうかからだ」
「うん。夕方、行ける?」
僕は頷き、地図を自分のスマホにも送ってもらった。
「出たい!」
相談は、三秒で終わった。
にんちゃんは水槽の縁に両手をつき、画面へ顔を近づけていた。カグヤが次の写真へ送るたび、「わ」「広い」と声を上げる。
「ここで歌えるの? この、後ろが光ってるところ?」
「まだ決定じゃないよ。向こうも、詳しく話したいって段階だから」
「でも、聴いてくれたんだよね。あの動画」
にんちゃんは、こちらを向いた。
「私たちのこと、一回も見たことない人が」
「うん。それで、呼びたいって」
「そっかあ……」
水の中で尾びれがゆっくり動いた。にんちゃんはもう一度画面を覗き、出演依頼の文章を、最初から指で追った。
やがて、ある行を読んで、小さく吹き出した。
「『人魚の衣装の持ち込みについて』だって」
「そこ、説明どうしようか迷ってる」
「脱げませんって言っておいて」
「気合い入った人だと思われるな」
カグヤが笑った。にんちゃんも笑いながら、画面を手放そうとしなかった。
僕は二人の間に、自分のスマホを置いた。
「ただ、場所のことで、一つ確かめたいことがある」
地図を見せて、遠出の話をした。カグヤとうらちゃんに起きたこと。にんちゃんには、まだ同じことが起きるかどうかわからないこと。
彼女は最後まで聞いてから、会場の印を指で押した。
「見えない壁とかが、あるの?」
「壁はなかったよ。あたしのときは、車に乗ってて急にむかむかしてきた」
「戻ったら治った?」
「しばらくしたら。シュンの運転が悪いって言っちゃったんだけど」
「謝った?」
「まだ原因わかんないし」
「そこは謝っとこうよ」
僕が言うと、カグヤは唇を尖らせた。
にんちゃんは地図を小さくしたり大きくしたりしていた。町から会場までの道をなぞり、途中にある店の印を一つ開く。
「ここ、ケーキあるって」
「今、そこ?」
「だって、行けたら寄りたいじゃん」
彼女は顔を上げた。
「いきなり本番で行けませんってなるより、先に、ちょっと行ってみない?」
カグヤが僕を見た。僕も、そう提案しようと思っていた。
「少しずつにしよう。変だと思ったら、すぐ戻る。無理して会場まで行く必要はないから」
「了解。じゃあ明日、空いてる?」
「午後なら」
「やった。私、お出かけ用の服、用意しておくね」
にんちゃんは近くの椅子に掛けたコートを持ち上げた。買ったばかりなのか、袖口にはまだ紙の札がついていた。
翌日の昼過ぎ、軽自動車の後部座席に、にんちゃんが乗り込んだ。
飴で脚を出し、コートを着て、膝には小さな鞄を置いている。シートベルトを締めると、助手席のカグヤが振り返って親指を立てた。
「途中でお腹すいたら言ってね」
「気分が悪くなったら、が先だろ」
にんちゃんは笑ってから、スマホに文字を打った。
『どっちも言う』
声は出せなかったが、出発前からずいぶん楽しそうだった。
町を抜ける道へ入ると、彼女は窓の外を眺め始めた。畑の中で王様が鍬を持っている。今日は肩にタオルを掛けていて、僕たちの車に気づくと、鍬を高く掲げた。
「あのおっちゃん、また脱いでる」
カグヤが手を振り返した。後ろから、にんちゃんのスマホが差し出された。
『衣装の持ち込みについて聞いてみたい』
「持ち込むもの、王冠しかないだろ」
僕が答えると、カグヤが吹き出した。
家並みが途切れ、道の両側に木が増えていった。冬の山は、夏よりずっと向こうまで見通せた。カーブを曲がるたび、枝の隙間から川が現れては消える。
十数分走ったところで、助手席のカグヤが窓を少し開けた。
「……あれ」
「どうした?」
「ちょっと、やな感じする」
僕は速度を落とした。バックミラーを見ると、にんちゃんも窓から顔を戻していた。
「にんちゃんは?」
彼女は片手を水平にして、曖昧に揺らした。それからスマホを操作しようとしたが、一度、手を膝へ戻した。
ちょうど先に、車を寄せられる広い場所があった。僕はそこへ入り、エンジンを止めた。
「ここで休もう。降りられる?」
カグヤはすぐにドアを開けた。にんちゃんの側へ回ると、彼女はシートベルトを外し、僕の腕を借りて車を降りた。
足元はしっかりしていたが、唇を結んでいた。普段なら、目に入ったものを次々に撮るところなのに、スマホも鞄も座席に置いたままだった。
僕は車の屋根越しに、カグヤへ尋ねた。
「前も、この辺?」
「前は、別の道。でも、こんな感じだった」
二人が同じ頃に具合を悪くした。それがたまたまなのか、この場所に理由があるのか、判断できなかった。少なくとも、先へ進んで確かめたいとは思わなかった。
「今日は戻ろう」
にんちゃんが顔を上げた。その視線が、進むはずだった道の先へ向く。
少し離れたところに、隣町までの距離を記した青い標識があった。道はその下を通り、緩い坂の向こうへ続いている。
彼女は座席からスマホを取り、ゆっくり打った。
『飴のせいかもしれないよ』
「そうかもしれない。でも、カグヤもだから」
『少し休んだら』
その文字を見せたあとで、にんちゃんは自分の画面を見下ろした。親指が動き、文章が消えた。
『わかった。今日は帰ろう』
僕は頷いて、後部座席のドアを開けた。
来た道を戻ると、しばらくしてカグヤが窓を閉めた。
「……楽になってきた」
後ろを振り返り、にんちゃんにも尋ねている。バックミラーの中で、彼女が小さく頷いた。
僕は道路脇の標識を覚えておこうとした。町へ戻れば治るのか、距離なのか、別の何かなのか。考えても答えは出なかったが、今は何かを考えていないと、後ろの席が気になった。
やがて、さっきの畑が見えてきた。
王様は鍬を置き、農家のおばさんと何か話していた。にんちゃんは窓へ手を上げかけたが、向こうが気づかなかったので、そのまま膝へ戻した。
団地へ着き、飴の効果が切れるのを待って、カグヤがにんちゃんの着替えを手伝ってくれた。僕は廊下で待ち、呼ばれてから部屋へ入った。
水槽へ戻ったにんちゃんは、コートを掛けた椅子を眺めていた。袖口の札は、もう外されていた。
「どう? まだ気持ち悪い?」
「ううん。もう平気」
声も戻っていた。彼女は少し水をすくい、指の間から落とした。
「車、ありがとう。付き合ってもらっちゃって」
「僕も知りたかったから」
「ねえ、今日の場所って、会場までどれくらいだった?」
僕はスマホで確かめた。まだ、半分にも届いていなかった。
「……四十分くらい」
「そっか。結構あるね」
にんちゃんは頷いた。それから、鞄の中を探って、小さな財布を取り出した。
「ケーキ代、使わなかった」
「今度、僕が買ってくるよ」
「うん。……でも、選びたかったな」
返事をしかけて、やめた。
にんちゃんは財布を閉じ、鞄へ戻した。カグヤがその鞄を受け取り、椅子へ置いた。
「依頼、返事どうしようか。今すぐ決めなくてもいいけど」
「期限は?」
「来週の金曜までに、出られそうかだけでもって」
にんちゃんは僕を見た。さっきまでは、残念だったね、と言って今日を終えることもできた。けれど、その顔を見ていると、僕はもう一度、地図を開きたくなった。
「まだ、断らなくていいと思う」
「……何か方法ある?」
「わからない。でも、本棚のことも、移動のことも、ちゃんと調べてないだろ。父さんの残したものも、まだ全部は見てないし」
カグヤはすぐには頷かなかった。
「出られるって返事は、しないよ?」
「うん。確認中だって伝えて。会場の条件も、もう少し聞いておいてほしい」
仕事で使っている予定表を開き、金曜日に印をつけた。そうすると、一週間が急に短く見えた。
「……斗話くん」
顔を上げると、にんちゃんが水槽の縁に手を置いていた。
「私、やっぱり行きたい。あそこで歌いたい」
「うん」
「でも、また今日みたいになったら、ちゃんと帰るから」
僕は頷いた。彼女も頷き、それでようやく、鞄からスマホを取り出した。
開いたのは、あのステージの写真だった。
帰宅すると、母が廊下で掃除機を片付けていた。
「おかえり。早かったわね」
「うん。ねえ、父さんの手帳って、書斎の机以外にもあった?」
「手帳?」
「昔のでもいいんだけど。本棚のことで、何か書いてないかと思って」
母は少し考え、階段の方を見た。
「机にあった分は、あんたが箱に入れたでしょう。あとは押し入れかしら。捨てずに取っておく人だったから」
「見てみる」
書斎へ入り、床に積んだ段ボールを動かした。何度も整理したつもりだったのに、仕事に使う場所を空けたところで止まっていた箱が、まだ残っていた。
いちばん下の箱を引き出すと、古い手帳や封筒に混じって、一枚の道路地図が出てきた。
語里町の周辺を開いたまま、折り癖がついている。印刷された道のそばに、赤い鉛筆で、小さな丸がいくつも書き込まれていた。
その一つに指を置いた。
今日、車を止めた場所のすぐ近くだった。




