第45話 拳を交わした先に
地面に倒れ込んだまま、桃太郎はしばらく動かなかった。
だが、やがて、ゆっくりと体を起こし始めた。口の端から血を滲ませながらも、その目には、先ほどまでとは違う、どこか澄んだ光が宿っていた。
「……お前の言葉、わかった」
立ち上がった桃太郎が、静かにそう言った。
「主人公を、全うしろ、か」
「わかってくれたか……!」
金太郎が、荒い息のまま、拳を握りしめた。
「ああ。だが……」
桃太郎の口元に、これまで見せたことのない、獰猛な笑みが浮かんだ。
「最後に、もう一撃だけ、付き合ってもらうぞ。お互い、本気の一撃で終わらせよう」
「望むところッス!」
その瞬間だった。
桃太郎の全身から、目に見える形で、青白い光がバチバチと弾け始めた。
「な……!」
僕は、思わず息を呑んだ。これまで、どのキャラクターにも見られなかった現象だった。まるで、体内に溜め込んだ何かが、限界を超えて溢れ出しているかのような、常軌を逸したオーラだった。
それを見た金太郎も、負けじと構え直す。その全身にも、同じような赤みを帯びた光が、揺らめきながら宿り始めていた。
(これ、ファンタジーの領域じゃないか……)
これまでのコミカルな戦いとは、明らかに一線を画す気配だった。木の陰から見守る僕の背筋に、冷たいものが走った。
「行くぞ……!」
「うおおおおおおッス!!」
両者が、同時に地面を蹴った。
互いの拳が、まっすぐに交差する。
その瞬間、拳と拳が、正確に相手の顔面を捉えた。
次の瞬間、ものすごい轟音と共に、爆発的な風圧が僕の頬を叩いた。
「うわっ……!」
巻き上がった砂埃が、視界を白く塗りつぶす。僕は思わず、両目を強く閉じた。
しばらくして、風の勢いが収まったのを感じ、僕はゆっくりと目を開けた。
土煙の中、立っていたのは、桃太郎だった。
その足元には、仰向けに倒れた金太郎の姿があった。
(桃太郎の、勝ちか……)
息を切らしたまま、桃太郎は、倒れている金太郎を見下ろした。そして、何かを、ぽつりと呟いた。
「……………守れ………」
あまりに小さな声で、風にかき消されそうになっていた。僕の耳には、その言葉の断片しか届かなかった。
「え、今、何て……」
僕が聞き返そうとした頃には、桃太郎は既に、いつもの無表情に戻っていた。
「……大丈夫か、金太郎」
僕は、慌てて倒れている金太郎に駆け寄った。
「……いてぇ……でも、清々しいッス」
金太郎は、痛みに顔をしかめながらも、どこか満足げな表情を浮かべていた。
僕は、そのまま桃太郎に近づき、控えめに声をかけた。
「あの……スッキリ、できた?」
桃太郎は、しばらく間を置いてから、短く答えた。
「多少は」
その言葉には、以前のような刺々しさが、少しだけ和らいでいるように感じられた。
数日後、僕は「黒馬」を覗きに行った。
カウンターの奥に立つ桃太郎の顔には、大小さまざまな湿布が、いくつも貼られている。あの一撃の激しさを、如実に物語る跡だった。
「桃太郎さん、大丈夫ですか……?」
常連らしき女性客たちが、心配そうに次々と声をかけている。
「問題ない」
いつも通りの素っ気ない返答だったが、その表情には、以前にはなかった柔らかさが滲んでいた。
そこへ、引き戸を開けると、金太郎が姿を現した。
「よお、桃太郎! 傷の具合はどうだッス!」
「……お前ほどではない」
「なんスかそれ、負け惜しみッスか!」
二人は、そのまま軽口を交わしながら、談笑を始めた。相変わらずのクールな佇まいは変わらないが、桃太郎の口元には、確かに、笑みがこぼれていた。
その光景を、カウンターの端から眺めながら、僕は静かに思った。
(あの「守れ」って、何を守れって言ったんだろう)
答えの出ない疑問を胸に抱えながらも、僕は、二人の穏やかなやり取りに、自然と頬を緩めていた。




