第5話 うらちゃんの居場所
翌日、僕は「たいせい」の様子を見に、ふらりと店を覗いてみることにした。
暖簾をくぐろうとしたうらちゃんが、ガンッと大きな音を立てて立ち止まる。腰に括りつけたままの釣竿が、暖簾の柱に引っかかっていた。
「……あ」
絶妙な角度で、竿の先が暖簾の棒にがっちり噛んでいる。うらちゃんはしばらくジタバタともがいたあと、諦めたように竿を外し、ようやく店の中へと入っていった。あの必殺の釣り技も、日常生活ではただの邪魔物らしい。何百年生きても、そういうところは変わらないのかもしれない。
「よお、来てたのか」
カウンターの奥から、店主が声をかけてきた。手にはまな板と、鯵らしき魚が一匹。
「どうですか、うらちゃんは」
「見てみりゃわかるだろ」
店主が顎で示した先で、うらちゃんが包丁を握っていた。手つきはまだたどたどしいが、以前のように店を飛び出すことはない。時折、額に汗を浮かべながらも、じっと魚と向き合っている。
「一気に全部は無理だろうから、ちょっとずつな。さばく真似だけさせて、あとは俺がやる。それでも、だいぶ慣れてきた」
「無理させてないですか」
「させてねぇよ。あいつのペースに合わせてるだけだ」
店主はそう言うと、うらちゃんの手元を覗き込み、包丁の角度をすこし直してやった。
「そこ、もうちょい寝かせて。……そうそう、それでいい」
「は、はい……!」
褒められて、うらちゃんの背筋がぴんと伸びる。表情はまだ強張っていたが、以前のような怯えとは、明らかに種類が違って見えた。
「少しずつ、色々やらせてみるつもりだ。無理せずにな」
店主はそう言って、豪快に笑った。人手不足を助けてもらっているのは事実だろうが、それだけではない優しさが、その笑い方には滲んでいる。三百年分のトラウマを抱えた元童話の主人公を、こんなふうに受け入れてくれる人間が、この町にいる。
(心の広い人だな)
僕はそう思いながら、しばらくその光景を眺めていた。魚と格闘するうらちゃんと、それを見守る店主。どこにでもありそうで、どこにもなさそうな、奇妙で温かい光景だった。
その日の夕方、僕は一人で川へ向かった。
誰に誘われたわけでもなかったが、なんとなく、竿を持ちたい気分だった。河原に腰を下ろし、糸を垂らす。うらちゃんのようにはいかず、ヤマメは一向にかかる気配がない。
水面が、夕日を受けてゆっくりと色を変えていく。橙、それから淡い紫へ。
(そういえば……)
子供の頃、父はいつもこの時間になると、黙って竿をたたみ始めた。何も釣れなかった日でも、不満そうな顔ひとつ見せなかった。ただ、「今日はこんなもんか」とだけ呟いて、隣を歩く僕の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
あの頃はわからなかったけれど、今ならすこしだけわかる気がする。釣れるかどうかなんて、たぶん、あまり大事なことではなかったのだ。
風が、川のにおいを運んでくる。うらちゃんが少しずつ前を向き始めたように、僕もまた、ゆっくりと何かを取り戻しているのかもしれない。そんな気がした。
結局、その日は一匹も釣れなかった。それでも僕は、竿をたたみながら、小さく笑っていた。




