第4話 魚は塩焼き
虹色の吐瀉物を見せられた翌日、店主は難しい顔で腕を組んでいた。
「あれは……食えねぇんじゃなくて、思い出せねぇんだろうな」
「思い出せない?」
「魚が怖いんじゃなくて、竜宮城の魚が怖いんだよ、きっと」
店主の言葉に、僕ははっとした。うらちゃんが吐いたのは、魚そのものではなく、あの七十年の記憶だったのかもしれない。だとしたら、必要なのは克服ではなく、上書きだ。
「うらちゃん、魚を美味しいと思ったこと、あるか?」
カウンターに三人で並んで座り、僕は改めて聞いてみた。うらちゃんはしばらく考え込んだあと、ぽつりと口を開いた。
「……あります。竜宮城で毎日魚を食べるまでは、それに小さい頃の思い出も…」
「へえ」
「父と、川に釣りに行って。浜辺で、その場で塩焼きにして食べたんです。すごく……美味しかった」
うらちゃんの声は、いつもの弱々しさとは少し違う響きを持っていた。懐かしさと、少しの寂しさが、湯気のように立ちのぼっている。
「竜宮城の魚は、全部海の魚だったんですよね。だから、山の魚なら……」
店主がぽんと手を叩いた。
「そういうことか。一番新鮮なやつを、思い出のやり方で食わせりゃいい」
「山魚……ヤマメとか?」
「おう。休みの日にでも、二人で釣りに行ってこい」
というわけで、僕とうらちゃんは、次の休みに川へと向かうことになった。
山あいを流れる川は、朝の光を受けて、あちこちで細かく光っていた。うらちゃんは腰に括りつけた釣竿を、慣れた手つきですっと構える。竜宮城帰りの男の本領発揮とでも言うべきか、糸を垂らすたびに、面白いようにヤマメがかかった。
「すごいな、うらちゃん」
「これだけは……得意なので」
照れくさそうに笑う顔は、初めて会ったときの強がりとも、食堂でおどおどしている姿とも、また違って見えた。
ただし、釣り上げたヤマメを針から外す作業は、決まって僕の役目だった。うらちゃんは魚がぴちぴちと跳ねるたびに、さっと目をそらして後ずさる。何百匹と釣ってきたはずなのに、外すのだけは絶対にやらない。器用に釣って、不器用に逃げる。忙しい男だと、今日も思う。
昼過ぎ、僕たちは河原に石を積んで焚き火を起こした。パチパチと爆ぜる音に混じって、串に刺したヤマメが、じわじわと脂の匂いを立ちのぼらせていく。味付けは、塩だけ。
「シンプルなのがいいんだよな、こういうのは」
「……そう、ですね」
うらちゃんの声は、少し掠れていた。串を受け取る手が、かすかに震えている。魚を前にしたときの、あの怯えとはまた違う震え方だった。
うらちゃんは目を閉じ、意を決したように、ひと口かじった。
「………」
しばらくの沈黙。パチ、と焚火の爆ぜる音だけが響く。
「……美味しい」
ぽつりとこぼれた声は、震えていた。ガクガクと肩を上下させながら、それでもうらちゃんは、もうひと口、もうひと口と食べ進めていく。
「父さんと食べたのと……同じ味です」
目尻に、光るものが滲んでいた。三百年近く生きてきた男が、たった一匹の塩焼きに、子供みたいな顔で泣いている。
僕もまた、串を手に取ったまま、しばらく口をつけられずにいた。
(そういえば……)
子供の頃、父と行った川釣り。何時間も無言で竿を並べて、結局何も釣れなかった、あの日。父の遺影を見上げたときに感じた、あの静かな胸の痛みが、また少しだけ戻ってきていた。
焚き火の向こうで、うらちゃんが洟をすする音がする。つられるように、僕の目の奥も熱くなった。
「……美味いな、これ」
誤魔化すみたいにそう呟いて、僕もヤマメにかじりついた。塩気の向こうに、少しだけ懐かしい味がした。
川のせせらぎと焚き火の爆ぜる音だけが、しばらくの間、二人の間を埋めていた。




