第3話 オロロロロロロ
働かざる者食うべからず。
誰が言い出したかも知らない格言を、僕はうらちゃんの前でしたり顔で口にした。
「働かざる、もの……?」
「食うべからず。つまり、働かないやつは飯も食えないってことだよ」
「そ、そんな……! 僕、飯抜きなんて無理です……!」
三十路手前の男に対して使うにはいささか乱暴な理屈だったが、効果は抜群だった。うらちゃんは涙目になって、ぶんぶんと首を横に振っている。まあ、脅しではなく、単純にこの先ずっと僕の家の飯に頼られても困る、というだけの話だった。
というわけで、僕たちは町を歩きながら、うらちゃんの働き口を探すことにした。
「そういえば、うらちゃんって前は何してたの? 竜宮城に行く前とか」
何気なく聞いたつもりだった。だが、うらちゃんはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと答えた。
「釣り……ですかね」
「うん、それで?」
「いや……それだけです。毎日、釣りしてました。あとたまに家畜の世話です…」
毎日、釣り。それ以外に、何も。三十過ぎまでサラリーマンをやっていた僕としては、その潔いまでの経歴に、なんと声をかけていいかわからなかった。うらちゃんは恥ずかしそうにうつむいて、指で頬をかいている。
何百年近く生きてきた履歴書が、たった一行で終わるというのは、ある意味では才能なのかもしれない。
「……釣り、以外は?」
「ないです。家畜の世話くらいでほんとに、ないです」
あまりにきっぱりと言い切るので、逆に笑いそうになった。哀愁と間抜けさが、絶妙な配分で同居している。
ふと、うらちゃんが立ち止まった。視線の先には、町にただ一軒しかない食堂「たいせい」の看板があった。数日前、二人で来た店だ。
「あの……僕、料理、やってみたいです」
「料理?」
「あの、とり天……あれ、すごく美味しかったので。僕もあんなふうに、何か作れるようになりたいなって」
魚に人生の九割を邪魔されている男が、こんなにも素直な目で料理をやりたいと言うのは、なかなかに皮肉が効いていた。けれど、その顔はさっきまでの情けなさが嘘みたいに、少しだけ輝いて見えた。
「じゃあ、頼んでみるか」
僕たちは引き戸を開けて、「たいせい」の暖簾をくぐった。
店主は、僕らの相談を最後まで聞くと、腕を組んで唸った。
「うちの嫁さん、隣町のパートに出ちまっててな。猫の手も借りたいのは本当だ」
「じゃあ……」
「ただし!」
店主は太い指を一本立てて、僕らを交互に睨みつけた。
「あんまり給料はあげれねぇぞ! それでもいいなら、明日から来い」
うらちゃんは背筋をぴんと伸ばし、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
声だけは、やけに勇ましかった。
翌日から、うらちゃんの「たいせい」修行が始まった。
最初の仕事は、掃除と注文取り。雑巾でテーブルを拭き、暖簾をかけ、客が来れば「いらっしゃいませ」と頭を下げる。三百年ぶりの接客業は、見ているだけでこちらがはらはらするほど危なっかしかったが、それでも彼なりに真面目にやっていた。
問題は、女性の客だった。
近所のおばあちゃんが来店すると、うらちゃんの手が震え、水をこぼす。小さな女の子が「メニューちょうだい」と無邪気に手を伸ばすだけで、顔面蒼白になって固まってしまう。
「うらちゃん、ただの女の子だから」
「わ、わかってます……! わかってるんですけど……!」
わかっていても、体が言うことを聞かない。それが乙姫トラウマの厄介なところらしい。それでも彼は、震える手でお冷やを運び、なんとかオーダーを通し続けた。店主も、そんなうらちゃんを見て、特に急かすでもなく「慣れだ、慣れ」とだけ言って、黙々と厨房に立っていた。
そうして数日が過ぎたある日のことだった。
店主が、まな板の上に一匹の鯵を置き、うらちゃんを手招きした。
「そろそろ、こいつをさばいてみるか」
その一言に、うらちゃんの顔から表情が消えた。
「さ、さばく……?」
「難しく考えんな。まずは触ってみりゃいい」
うらちゃんは、まるで爆弾の解体でも任されたかのような手つきで、鯵に指先を伸ばした。ひんやりとした、あの独特の感触。三百年分の記憶が、一瞬でよみがえったのだろう。
次の瞬間、うらちゃんは包丁を放り出し、脱兎のごとく店の外へと駆け出した。
「うらちゃん!?」
慌てて追いかけると、彼は店の裏手で四つん這いになり、盛大に胃の中身をぶちまけているところだった。
「オロロロロロロ〜」
しかも、ただの嘔吐ではなかった。吐瀉物は、なぜか虹色に輝いていた。竜宮城仕込みの体質なのか、それとも別の呪いなのか、うらちゃんの胃袋は地面の上に、七色のグラデーションを描いている。
「な、なんだこれ……」
僕は言葉を失いながら、その光景をただ見つめることしかできなかった。近くを通りかかった猫が、興味深そうに虹色の吐瀉物を覗き込んでは、すぐに興味をなくして去っていった。
うらちゃんは涙目で、力なくこちらを振り返った。
「……すみません、また、駄目でした」
その声には、これまでの強がりも、勇ましさも、もう欠片も残っていなかった。ただ、情けなさと申し訳なさだけが、夕暮れの町の裏路地に、静かに滲んでいた。




