第2話 浦島太郎 サバ定食
第2話 浦島太郎 サバ定食
玄関の引き戸を開けた瞬間、朝のさわやかな風と一緒に、その青年は転がり込んできた。
「どちらさまですか?」
そう聞いた僕に、彼は肩を怒らせて声を張り上げた。
「そっちがうちにこいって、お告げしてきたんだろうがぁ!」
第一声がそれか。玄関マットの上で仁王立ちする青年を見ながら、僕はしばらく言葉を失った。お告げ。この令和の田舎町の玄関先で、その単語を初対面の人間から浴びせられるとは思わなかった。
………なんだコイツ。
けれど、ここで気圧されるのも癪だった。下手に出れば、こういうタイプは調子に乗る。声のわりに顔立ちはまだ幼く、たぶん自分より年下だ。なら、しっかり言っておくべきだと、瞬時に頭のどこかが判断していた。
「いきなり来て、そっちから声かけてきて、その態度はなんだ! 常識ないのかぁ!」
こちらも負けじと声を張ると、効果はてきめんだった。仁王立ちだった青年の肩が、みるみる縮んでいく。
「す、すいません……こっちの世界のルールに、慣れてなくて……」
先ほどまでの威勢はどこへやら、がくがくと震え出す様は、まるで台風一過のあとの濡れた子犬のようだった。ずいぶんと忙しい男だ。
「こっちの世界って、どういうこと。名前は?」
「う……う、うらしま……」
蚊の鳴くような声のあと、観念したように背筋を伸ばし、彼は名乗った。
「浦島太郎です……」
………浦島太郎が、来た。
夕方の玄関先で、僕はその事実をゆっくりと咀嚼した。理科の授業で聞いたブラックホールの話くらい、実感が湧かない。ただ、ひとつだけ確信めいたものがあった。この男は、初対面ではとりあえず強気に出て場を支配しようとするタイプで、けれど中身はきっと、この今の怯えっぷりの方が素なのだ。虚勢というのは大抵、薄い膜みたいなものですぐに剥がれる。
聞けば、浦島太郎をはじめとした童話の登場人物たちは、向こうでひとつの世界に集まって暮らしているらしい。そこへ時折、神から声がかかる。
「今日からここな」
そのひと言で、こちらの世界へ召喚されるのだという。浦島にとっても、実に70年ぶりの召喚だったそうだ。70年。その数字の重さに、目の前の青年の顔をもう一度見てしまう。歳の見た目と実際の時間の流れが、まるで噛み合っていない。
そんな話を玄関先でしていると、廊下の奥から母が顔をのぞかせた。エプロンの紐を結び直しながら、のんびりとした声で言う。
「あら、お友達? 上がってもらったら」
その瞬間だった。浦島太郎の顔から、すうっと血の気が引いた。額に汗が浮かび、両手が細かく震えだす。夏の夕方だというのに、まるで真冬の廊下に立たされたような顔色だった。
「どうした? 大丈夫か?」
思わず肩に手を伸ばしかけると、彼は蚊の鳴くような声で打ち明けた。過去に、ある女性からとんでもない裏切りに遭ったのだと。それ以来、女性という存在そのものが、彼にとって刃物のように恐ろしいものになってしまったらしい。
………あぁ、あの姫か。
僕の中で、点と点が線になった。けれど、それを口にするほど無粋にはなりたくなかったので、黙っておいた。傷口に指を突っ込むような真似は、初対面の相手にすることじゃない。
そのとき、静まり返った玄関に、場違いなほど大きな音が響いた。
「グルルルル……」
浦島太郎の腹の虫だった。彼は耳まで真っ赤にして、うつむいた。700年生きてきた男が、腹の音ひとつでここまで打ちのめされるとは。震えていたはずの体が、今度は羞恥で固まっている。忙しい男だ、と改めて思う。
とりあえず腹ごしらえだ。町にたった一軒しかない食堂に、彼を連れていくことにした。夕暮れの町を歩きながら、僕は隣を歩く元童話の主人公をちらちらと盗み見た。古びたアスファルトの上を、所在なさげな足取りでついてくる姿は、どこにでもいる普通の青年にしか見えない。教科書の挿絵とは似ても似つかない、ただの猫背の兄ちゃんだった。
食堂の引き戸をくぐると、油と出汁の匂いが鼻をくすぐった。カウンターの奥にいたのは、友人の父親だ。
「おじさん久しぶり〜」
「おぉ〜、帰ってきたか」
葬式以来だったが、店主は変わらぬ調子で迎えてくれた。あの時と同じ、少し掠れた優しい声。窓際の席に座り、外の薄闇に沈んでいく町並みを眺めながら、僕は適当にサバ定食を2人分頼んだ。
食べながら話でもしようか、そう思っていた矢先、注文を聞いた浦島の顔が、また蒼白になった。テーブルの下で、膝が小刻みに揺れているのが見える。
「魚が……無理なんです……」
聞けば、竜宮城での日々は、毎晩毎晩、魚料理のオンパレードだったらしい。豪華だが、来る日も来る日も魚。365日サバ、タイ、ヒラメのローテーション。想像するだけで、なるほど、と納得してしまった。竜宮城に牛肉の生姜焼きが出てくるわけがない。
仕方なく、追加でとり天定食を頼み、余ったサバ定食は僕がありがたく2人前平らげることにした。運ばれてきたとり天に、浦島はようやく人心地ついたような顔をした。湯気の向こうで、少しだけ表情が緩む。
箸を進めながら、ぽつぽつと話は続いた。神に呼び出される直前、彼はこう告げられたのだという。
「あなたの心の傷も、新しい場所で癒されるでしょう」
………話が違う。
思わず箸を止めた。てっきり、こちらが何か助けてもらえる存在なのかと思っていたのに、蓋を開ければ、助けを必要としているのは向こうだった。むしろこっちが玉手箱を渡したい気分だった。
けれど不思議と、それを迷惑だとは感じなかった。目の前で、とり天を頬張る青年を眺めながら、僕はふと自分の中の違和感のなさに気づく。こんな非常識な出来事の連続なのに、なぜか驚きが浅い。
………そういえば、小さい頃も、こんなことがあった気がする。
見知らぬ誰かがふらっと家に泊まりに来て、何日か過ごしてまたどこかへ消えていく。古めかしい着物のような格好をした人。獣のような耳や尻尾を持った人影。そんな記憶の断片が、頭の隅にちらつく。だが、思い出そうとすればするほど、白い霧のようなものがその輪郭を覆い隠していく。
まぁ、いいか。
そういうことにして、僕は話を先に進めた。浦島は女性が怖い。魚が怖い。そして何より、亀に対する憎悪が深い。無理もない、と思う。助けた亀に連れられて、竜宮城でご馳走にはありついたものの、まさかあんな結末が待っているとは、誰も予想できなかっただろう。恩返しのつもりが、まさかの時限爆弾持参とは、亀もなかなかの策士である。
「注意点は、全部言っとけよ」
そう促すと、浦島は箸を置き、神妙な顔で頷いた。
「とりあえず、この町に住んで、ちょっとずつ良くなっていけたらいいね」
窓の外はすっかり夜の色になっていた。町灯りがぽつぽつと灯り始めている。
人口およそ1000人。若者はどんどん減っていて、猫の手も借りたいくらいの町だ。手伝ってほしいことなら、探すまでもなくいくらでも転がっている。
住まいは、うちの隣に建つ団地のような建物にした。父がむかし宝くじに当てた金で、人が減って維持費ばかりかさみ、取り壊し寸前だった町営団地の権利を丸ごと買い取ったものだ。今はお年寄りがぽつぽつと暮らしている程度だから、部屋はいくらでも空いている。
あとは、呼び方だ。物心ついたときからずっと同じキャリアを使い続けている僕は、特に迷うこともなく、こう決めた。
「うらちゃん」
70年ぶりの下の名前呼び、しかもちゃん付け。浦島は一瞬固まったあと、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。
食堂の窓の外、夜風にちいさく揺れる暖簾を眺めながら、僕はなんとなく、これから始まる面倒事の予感に、少しだけ口の端を上げていた。




