童話のはじまり
離婚届は、テーブルの上ではなく、童田斗話の胸のあたりに叩きつけられた。
「もう無理。晃さんと一緒になる」
紙の角が鎖骨のあたりに当たって、痛みよりも先に、乾いた音がした。ぱさり、と。まるで何でもない書類が一枚落ちただけのような、あっけない音だった。斗話はそれを拾い上げることもできず、リビングの床に落ちたA3の紙を見下ろしていた。判を押す欄が、やけに白く目についた。
妻 いや、もう妻ではなくなる人の名前は美和子といった。結婚して四年、同じ布団で眠り、同じ茶碗でご飯を食べてきた相手が、まるで見知らぬ他人のような目でこちらを見ていることに、僕は不思議と現実感を持てずにいた。
「……いつから」
「半年前。ずっと言おうと思ってた」
半年前を思い出そうとした。半年前の自分が何をしていたか。残業続きで帰りが遅くて、休日も寝てばかりで、美和子が「最近ちゃんと話してないね」と言った日があったような気がする。あのとき、自分はなんと答えたのか覚えていない。それだけが、今になって重くのしかかってきた。
美和子はその週末のうちに荷物をまとめて出ていった。段ボール箱が三つと、キャリーケースが一つ。四年分の生活が、それだけの大きさに収まってしまうのだということに、僕は妙な感慨を覚えた。玄関のドアが閉まる音は、思っていたよりずっと静かだった。
一人になった部屋で、僕はしばらく何もできずにいた。テレビをつける気にもならず、かといって寝る気にもなれず、ただリビングの床にあぐらをかいて、換気扇の音を聞いていた。
その静けさを破ったのは、母からの電話だった。
「斗話……お父さんが」
声だけで、全部わかった。
葬式は、思っていたよりも淡々と進んだ。大分の実家に戻り、近所の人たちに頭を下げ、お坊さんの読経を聞き、焼香の匂いに包まれながら、僕は父の遺影を見上げていた。写真の中の父は、いつもの仏頂面で、少しだけ笑っているような、笑っていないような、判別のつかない表情をしていた。
もう何年も、ゆっくり顔を合わせていなかった。正月に帰省しても、父は書斎に籠もっていることが多く、居間で交わす会話といえば天気の話か、テレビの話くらいのものだった。何を考えていたのか、斗話はほとんど知らない。
喪主を務める母は、気丈に振る舞っていたが、時折、線香の煙の向こうで肩を震わせているのが見えた。僕はその背中に、かける言葉を持たなかった。
葬儀が終わり、県外にいる姉が仕事の都合で先に帰っていったあと、僕は一人、実家の縁側に座って川の音を聞いていた。語里町を流れる川は、昔から変わらない透明さで、山の中をくねりながら流れている。子供の頃、この川で釣りをした記憶が、ふいに蘇った。父と二人、竿を並べて、何時間も口をきかずに座っていたことがあった。あれは何を釣っていたのだったか。何も釣れなかった気もする。
(もう、聞けないんだな)
僕はそう思った瞬間、これまでこらえていたものが、一気に喉元までせり上がってきた。離婚のことも、父のことも、まとめて押し寄せてきて、目の奥が熱くなった。けれど涙は出なかった。ただ、川の音が少し遠くなったような、そんな感覚だけが残った。
東京に戻った僕は、しばらく仕事を続けたものの、身が入らなかった。得意先との商談中に、ふと美和子の顔が浮かんだり、書類の判を押す欄を見るたびに、あの日の離婚届を思い出したりした。
半月後、上司に退職を申し出た。引き止められたが、心は決まっていた。荷物をまとめ、賃貸マンションを解約し、四年分の家財道具を実家に送るか処分するかして、身軽になった。
「少し、ゆっくり生きてみるのもいいかもしれない」
誰に言うでもなく、そう呟いた。三十歳、無職、バツイチ。何もかもを失ったはずなのに、不思議と足取りは軽かった。
語里町に戻った僕を、母は静かに迎えてくれた。
「おかえり」
その一言だけで、母の目にわずかな光が戻ったように見えた。父を亡くしてから塞ぎ込んでいた母が、息子の帰郷を機に、少しずつ台所に立つ時間が増えていった。米を研ぐ音、味噌汁の匂い、テレビの音量、そういう生活の気配が、この家に戻ってきていることを、僕は肌で感じていた。
ある夕方、久しぶりに父の書斎の戸を開けた。
部屋の中は、時が止まったようだった。木製の机、使い込まれた万年筆、めくりかけのままの手帳。そして壁一面を覆う本棚には、隙間なく本が詰め込まれていた。
「懐かしいでしょう」
背後から声がして、振り返ると母が立っていた。エプロンで手を拭きながら、部屋の中を見渡している。
「お父さん、本当に本が好きだったから。特に、童話とか昔話とか、そういうのばっかり集めてね」
「こんなに?」
「五百冊はあると思うわよ。私も数えたことないけど」
母は苦笑いしながら、部屋の奥の本棚は他とは少し様子の違う、古い木の扉のついた本棚に目をやった。
「あれね、開かないのよ〜」
「開かない?」
「鍵があるわけでもないのに、押しても引いても、ビクともしないの。お父さんに聞いても『そのうちわかる』とか言うだけで、教えてくれなかった」
母の声には、どこか懐かしさと、少しの寂しさが滲んでいた。その扉に近づき、そっと手をかけてみた。冷たい木の感触。押してみても、確かにびくともしない。
「変な本棚」
母はそう言って、小さく笑った。それは、久しぶりに見る、心からの笑みだった。
その夜、斗書斎の片付けを買って出た。誰に頼まれたわけでもなかったが、床に積み上がった本を整理していると、不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。
埃を被った文庫本、色あせた表紙の児童書、背表紙が取れかけた図鑑。一冊一冊を手に取るたび、子供の頃の記憶がぽつぽつと蘇ってきた。父に読み聞かせてもらった絵本、姉と取り合いになった漫画、夏休みの宿題で読んだ課題図書。忘れていたはずの記憶が、埃と一緒に舞い上がってくるようだった。
気づけば、二時間近く経っていた。窓の外はすっかり暗くなり、山の向こうから虫の声が響いてくる。積み上げた本の山にもたれかかるようにして、一息ついた。
(少し休むか)
そう思った瞬間、瞼が急に重くなった。長い葬式の疲れ、東京からの引っ越しの疲れ、それら全部がここに来て一気に押し寄せてきたようだった。本棚に背をつけたまま、うとうとと意識を手放していった。
ふと、部屋の奥が、淡く光っているような気がした。
夢か現実か判然としないまま、斗話は重い瞼をこじ開けた。目の前に、あの開かなかったはずの本棚の扉が、わずかに開いている。そこから漏れる光は、月明かりよりも柔らかく、蝋燭の炎よりも静かだった。
半分眠ったまま、ふらふらとその光に引き寄せられた。扉の隙間から手を差し込むと、抵抗なく開いた。棚の中には、他の本とは明らかに違う、古い革張りの一冊が置かれていた。表紙には文字はなく、ただ淡い光の粒のようなものが、表面を漂っているように見えた。
その本を手に取ると、見開きのページに、達筆な文字で短い一文だけが記されていた。
『この本棚は、月に一度ひらきます。その物語のものは、あなたの手助けになるでしょう。』
それだけだった。前後の説明も、使い方も、何も書かれていない。
(なんだ、これ)
寝ぼけた頭で、ぼんやりとその文字を眺めた。父が何十年も集めていた本、開かなかった本棚、そして意味のわからない一文。全部が繋がっているようで、何一つ繋がっていないようにも思えた。
ふと、本棚の中には、他にも小さな紙片が挟まっていることに気づいた。そこには、いくつかの物語の題名らしきものが並んでいる。「うらしまたろう」「かぐやひめ」「ももたろう」 子供の頃、誰もが一度は耳にした昔話だった。
寝ぼけた頭で、なんとなく、一番上にあった名前を指でなぞった。
「うらしま、たろう……」
声に出して読んでみたが、何も起こらなかった。本の光もそのままで、部屋の空気も変わらない。ただ静かに、虫の声だけが響いている。
(そりゃ、そうだよな)
自嘲気味に笑った。父の遺した本棚に、多少不思議な仕掛けがあったところで、それだけのことだ。おとぎ話が現実になるはずもない。疲れた頭が見せた、都合のいい夢か何かだったのかもしれない。
そう結論づけると、急激な眠気が舞い戻ってきた。斗話は本を閉じ、床に積んだ本の山にもたれかかったまま、そのまま深い眠りに落ちていった。
次に目を覚ましたのは、鳥の声だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、書斎の床を斜めに切っている。首の痛みに顔をしかめながら身を起こした。昨夜、本棚が光っていたことも、開かなかった扉が開いていたことも、今となっては夢だったのかどうか、判然としない。振り返ると、本棚の扉はいつも通り、固く閉ざされていた。
(やっぱり夢か)
そう思いながら立ち上がったとき、階下でチャイムの音が鳴った。
この山奥の集落で、朝早くに訪ねてくる人間など、ほとんどいない。僕は寝癖のついた髪のまま、階段を下りて玄関へと向かった。すりガラスの向こうに、誰かの影が立っている。
「はーい」
声をかけながら、僕は玄関の戸を開けた。
朝の光が、真っ直ぐに差し込んでくる。その逆光の中に、一人の若い男が立っていた。
年齢は、二十歳前後だろうか。長めの黒髪を無造作に一つに結い、着ているのは今どき見かけることのない、古い柄の男物の着物だった。裾は所々擦り切れ、色あせている。腰には、麻縄のようなもので何かを括りつけており、その手には一本の、年季の入った木製の釣竿が握られていた。
男は、まぶしそうに目を細めながら、僕をじっと見つめていた。その表情には、戸惑いと、どこか懐かしむような色が混じっている。
朝の澄んだ空気の中、川のせせらぎだけが、二人の間の沈黙を埋めていた。




