第33話 人魚の夢、集結の夜
団地の一室、その扉を開けると、にんちゃんが待ちきれない様子で水槽から上半身を乗り出していた。
「やっほー! 来てくれたんだ〜」
「連絡もらったから。相談って?」
僕がそう聞くと、にんちゃんは、いつもの明るさの中に、どこか熱っぽい光を宿した目でこちらを見つめた。
「あのね、スマホもらってから、色んな動画サイト見てたんだけど」
「うん」
「その中で、めちゃくちゃ心惹かれたのがあってさ」
にんちゃんは、スマホの画面をこちらに向けた。表示されていたのは、シンプルなタイトルの動画だった。
「『The一発撮り』っていう企画なんだけど。編集とか一切なしで、ミュージシャンがその場で歌い上げるやつなの」
「へえ」
「もう、鳥肌立っちゃって。何回も何回も見返しちゃった」
その目には、単なる興味以上の、確かな憧れが宿っていた。
「私さ、もともと歌うのが大好きだったんだ。でも、あっちの世界だと、なかなか歌う機会もなくてね」
「そうなんだ」
「せっかく、こっちに来られたんだから。挑戦できる世界に来たんだから……。みんなに、私の歌声、届けたいなって」
その言葉には、これまでの陽気さとはまた違う、静かな決意のようなものが滲んでいた。
「あのさ」
にんちゃんは、少し声のトーンを落として、続けた。
「私、昔、大好きな王子様のために、声を失ったことがあるんだ」
その一言に、僕は息を呑んだ。あの物語の、核心的な部分だった。
「それ自体は、後悔してないんだよね。あの時は、あの時で、本気だったから」
「うん」
「でも、もう男に溺れたくないんだ」
少しの間を置いてから、にんちゃんは、ぱっと表情を明るくして続けた。
「人魚だけに!」
「……」
真剣な話の締めに、まさかの一言オチが来るとは思わなかった。だが、そのくだらないジョークの奥に、彼女なりの、確かな覚悟のようなものが見え隠れしていた。今度は誰かのためではなく、自分自身の想いのために、その声を使いたいのだろう。
「今度は、自分のために歌うってことか」
「そういうこと! ……ちょっと、かっこよく言い過ぎたかな」
照れくさそうに笑うにんちゃんに、僕は自然と、力になりたいという気持ちが湧いてきた。
「歌うのはいいとして、音楽の方はどうするんだ? 楽器とか」
僕がそう聞くと、にんちゃんは、きょとんとした顔でこちらを見た。
「斗話くん、楽器できないの?」
「え、俺?」
「うん」
「いや……学生時代に、ちょっとだけギター触ったことあるけど。ほぼできないようなもんだよ」
文化祭のバンドに憧れて買った安物のギターは、結局数か月で押し入れの奥に眠ることになった。あの頃の淡い憧れを思い出し、僕は少し苦笑いした。
「そっかぁ。じゃあ、誰か楽器できる人、探さなきゃだね」
「まあ、それも含めて、今日はみんなに相談してみようか」
にんちゃんの熱意に押される形で、僕はそう提案した。バンド結成となれば、一人二人の力ではどうにもならない。この町にいる、あの賑やかな面々の力を借りるしかなかった。
その夜、僕は連絡できる限りの仲間たちに声をかけた。
「今日、にんちゃんの部屋に集まってもらえる?」
うらちゃん、カグヤ、赤ずきん、ウサギと亀、金太郎、一寸法師。次々と、団地の一室に集まってくる面々を見て、僕は思わず圧倒された。
「こんばんはっス!」
「久しぶりやなあ」
「……久しぶり」
賑やかな挨拶が飛び交う中、一つの部屋に、これだけの個性豊かなキャラクターたちが集結する光景は、なかなかに壮観だった。僕と赤ずきん以外は、皆この団地に住んでいるとはいえ、こうして一堂に会するのは久しぶりのことだった。
「うわあ、みんな来てくれたんだ〜! ありがとう!」
水槽の中から、にんちゃんが嬉しそうに手を振っている。
部屋の隅には、団地の共有スペースから借りてきた座布団や椅子が並べられ、狭い一室が、にわかに集会所のような賑わいを見せ始めていた。
「それで、今日集まってもらったのは」
僕が切り出すと、みんなの視線が、一斉にこちらへと集まった。
「にんちゃんが、歌を歌いたいんだって。それで、バンドを組みたいらしいんだけど……誰か、力を貸してくれる人、いないかな」
部屋の中に、一瞬の静寂が流れた。
その静寂を破ったのは、意外にも、あの筋肉質な男の一言だった。
「わい、ドラムなら叩けるで」




