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第32話 水槽の中の来訪者



 朝、玄関を開けた僕の視界に飛び込んできたのは、巨大な水槽だった。


 その中には、下半身が鮮やかな魚の尾びれ、上半身は水着をまとった、目を見張るような美女が収まっている。長い髪が、水中でゆらゆらと揺れていた。


「……」


 僕は、しばらく黙って、その光景を見つめた。


(もう、驚かないな)


 自分でも驚くほど、心が凪いでいた。玄関先に手のひらサイズの男が立っていようが、水槽ごと美女が届こうが、今の僕にとっては、もはや日常の延長線上にあるらしい。この数か月で、僕の常識の許容範囲は、明らかに拡張されていた。


「はろー! 人魚姫のにんちゃんでぇ〜す♪」


 水槽の中の彼女は、ぱちん、と可愛らしくウインクをしながら、元気よく名乗りを上げた。


「私、初めてこっちの世界に来るから、色々教えてくださいね〜!」


 その声色は、これまで会ってきたどのキャラクターとも違うタイプの明るさだった。屈託のない笑顔と、弾むような口調。声を失うという運命を背負った童話のヒロインという印象は、今のところ、微塵も感じられなかった。


「よろしく。……とりあえず、この水槽ごと家に入れるのは、ちょっと難しそうだね」


 玄関の幅を見る限り、この巨大な水槽は、明らかに規格外だった。


 仕方なく、僕はスマホを取り出し、二人の男に連絡を入れた。


「もしもし、金太郎? ちょっと手伝ってほしいことがあって」

「おお、任せろッス! なんスか?」

「亀さんも一緒に来てもらえる? 力仕事なんだけど」

「ほな、すぐ行きますわ」


 十分もしないうちに、筋骨隆々の二人が颯爽と現れた。


「うおお、でっかい水槽ッスね! 面白そう!」

「あんた、ホンマに人魚か。テレビでしか見たことないわ」


 興味津々の様子で水槽を覗き込む二人に、僕は事情を説明し、団地の空き部屋まで運んでもらうことにした。


「よっしゃ、任せとけ」

「せーの、ッス!」


 二人がかりで持ち上げると、あの巨大な水槽も、意外なほどあっさりと持ち上がった。ガラスの中で、にんちゃんが「わ、揺れる揺れる〜」と楽しそうに声を上げている。


 団地の空き部屋に無事に水槽を設置し終えると、金太郎と亀は満足げに額の汗を拭った。


「ほな、わいらはこれで」

「また何かあったら呼んでくださいッス!」

「ありがとう、二人とも。助かったよ」


 僕がそう声をかけると、二人は軽く手を振りながら、団地を後にしていった。あの体格と力を、こんな形で頼りにできる日が来るとは、うらちゃんの一件を思い出すと、なんとも感慨深いものがあった。


 二人を見送ったあと、僕はあらためて、にんちゃんと向き合った。


「そういえば、買い物とか、こっちでの生活はどうするつもりなの?」

「あ、それなんだけどね〜」


 にんちゃんは、水槽の中でくるりと一回転すると、少しだけ照れくさそうに答えた。


「魔女からもらった魔法の飴があるの。それを舐めると、人間になれるんだ〜」

「半分?」

「うん。脚が生えて、こういう感じで歩けるようになる、みたいな」


 にんちゃんは、水槽の外に魚の部分の尾だし、その先で人間の脚のように動かす仕草をしてみせた。想像しただけで、なんとも不思議な光景だった。


「ただし、代わりに声が出せなくなっちゃうんだよね」

「……え、声が?」

「そう。魔女の魔法だから、代償があるみたい」


 あっけらかんと語るその内容に、僕は思わず言葉を失った。声を失う代わりに人間の脚を得る。それは、まさに、あの物語そのものだった。


(そういう仕組みなのか……)


 伏線めいたものを感じつつも、今はまだ、それを深く追及するタイミングではない気がした。


「声が出せないと、色々不便だろうし」


 僕は思いついて、後日、にんちゃんの分のスマホを契約してきた。


「はい、これ。文字なら打てるだろうし」

「わあ、ありがとう斗話くん! さっそく使ってみるね〜!」


 にんちゃんは、水かきのついた指先を器用に動かして、慣れない様子ながらも嬉しそうに操作を試していた。


 それから数日が経った、ある日の午後。


 僕のスマホに、一件の通知が届いた。


『相談したいことがあるんだよ〜』


 にんちゃんからのメッセージだった。いつもの明るい絵文字付きの文面だったが、その内容には、どこか少しだけ、真剣な響きが滲んでいるような気がした。


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