第22話 筋肉と記憶
朝、玄関のチャイムが鳴った。
これだけの経験を積んでおきながら、僕はもう「また誰か来たか」程度の感覚しか持てなくなっていた。慣れというのは、恐ろしいものだ。
戸を開けると、そこに立っていたのは、これまでで最も規格外な体格をした男だった。
亀より一回り小さい、だが、その分密度が違う。全身にみっちりと詰まった筋肉が、月明かりの下でも隆起して見える。服装と呼べるものは、腰に巻いた真っ赤なひし形の前掛け一枚だけだった。
「……ッス!」
開口一番、その声には、明らかな快活さがあった。以前会った童話のキャラたちのような、怯えも中二病も、その気配は微塵もない。
「あの、お名前は」
「金太郎ッス!」
元気よく、そう名乗る。予想はしていたが、実際に本人を目の前にすると、その筋肉量には圧倒されるものがあった。
しかし、次の瞬間、金太郎は僕の顔を、まじまじと覗き込んできた。
「……ん〜。」
「え?」
「この家、見覚えあるッス。もしかして、坊主か?」
その言葉に、僕は戸惑った。初対面のはずなのに、まるで旧知の仲であるかのような口ぶりだった。
「以前、この家に来たことがあるんですか?」
「あぁ、あるッスよ。二十五年前くらいかな。あんたの親父さんに呼ばれたんスよ」
二十五年前。父が生きていた頃の話だ。その事実に、僕の胸の奥で、何かがざわりと音を立てた。
「……父に?」
「せやせや。あんたも、まだこんくらいの、ちっこいガキんちょでな」
金太郎は、自分の腰のあたりに手を当てて、当時の背丈を示してみせた。
「……俺、その頃のこと、全然覚えてないです」
僕がそう言うと、金太郎は一瞬だけ、その屈託のない笑顔を曇らせた。
「……別に、思い出す必要のないことッスよ」
声のトーンが、ほんの少しだけ落ちた。それ以上は何も語らず、ただ、遠くを見るような目をしている。その横顔には、これまでの陽気さとは違う、何か重たい影が差していた。
(何かある……)
そう感じたが、それ以上踏み込んでいいものか、僕には判断がつかなかった。父と、金太郎の間に、いったい何があったのか。それを知る手がかりは、今はまだ、何一つない。
「……まあ、それより!」
金太郎は、わざとらしいほど明るい声で、話題を変えた。切り替えの早さも、彼なりの気遣いなのかもしれない。
「あんた、聞きたいことあるんちゃう? この体のこと」
「あ、はい、実は」
僕は、正直に切り出すことにした。
「童話の金太郎って、確か、熊と相撲を取るくらいの怪力……ってイメージなんですけど、こんな、筋肉ムキムキな感じでしたっけ?」
「せやろ! 気になるよなぁ!」
金太郎は、待ってましたとばかりに、胸の筋肉を誇らしげに盛り上げてみせた。
「実はな、25年前にこっちに来たとき、たまたま見た漫画があってな」
「漫画?」
「格闘漫画。囚人のキャラが出てくるやつ。誰にも縛られへん、自由な男が出てくるんスよ」
僕の脳裏に、心当たりのある作品がよぎった。ああ、あの漫画か。有名な、鎖も牢屋も意味を成さない、規格外の主人公が出てくる、あの作品だ。
「あれ見て、痺れましてなあ。こんな肉体、俺も欲しいって」
「それで、こうなったんですか」
「せや! それから、ずっと鍛え続けてるッス!」
誇らしげに語る金太郎の姿は、先ほどの陰りが嘘だったかのように、完全に元通りの明るさを取り戻していた。切り替えの速さは、動物と相撲を取るときの瞬発力にも通じるものがあるのかもしれない。
というわけで、金太郎の住まいは、いつも通り団地に決まった。仕事の方も、僕の伝手で、木こりの仕事を紹介することになった。
「木こり! ええッスねえ! 力仕事、大好きッス!」
勢い勇んで、金太郎は伐採所へと向かっていった。案内された作業場では、大型のチェーンソーが何台も並び、それを使いこなす作業員たちが忙しく動き回っている。
だが、金太郎が手に取ったのは、チェーンソーではなかった。
団地から自分で持ち出してきたらしい、巨大なマサカリ。刃渡りだけで、優に50センチはありそうな、時代錯誤とも言える一本だった。
「あの、チェンソーの方が、効率いいと思うんですけど」
作業員の一人が、恐る恐るそう声をかけた。
「いや、俺はこれでいくッス!」
金太郎は、そのマサカリを軽々と担ぎ上げると、目の前の木に向かって、一気に振り下ろした。
ゴッ、という重い音とともに、太い幹に深く食い込む刃。それを何度も何度も、リズミカルに繰り返していく。
「せい! せい! せいッ!」
その掛け声とともに、木は次々と倒れていった。チェーンソーを使う作業員たちが、呆気に取られたようにその光景を見つめている。
「……これ、あの筋肉の秘密っスかね」
誰かが、そう呟いた。まさにその通りだった。マサカリ一本で木を切り倒し続ける日々の積み重ねが、あの規格外の肉体を作り上げているのだ。原始的すぎるトレーニング方法だったが、その結果だけは、疑いようもなく雄弁だった。
夕暮れの伐採所に、金太郎の掛け声と、木が倒れる音が、いつまでも響いていた。




